9.そしてそれから(下)
「そうだ、ユルゲンくん。言従士認定登録をすれば働きに応じて操言士団から収入を得られるけど」
「今さらだな。ぶっちゃけ、言従士認定登録ってのは義務じゃねぇんだろ」
「うん、実はね。その人が言従士かどうか、結局のところ自己申告ありきだからさ。そんな申告を義務化する意義ってのがあまりなくてさ」
「それなら、俺はこのまま平和民団の所属でいい。操言士団に認めてもらわずとも、俺は紀更と共に行く。傭兵としての仕事を完全に失うのも、正直乗り気じゃないからな」
「そうだね。操言士団からの認定なんか、キミには必要ないね」
王黎はにっこりと笑った。
その王黎のほほ笑みを妙に不愉快に思ったユルゲンだったが、紀更が付いてきていないことにふと気が付き、後方を振り返る。すると操言支部会館の入り口付近で、白い操言ローブを羽織った男性操言士と会話している紀更が目に入った。
「君、王都の操言士なんだ? いつまでポーレンヌにいるの? 王都の様子を知りたいからさ、今からちょっと時間をもらえないかな」
(ナンパか)
のしのしと大股で歩いて操言支部会館の入り口に戻ると、男性操言士の声が聞こえる。それがあまりにも普通すぎるナンパの台詞だったので、ユルゲンは表情筋に力を入れた。
「どうかしたか」
ユルゲンは紀更の背後から紀更に話しかける。と見せかけて、男性操言士に鋭い目線を送った。突如現れた屈強な男の迫力に、紀更の対面にいた男性操言士は身をすくませる。
「えっ、だ、誰ですか」
ひるんだ男性操言士の問いには答えず、ユルゲンは引き続き、鋭い三白眼で威圧した。男性操言士は負けまいと背筋を伸ばしてみたが、体格も雰囲気も、黒髪の傭兵に勝てる要素は見当たらなかった。
「ユルゲンさん、こちらはポーレンヌの操言士マルコさんです」
操言士として話しかけられて、世間話を振られただけ。素直な紀更はそう受け取っているようで、マルコの下心などは一切想像せず、自分が言い寄られている自覚など皆無のようだ。無防備にもほどがある。相手が脅威でもなんでもない男だったからよかったものの、異性から向けられる視線の意味にもう少し敏くなってほしいものだ。
「ポーレンヌの祈聖石を管理している民間部の方だそうで」
「そうか」
ユルゲンは紀更の話を遮ると急にかがみ、わざと音を立てて紀更の頬に口付けた。そんなことをされると思っていなかった紀更は一瞬表情をフリーズさせてから、すぐに頬を赤く染めてユルゲンの腕をたたいた。
「ユルゲンさん! もうっ、なに、なにするんですかっ!」
「紀更がかわいくて、つい」
「っ……い、いいの、人前で言わなくてっ!」
「あ……あー……ははっ」
先ほどまでこちらを睨んでいた青い瞳が、打って変わって蜂蜜のような甘さをはらんで少女を見つめる。そのギャップが妙に怖くて、マルコは乾いた笑い声を上げて後退った。
「あ、じゃ、じゃあ……俺はこれで!」
「えっ、あ、はい。さようなら」
にこにこと話しかけてくれたマルコが急によそよそしい態度で不自然に去っていったので、紀更は不思議そうに小首をかしげた。
「紀更、君は俺と王黎以外の男と二人きりで話すのは禁止だ」
「え、ど、どうしてですか?」
突然の禁止命令に紀更は目を開いてきょとん、とした。そんな紀更の頭をユルゲンは手の甲でこつり、とたたく。
「そういうところがな、心配だからだ」
「そういう?」
「王黎、明るいうちに行くぞ」
ユルゲンは疑問符を浮かべている紀更の手を取った。ユルゲンが一本ずつ指をからめてきたので、紀更は恥ずかしさに俯いて視線を落とす。
「いいねえ、ユルゲンくん。その一途なところ、惚れちゃいそうだよ」
「馬鹿言うな」
紀更の手を引くユルゲンを、王黎はほほ笑ましく見守った。ユルゲンは馬をつないでいる公共厩舎に向かうべく、ポーレンヌ城下町の通りを歩いていく。
「ところでキミ、紀更のご両親に挨拶したのかい?」
「まあ、軽くな。まだ警戒されてはいるがな」
「えっ、え!? 挨拶ってどういうことですか!」
寝耳に水の話題が聞こえて、紀更の恥ずかしさは吹き飛んだ。だが、まだ少し顔を赤くしたまま、あわあわと口を開けて紀更は戸惑う。
「ユルゲンさんっ!」
「ん?」
「ん、じゃなくて」
「さっきの続きか?」
「さっきの?」
ユルゲンは一度足を止めて、紀更を見下ろした。
紀更の栗色の髪は陽の光を浴びてつやつやと輝き、おさげにしていないので少しだけ大人びて見える。瑞々しい緑色の瞳はまん丸いビー玉のようで愛らしい。ぷっくりとした唇はとても美味そうに見えて、今度は頬では我慢できず、ユルゲンは紀更の顎に手をかけるとその唇を食んだ。
「っ~……」
もう、と言いかけて、紀更は声を呑み込んだ。
初対面の操言士が目の前にいようが王黎が近くにいようが、ユルゲンには関係がない。いつでもどこでも、あふれんばかりの愛情をこうして示してくれる。もう少し控えめでもいいのに、と思いつつも、その愛情表現がどれもこれも嬉しいから、結局のところ紀更は許してしまうのだ。
「紀更」
「なん、ですか」
王黎と最美の視線をそれとなく感じる。気まずさを隠せず、紀更の返事は少しだけ無愛想になった。しかしユルゲンは気にせず、紀更の頬を大きな手のひらで愛おしそうになでながら告げた。
「この先もずっと、俺は君を守る。君と共に生きる。俺が君の言従士だから、というのもあるが」
「ある、が?」
紀更が続きをうながすように上目遣いでユルゲンを見上げると、そこには世界で一番優しい笑顔があった。
「君のことがいとしくてたまらないからだ。好きだよ、紀更。愛してる」
◆◇◆◇◆
それから多くの時間が流れた。
ゆるやかな時代の変化など、今を生きている人々にとってはあってないようなものだったが、世界のありさまは確実に変わっていた。のちにこの時代が、大きな転換期だったと評されるほどに。
「ねえ、ユルゲンさん。憶えてる? 私、初代操言士の……奏桜さんの生まれ変わりだ、って言われて、いやだったの」
紀更は、すっかり老いた声で静かに語りかけた。最愛の人からの返事はなく、ただ黙って紀更の声に耳をかたむけてくれている。
「だって、前世なんて憶えていない。私は〝わたし〟しか知らなくて、〝わたし〟にしかなれない。私はほかの誰かじゃなくて、私だもの。だけどあの夜、ユルゲンさんが呟いた〝カナ〟って名前はきっと、奏桜さんのことだったと思うの。それに、水の村レイトで初めてあなたと目が合った時、私はあなたを知っている気がしたの。もしかしたら、魂は憶えているのかもしれないわね。今の〝わたし〟になる前のことを……前世を」
あたたかく降り注ぐ日差しの下で、穏やかな風が吹いている。こんな日は、いとしい人と語らうのが一番だ。
「私ね、生まれ変わりがいいなって……今は思うのよ」
人は変わる。長く生きていく中で考え方が、価値観が、嗜好が、求めるもの、優先すべきものが。すべてが変化するのではなく、決して変わらない部分を抱えながらも、人は柔軟に変化していく。だからこそ、人はどの時代も生きていけるのだろう。
「どうしてだと思いますか」
いつもこちらをやさしく見てくれた青い瞳は、そこにはない。それでも構わずに紀更は続けた。
「だって私、またあなたに逢いたいの。またあなたと一緒に旅をして、一緒に生きて、あなたを愛したいから」
穏やかな自分の呼吸。ゆっくりと吸い込む風のあたたかさが、徐々に薄らいでいく。言葉を紡げるのも、きっと今日が最期だろう。
「あなたにまた逢えるなら、生まれ変わりたいわ。でも、生まれ変わった私はまた同じことを言うと思うの。生まれ変わりなんて知らない、私は私だ、って」
ふふっ、と紀更は静かに笑った。その声は誰にも届かない。広い共同墓地には誰もいない。ふらっといなくなった紀更を心配して誰かが捜している頃かもしれないが、紀更はどうしても、のどかなこの昼下がりにいとしい人と語らいたかった。
「私、結構頑固なのよね。ユルゲンさんは十分、知っていたと思うけれど」
大陸に残っている怪魔をすべて斃して、人々が怪魔に怯えずにすむ世界を実現する。そんな操言士になりたい――なんて青臭い考えだっただろうか。でも、ユルゲンは一度たりとも笑うことはせずに、紀更が進むと決めたその道を一緒に歩いてくれた。その後の紀更の操言士としての大仕事も、紀更が見事に完遂するまでずっと傍で支えてくれた。言従士として、生涯の伴侶として。
「また……逢えるかしら……。あの、物語……みたいに」
――わたしが死んだら、わたしの魂は次のあなたを探しに行くわ。
――ぼくが死んだら、ぼくの魂も次の君を必ず探し出す。
私があなたを探して、あなたも私を探して、いつかまた、どこかで。
今とは違う形の肉体だとしても、今とは違う色の心だとしても。
私の魂が、あなたの魂を。
あなたの魂が、私の魂を。
お互いに探し合って、求め合って、そうしてまた――。
「あなたを……」
愛して、愛されて。
そうして二人でまた、新たな螺旋を描きたい。
「何度、でも……」
紀更の身体から力が抜ける。嘘みたいに軽くなったようだ。倒れ込んでふれた彼の墓石の冷たさが沁みるが、解放的でいい気持ちだった。
「ユ、ル……ン……さ、ん……愛、し……」
徐々に閉じていく瞼。
ぼんやりとかすんでいく視界には、優しくてあたたかい、朱色の光。その色はゆっくりと縹色に変わり、紀更の視界は闇に染まっていく。
――紀更、頑張ったな。
ああ、よかった。あなただ。大好きなあなたが見える。
もう、この胸がふと痛むことはない。
あなたの傍にいられるから。
あなたが傍にいてくれるから。
愛しています。あなただけを、これから先も永遠に。ずっと、ずっと。
――ユルゲンさん。
背中合わせの光と闇。交互に始まっては終わる、昼と夜。
生命をもたらす父と母。二人で一人、ふたつでひとつ。
決して離れることのない、さだめの星。
今日も世界は、ヒオクダルスの二重螺旋によって紡がれていく。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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