8.覚悟(下)
「ねえ、紀更様。あたしを信じて、任せてくださいね」
夕餉と湯浴みをすませ、あてがわれた女性用の客室で就寝準備を終えた紅雷は紀更にそう言って頼んだ。
「怪魔が相手じゃなくったって、あたし、戦えますから」
「紅雷、でも」
「でも、じゃないの! 紀更様、傭兵さんの言うとおりです。ピラーオルドの幹部は一発や二発……ううん、もっと殴って黙らせないと! だって、あたしの紀更様を攫って怖い目に遭わせたんですよ! 二度とそんなことできないように、あと、怪魔をあちこちにばらまけないように、あたしがやっつけます!」
紀更はためらいの色を瞳の奥に滲ませた。
殴って黙らせるだけですむならいい。でも、それで本当にピラーオルドは止められるだろうか。自分たちが本当にすべきことは殴って黙らせることではすまず、殺すことなのかもしれない。
(紅雷は、それをわかって言ってる)
紅雷とは幾度となく、共にピラーオルドと戦ってきた。ンディフ墓地ではかなりの大ダメージも負った。そんな紅雷が、理解していないはずがない。おそらく、相手の命を奪うことでしかピラーオルドを「止める」なんてことはできないのだと。
(それをさせるのは私……紅雷の操言士である私。紅雷だけじゃなくて、きっとマークにも、私はそうさせる)
自分の手は汚さずに。
自分の言従士の紅雷に、殺せと命じる。その重み、黒すぎる罪。
紀更は右手のひらを広げて見つめると、ゆっくりと拳を握った。
「紀更様」
最美がそっと近付いて、紀更を見下ろす。
「ピラーオルドは敵です。国を裏切った、罪深き人たちです。裏切りの理由が彼ら自身の責任ではない不幸なことだったとしても、彼らが長年にわたって大陸中に怪魔を蔓延させたせいで、多くの命が失われてきました。今はその根源を断ち切る最良の機会なのです。迷わないでください」
最美は、紀更の顔をのぞき込む紅雷の背中をやさしくさすった。
「わたくしたち言従士は己の操言士のために……その手足となって操言士の意思を支え、完遂させるために……ただそのためだけに存在しているのです。そうして自分の操言士を支えることが、人生最大の幸福。生きる意義、生まれてきた理由です」
「そうそう! だから、あたしたちにやらせてください。紀更様が願うこと、してほしいこと、全部するから。ほら、マークも紀更様の言従士ですけど、あんなひよっこじゃまだ経験もスキルも足りないし、紀更様を守ることはできるかもしれないけど、でも紀更様の剣に……牙に、あたしならなれるから」
紅雷はぽふんと音を立ててミズイヌ型になった。そして、ベッドに腰掛けている紀更の太ももに前脚を乗せて、身体を伸ばして紀更に頬ずりをする。
「あたし、紀更様に会えて幸せ。紀更様の役に立ちたい。守りたい。だから、紀更様はあたしを信じて、あたしに紀更様の加護をください。操言士紀更の言従士紅雷は、最期まで紀更様のために戦うから」
「うん」
真心を寄せる紅雷に、紀更はただ一言頷いた。ミズイヌ型の紅雷を抱きしめ、それからたっぷりとその毛並みをなで回す。頭も耳の裏も、顎の下も背中も腰も。愛を込めて。信頼を込めて。
紀更の手のひらでなでられるたびに、紅雷の尻尾はぶんぶんと振り回され、はち切れそうだった。
◆◇◆◇◆
「王黎殿、朱の報知球は持っておられますか」
キキョーラの街長の私邸での夕餉が終わったあと、操言士和真が王黎を呼び止めて尋ねた。
「ええ、セカンディアの操言士ビリーさんからお借りしています。朱の光の報知球です」
「わたしは朱の風の報知球を持っています。何かあれば連絡をください」
「報知球をめがけて、手紙を送ればいいんでしょうか」
「手紙でも構いませんが、思念を飛ばすことは、オリジーアの操言士はしませんか」
「思念……そうですね、一般的ではないですね」
オリジーアではあまり馴染みのない連絡方法だったので、王黎は首をかしげた。
「相手に直接呼びかけるイメージで、短い言葉を飛ばすんです。一度に多くの言葉を送ることはできませんが、そうやって自分の思念を飛ばして、離れていても簡単な伝達を行います。急ぎの場合などに便利ですよ」
「報知球はその目印、ということですか」
「ええ。長い内容なら手紙を書いて送るのが一番ですが」
報知球や思念。オリジーアには見られない、他国にある技術や考え方。もしも国と国が友好を結び、互いに持ち得ないところを教え合い、学び合っていけたなら、人々の生活はもっと発展するだろうと王黎は思う。いつかはそんな未来が来ればいいのにとも。
「操文について、フォスニアの操言士はどれくらい知っているのですか」
今度は王黎が和真に尋ねた。
「優大王子の側近だけです。先ほども申し上げたとおり、仕組みや使い方、どのような操文があるのか、広められるほど確かな理論体系になっていないんです」
「詳細があやふやなままで使用者が増えるのは危険ですもんね」
「ええ。ですから、操文が実用化されるのはまだまだ先のことかと」
「あなた方は」
王黎はひと呼吸置いた。
「もしかして、始海の塔のクォンさんやラルーカさんと、連絡を取り合えるんですか。自分たちで調べたにしては、やけに怪魔のことなど詳しいなと思いまして」
「……優大王子いわく」
和真は少しためらったが、おとなしく白状することにした。
「夢を見るそうです。クォンとラルーカが出てくる夢を」
「その夢の中で、話ができるわけですか」
「対話というより、彼らの話を聞いているだけだそうです。彼らは始海の塔から出られない、魂だけの存在です。自由なようで不自由ですからね」
「彼らはフォスニアの操言士だったんですよね。存命の頃はどんな操言士だったのか、ご存じありませんか」
その質問もまた和真には答えにくいようで、和真は複雑な表情を浮かべた。
答えられないならそれで構わないと王黎はのんびり待ったが、和真は口を開いた。
「ピラーオルドの幹部たちのように、国を裏切った操言士……そう呼ぶのが適切かもしれません」
「裏切った?」
「調べたところ、クォンとラルーカが生きていたのは二百年近く前のことです。そのため仔細は不明ですが、フォスニア王家と血縁でありながら、わずかな資料に残る彼らの名前は不自然に少ない。何か、正しくない行いをしたのかもしれません」
「罪人ですか」
「その名札を付けられて死んでいった可能性が高いです」
「それで、始海の塔の中で魂だけになって……そうか、それが二人に与えられた罰なのかもしれませんね」
「それもまた、時の流れに埋もれて見えなくなった出来事です。でも、今は彼らの助言があるからこそ、我々は動ける。ステファニー女王に伝えればあなた方がここにやって来ると教えてくれたのも、優大王子の夢の中に出てきたクォンとラルーカです」
ゼルヴァイスで始海の塔を目指そうという流れになった時、ゼルヴァイスの操言士ヒルダも、夢の中で誰かから何度もお願いされたと言っていた。もしかしたら優大が見る「夢」はクォンとラルーカの意思によるものではなく、塔の意思によるものなのかもしれない。
「和真殿、もしもあなたが生きている間に余裕ができたら、オリジーアのゼルヴァイス城へお越しください。あなたの言従士が、そこにいます」
王黎がそう言うと、和真の瞳はわずかに光った。
「驚かないということは、ご存じでしたか」
「いえ、なんとなく……。ゼルヴァイス城の城主に手紙を託した時から、あの場所には何か惹かれるものがあるような気がしていました。むしろその何かの存在を知るために、わたしは優大王子のメッセンジャーとしてかの地に行ったのではないかと」
「それはよかった。それを聞いたら、あなたの言従士は喜びのあまり飛び上がるでしょう」
「ですが、わたしはフォスニア王家に仕える操言士です。私事を優先にはできません」
和真がそう言うと、王黎はほほ笑んだ。
「ええ、ですから生きている間のいつかで構いません。一度会えば、あとは言従士があなたに付いていきますから。そう難しいことはありませんよ」
「フォスニアに連れてこいとおっしゃるのですか」
「現に、紀更の二人目の言従士マークはセカンディアから付いてきました。それにもしかしたら、十年後とかの未来では国と国が友好を結び、人や物が自由に行き来しているかもしれません。怪魔がいなくて平和な世界もいいですが、国境を越えて人々が関わり合うそんな未来も悪くないと思いませんか」
和真は答えなかった。
王黎はそのことを不満には思わず、それでは、とほほ笑んで客室へと足を向けた。




