5.離別(中)
「こう、らい……」
柱に打ちつけた頭が、まだぐわんぐわんと重く痛む。その回る視界で紀更の目に入ったのは、人型に戻った紅雷の背中だった。
「っ……き、さら……様……よかっ……間に合っ」
――ぐしゃり。
紅雷の身体が、紀更に向かって倒れる。仰向けになった彼女の腹部には、ライオスの爪で引き裂かれた無残な傷跡が伸びていた。
「っの……ヤロー……」
倒れた紅雷のその奥では、閉じられた右目から血を流しているタテガミライオン型のライオスが、これでもかと左目を見開いて紀更を睨んでいた。その腹には、きらりと光る二本の刀が刺さっている。紀更をかばった紅雷を裂いた瞬間に、背後からユルゲンに刺し貫かれていたようだ。
「ふんっ」
ユルゲンは両刀を引き抜くと、最後の一撃と言わんばかりにもう一度ライオスの身体に両刀を突き刺した。右手の刀の手応えからして、確実にライオスの心臓を貫いたことがわかる。崩れゆくライオスから両刀を抜くと、返り血でユルゲンの頬が赤く染まった。
「ユ、ルゲンさん……っ……こ、らい」
紀更は混乱した頭で、仰向けで倒れた紅雷の肩を揺さぶった。
「こっ……紅雷っ、紅雷!」
「ん……紀更、さま」
大好きな声に名前を呼ばれて紅雷は身じろぎをしようとした。けれども、もう身体には力が入らない。
「マーク、出口を探せ!」
「おっ……おう!」
ユルゲンが怒鳴ると、マークはハネウマ型から人型に戻った。そしてしばし視線だけを動かして考え込んだが、馬龍たちが向かった玉座の背後に思い至り、玉座のうしろへと走る。ライオスの操言の力によって柱に入ったヒビは、徐々にその割れ目が大きくなり、崩壊が近いことを示している。急いでここから出なければ、全員仲良く生き埋めだ。
「紅雷、だめ……だめよ、起きて! お願い!」
「おき……て、ます……よ」
ユルゲンは両刀を鞘に納めると、タテガミライオン型のまま絶命したライオスの遺体を乱暴に蹴り飛ばした。そして紅雷の傍に膝を突くと、羽織っていた外套を脱ぎ、紅雷の腹にかけて無残な傷口を隠してやる。そうすると、仰向けで転がる紅雷はこれからただ寝ようとしているだけのように見えた。しかし彼女の身体の横には、血の湖が徐々に広がっていく。受けた傷は相当深いようだった。
「こ、らい……っ」
大きな涙の粒が、紀更の頬に洪水となって流れた。頬に垂れてきたその涙がとても冷たくて、紅雷は苦笑する。
「だ、じょ……き、……さま……なか……い、で……」
「紅雷!」
嗚咽する紀更は、ただ紅雷の名前を呼ぶことしかできない。守ってくれてありがとうとか、大丈夫きっと助かるとか、何かなんでもいい。声をかけてあげたいのに。
「いっ、て……とま、ら……で……あい、つ……敵……なん、とか……」
「うんっ……うん、でも紅雷っ」
あなたも一緒に行くのよ。あなたは私の言従士なんだから。
私が戦うなら、あなたも一緒に戦ってくれなくちゃ。
こんなところで寝てる場合じゃないの。
「きさ、ら……ま……大、すき……あたし、の」
紅雷が最後の力を振り絞って、紀更とそう変わらない細い腕を持ち上げる。その左手首に巻かれているミサンガが、ゆっくりと光を失っていく。そこに込められた紀更の操言の力がゼロになったようだ。
「ご主、じ……さま……しあ、わ……せ……に」
「っ……紅雷?」
沈黙しているユルゲンの青い瞳も紅雷を見下ろす。彼女が、その生涯を終える瞬間を。
「紅雷……紅雷っ……ねえ、紅雷……なんで……ねえ、起きてよ!」
紀更に伸ばされた紅雷の腕が、力をなくしてぱたりと落ちる。
紅雷は世界一幸福な笑顔を浮かべると、静かに目を閉じた。
「紅雷っ――」
紀更は絶叫する。
だがその声を上回るほどに、ピラーパレスが崩れゆく音は激しく鳴り響いた。
◆◇◆◇◆
「また、誰かが逝く」
そして私は涙する。肉の器など、とうの昔に滅びているのに。
(目が開かない)
何も見えない。それでも胸の中は熱くなっている。心が、確かに感動している。
「私は、〝私〟のまま変わらずにいたかった」
死んでしまったら、すべてが終わってしまう。それが怖かった。
「〝私〟で在ることの定義は、私の肉の器に、私の心が、私の魂をつなぎ止めていること。私の肉の器はとうの昔に滅んだけれど、私の魂は私の心と一緒にここに在る……私は〝私〟のままでいると言える」
[そうかもしれへんね]
「でも、魂は本来、天に昇って巡るもの。彼女も彼も、前とは違う肉の器を持ち、そして新しい心を宿したけど魂は同じ……魂だけは変わらない。定義が違う? この魂さえ失わなければ、私は〝私〟でいられるの?」
[魂も変容するで。空の色が変わるように、木々の葉の色が変わるように。そのために、魂は地に降りて生きるんやから]
独り言のつもりだったが、誰かの声がとても明確に対話をしてくれるのでラルーカは不審に思った。その声の主を見定めようと思ったが瞼は開けられないし、手足も自由には動かない。自分はただ、意識体として存在しているだけのようだ。
「魂も変わる……。違う肉の器、違う心、変わってしまった魂……それでも、彼女は彼を見つけました。彼もまた、彼女を見つけました。どうして? 何もかもが変わってしまって、もう〝自分〟ではないのに……どうしてまた」
[せやね。前と同じで変わらんね]
「変わらない? 魂も不変ではないのでしょう? 肉の器も、心も、魂も……不変のものなどありはしない。私はいつか、〝私〟ではなくなってしまうのでしょう?」
[うーん……変わらんもんもあるみたいやで]
「それは何? 魂ではないの? それとも心なの?」
[心も変わるんとちゃう?]
「あなたは知らないのですか」
[うーん、知らんねえ。というかわからん。魂を肉の器にとどめるための軛。それを心と呼ぶんやったら、ボクは心なんかあらへんもん]
「何もかも、すべては変わるもの……でも、彼女と彼は変わらない」
変わらないものとはなんだろう。神が司る魂ですら変容し、変化し、同じ姿、形、色を保たないのなら――いったい何が不変と言えるのだろう。
[不思議やね。せやからボクも、その変わらないものに興味津々なんよ]
「肉の器が死んで、魂が天に昇り、そしてその魂は別の誰かに生まれ変わる。新しい人間になる。それでも変わらないものとは」
それはなんだ。
彼女と彼は、いったい何が変わっていないというのか。
[〝次の君〟の時は、それが見つかるとええね]
「次の私?」
[ま、もう少し頑張ってや。君のココでの役目をな]
「ラルーカ、独り言は終わったかぇ」
突如聞こえたクォンの声に、ラルーカははっと我に返る。すると不思議なことに、普通に目を開いてクォンのフード姿をとらえることができたし、周囲もいつもと変わらない、ひんやりとした空気のただよう始海の塔の中だった。
「クォン、今の声が聞こえましたか」
「残念ながら、おみゃーさんの独り言しか聞こえなんだ」
「そうですか」
「ラルーカよ」
フードをかぶったままのクォンが、ラルーカを見つめる。
「儂らの役目もあと少しじゃ。まずは静かに見届けようぞ――」
――つらく悲しい宿命であることを承知したうえで生き抜いた魂の最期を。
誰にでもできることではない。強く清いからこそできる、気高き務めを。
クォンに言われたラルーカが再び目を閉じると、誰かの記憶が静かに流れ込んできた。
――気を付けてね。
故郷を出る時に最後に言葉を交わした母の声が、ふとよみがえった。
(お母さん……ごめんね、心配させたよね)
アルソーの村での生活は気に入っていた。
両親と兄弟姉妹に囲まれて、喧嘩したり笑い合ったりしながら送る日々。
普通のその生活が幸せで、満たされていると思っていた。
けれども一年前の、激しい雨が降り、幾度も雷が落ちたあの夜から、紅雷の人生は大きく変わった。何かが不足していて物足りない。探して見つけたい何かがある。その衝動をこらえきれなくなって、後先考えずに故郷を飛び出した。最後に見送ってくれた母の笑顔をこんなにもあたたかく思い出すのは、自分がまだまだ子供だからだろう。
(落ちていく、みたい……死んだら、魂は天に……昇るんじゃ、ないの)
身体の感覚はもうない。こうしてたゆたっている意識も形を失いつつある。まるで周りにとけ込んで消えていくようだ。周囲には何かがあるわけでもないのに。
(紀更様……どうか幸せに)




