3.手始め(下)
(私もそうだった……操言士の人って、遠い世界の人のような気がしてた)
操言士とは、具体的に何をしているのか知らないが、神様に選ばれた何かすごい人。その程度の認識しかない一般市民の目の前に突然操言士が現れれば、思わず様付けしてしまうだろう。そしてそれは、操言士の数が少ない地方都市になればなるほど顕著だ。
「このラフーアじゃ、操言士より音楽家の方が尊敬されるから、操言士に疎い人たちが多いんだ。だから、〝なんかすごい人〟のちょっとした頼みならまあ、聞いてくれるかなってね。〝選ばれし者〟とかって見方は、僕は好きじゃないけどね」
そう言いながら、王黎は足を止める。
学舎の裏の敷地には、井戸やゴミ捨て場があった。薪などの資材置き場にもなっていたが、それでもなお敷地は広く、空いているスペースの方が広かった。
「ここなら楽器の音も聞こえにくいし、集中できそうだね」
王黎は大きめのショルダーバッグの中から敷物を取り出すと、乾いた土の上にそれを広げた。いよいよ、ピクニックの様相を呈してくる。
「王黎殿、自分は同席しない方がいいでしょうか」
いそいそと敷物の上に座る王黎とは違って、ルーカスは真面目に問いかけた。
「いや、構わないよ。すぐ近くに祈聖石があるから怪魔に襲われる心配はないと思うけど、護衛対象の紀更の近くにはいたいよね? 素振りでも腕立て伏せでも好きに過ごしてくれていいし、なんなら楽にしていてくれていいよ」
「わかりました。念のため、少しあたりを探ってきます。周囲の安全が確認できたら、お二人が見える位置で護衛にあたりますね」
そう言い残して、ルーカスは敷地内にある木々の中へ無造作に入っていった。
敷地の奥、特に北側と東側は深い森が広がっており、ドレイク大森林へとつながっている。このあたりのまばらな木々が、ラフーアの街とフィールドの境界線と言ってもいい。怪魔は人の手の加えられていない自然区域で発生するので、周囲に怪魔がいないか警戒しておくことは大切だ。
ルーカスがそうして周囲を警戒してくれることをありがたく思いながら、王黎は紀更にも座るようにうながした。
「さて、じゃあ、修行を始めようか」
「よろしくお願いします」
修行というにはあまりにもピクニックの雰囲気が強い気がしたが、紀更は敷物の上に腰を下ろし、王黎に礼をした。
「紀更は、レイトで操言の力を使った時の感覚を憶えているかい?」
「キヴィネと戦った時のことでしょうか。あまりはっきりとは……必死だったものですから」
「じゃあ、僕が力を使った時は? 祈聖石の擬態を解いたり、祈りを込めたりした時の」
「それは憶えています」
「どのタイミング?」
「う~ん……全部、印象的で」
王黎が紀更のすぐ傍で操言の力を使ったのは、水の村レイト周辺の祈聖石を巡った時だ。ノノニス川のほとりで、ドレイク大森林と野菜畑の境目で、ヤージュの森で。祈聖石の擬態を解き、祈りを込める。目の前で繰り広げられる、なんと鮮やかでなめらかな操言の力の使い方。自分が操言の力を使った時のことはほとんど憶えていないのに、王黎の力の流麗なる波動は、鮮明に思い出せる。
「じゃあ、別の質問をするね。リンゴって何かな」
「え、リンゴ……ですか」
「そう、リンゴ」
「果物ですよね」
「それから?」
「それから……赤くて、甘い果物……あ、寒い時期が旬です」
「うんうん」
一言でも多くリンゴについて語ろうとして口ごもる紀更を、王黎は穏やかに見守る。だがそれ以上紀更がリンゴについて言えることはないようだった。
「終わり?」
「はい」
王黎の意図がつかめないこともあって、紀更は重く息を吐いた。
「僕がリンゴって言った瞬間、紀更は頭の中にリンゴを思い浮かべたよね?」
「えっと……はい。たぶん、思い浮かべたと思います」
「もう一度、いま、頭の中にリンゴを思い描いてみて? 思い描いたリンゴは、〝リンゴ〟という文字じゃなくて、リンゴそのものじゃないかな? 赤くて、ヘタがある、皮が硬くて、拳大くらいの塊だ」
「はい……そうです」
「操言士が行きつく最高の高みは、このリンゴなんだ」
紀更は首をかしげて、疑問符をこれでもかというほど頭上に浮かべた。
操言士の高みがリンゴ、というのがピンとこない。理解が及ばない。
そんな紀更の反応は想定の範囲内なのか、王黎ゆっくりと再び尋ねた。
「〝リンゴ〟という言葉を聞いて〝赤い塊〟を思い浮かべるために、〝リンゴ〟という言葉のほかに〝甘い〟、〝果物〟、〝寒い時期〟、それらの言葉が必要だったと思う?」
「いえ……必要ないと思います」
王黎が問いかけていることの本質がまだわからず、紀更は自信なさげに首を振った。
「〝リンゴ〟という言葉を聞いたその瞬間、僕らはほぼ同時にリンゴそのものである〝赤い塊〟の画をイメージできる。言葉と、画やイメージ。ほんの一瞬の時間差はあるけど、僕らの中でそれらは同時に想起される。これを操言士に当てはめると、どういうことだろうね?」
「うーん……」
「操言院で学んだことも思い出しながら、考えてごらん」
唸る紀更を、王黎は無言で待った。
紀更は王黎のヒントをもとに、この一年間、操言院で学んだことを思い起こした。そして、リンゴの例えを自分なりに咀嚼してみる。
「あっ……もしかして」
「何かな?」
「操言の力を使う時……つまり言葉を発する時、その言葉のイメージを時間差なく、一瞬で思い描かないといけない……ということですか?」
「ピーンポーン! やるねえ、正解」
王黎はわざとらしいくらいに笑って、紀更を褒めた。
「操言の力は、言葉を操ることで森羅万象に干渉する力だ。その力を最大限に引き出すためには、干渉する森羅万象、つまりこの世界のありとあらゆるものを強くイメージすることと、そのイメージを表すのに適切で磨かれた言葉の両方が必要なんだ」
王黎は肩の高さに、左右の手を拳にして上げた。そして、左右同時に平手にしたり、ばらばらのタイミングで拳に戻したりを繰り返した。
「そして、この左手と右手のように、イメージと言葉、言葉とイメージ、そのふたつが同時に発現すればするほど、力はより強く発揮される」
「それが操言士の高みですか」
「たとえば、〝リンゴよ揺れろ〟、と言葉にするだろう?」
王黎は右手の指を閉じたり開いたりする。その動作を止めることなく、器用にも左手の指をとてもゆっくりと閉じたり開いたりした。
「それから、リンゴが揺れるところをイメージする。でも、この右手と左手のように、それぞれのスピードに時間差があったり、言葉とイメージが一致していなかったり。そうすると、最も悪い場合、操言の力は発動すらしない。したとしても、効果はわずかだ」
紀更は膝の上に手のひらを置いた。王黎を真似して、同じタイミングで右手と左手を閉じたり開いたりして、言葉とイメージのタイミングが一致する様子をそこに見出す。
「〝リンゴ〟と聞いた瞬間に、リンゴの色、形、匂い、味、言ってしまえばリンゴの概念そのものを、具体的なイメージにできるかどうか。その逆もまたしかり。実際に存在している物でも想像の物でも構わないけど、何かこうしたい、こうさせたい、というイメージを瞬時に言葉にできるかどうか。国と民のために働く一方で、操言士はそうやって力を磨き続けている。終わることなき修行と研鑽を重ねていくんだ」
「リンゴを目指して?」
「うん、リンゴを目指して」
紀更の頭上に浮かんでいた疑問符が消えていく。
リンゴを目指す、という表現はいささかどうかとも思ったが、王黎が持ち出したリンゴの例え話は、時間はかかったがどうにか紀更の腹に落ちた。そして同時に、疑問がふつふつと湧き出てくる。
「リンゴの境地にたどり着いた操言士は、いるんでしょうか」
「どうかな。その境地にいるのかどうか、測ることのできるわかりやすい物差しがあるわけじゃないからね。でも、少なくとも団長はその境地にいると思うよ」
「団長……」
「コリン・シュトルツ操言士団団長。僕ら操言士を束ねる女性だよ」
国王を除いてすべての国民が所属している、オリジーアの三公団。騎士団、操言士団、平和民団というその三つの組織の団長は、国の中でも重要な役職であり、名実ともに国王の次に権威ある存在だ。
つい一年ほど前まで平和民団に属する平凡ないち市民にすぎなかった紀更にとって、「団長」という存在はオリジーア王と同じくらい雲の上の人だ。見習い操言士になった今でもそれは変わらず、自分とは関わりの薄い人のように思える。実際は、前例のない経緯を持つ〝特別な操言士〟の取り扱いに対して多大な決定権を持っている人物なのだが、それがコリン・シュトルツという一人の女性であると、紀更個人はまだはっきりと認識できていない。
「コリン団長はすごい人だよ。操言院の修了試験は成人前後に合格する人がほとんどだけど、コリン団長は九歳で合格したからね」
「九歳!? 何かの間違いでは!?」
紀更は目を見開いて驚愕した。