1.操言院(下)
操言院での生活は、決して楽なものではなかった。普通の見習いたちとは違って短期間で多くを学ばなければならないし、何よりも、「後天的に操言の力を宿した」という特殊な経緯ゆえに、紀更の存在は操言院の中で浮いていた。
操言院は王都ベラックスディーオにあるため、王都に居住している見習い操言士たちは、俊のように実家から操言院へ通い、教育を受ける。一方、王都以外の都市部に居住している見習い操言士たちは、幼年の頃は各都市部内でその地に居住している操言士から簡単な教育を受ける。その後、十歳頃に親元を離れ、王都の操言院の寮に入って本格的に学び始めるのが習わしだ。王都住まいの見習いでも、より集中して学ぶために、入寮を希望するケースもある。
そうして操言士になるための専門教育を受け、操言院修了試験に合格すると、晴れて「見習い操言士」から一人前の「操言士」になるのだ。合格時期は人によるが、十七歳の成人前後が平均だ。中には十四歳、十五歳という若さで修了試験に合格し、成人前ではあるが一人前の操言士として勤め始める優秀な者もいる。
つまり操言院にいるのは、操言士としての道を歩くように定められて、誰かに邪魔されることもなくその道を淡々と歩いてきた子供たち。紀更は、その子供たちの中にいきなり放り込まれたのだ。「後天的に操言の力を宿した、前例のない存在」として。「もうすぐ成人なのに、操言の力や操言士についての知識や教養がほとんどない存在」として。
生まれつき操言の力を宿していたために、物心がつく前から当たり前のように操言の力とふれ合ってきた彼らにとって、紀更の存在は珍獣以外の何者でもなかった。
「なんでお姉ちゃん、そんなに大きくなってからそーげんいんにきたの」
「そーげんいんにくるの、さぼってたの」
「いっつもせんせーにおこられてるよね」
「そーげんしのことばがおぼえられないんだって」
「お姉ちゃんなのに、かんたんなことしかできないんでしょ」
「それじゃそーげんしになれないんだよ」
遠慮なく問うわりには、返答を待たずに決めつけて去っていく幼子たち。勝手な憶測をしている大人の話を聞きかじっては、わざわざ伝書鳩のように伝えに来る子もいる。
彼らからかけられる言葉は、まだ我慢できた。五歳、六歳くらいの子供は、自我があるようでない。まだ自分と他人の区別がついていない年頃なのだ。ゆえに、彼らが発する言葉には主体性がない。自分が聞き流すことを意識して徹底していれば、それほど心を痛めることはなかった。
我慢ならないのは、自我が芽生え、自分は操言の力を持った操言士であるという自負も生まれてきた、歳の近い級友たち。特に、同性からのやっかみや敵意だった。
「あの子、すごいトクベツ扱いされてるよね。お金でも渡したんじゃないの」
「お金ならまだいいわよね。身体を売ったんだったりして。そうじゃなきゃあんなトクベツ扱い、許されるはずないわ」
「今から操言士になるとか無理じゃない? 自分の年齢、わかってる?」
「操言士は国を支える何よりも重要な存在なのに。あんな中途半端な子がいたら迷惑よ」
「幼児クラスに混じって授業を受けてるんでしょ。笑える~」
紀更を気にし、噂し、遠巻きにじろじろと見てくる見習い操言士たち。遠回しに、時には直接、彼女らの侮蔑を含んだ言葉と視線は、容赦なく紀更に向けられた。
それは見習い操言士だけに限らなかった。操言院で教えることを生業としている教師操言士の中にも、見習いの子供たち同様、あるいはそれ以上に露骨に、紀更の存在をよく思わない者たちがいた。
そういう教師操言士による授業では必ずと言っていいほど学習の遅れを指摘され、紀更は見せしめのように叱責された。
「紀更さん、この場合使うべき言葉はなんですか」
「えっと」
「わかりませんか。先日教えたばかりですよ」
「すみません、すぐに出てきません」
「〝風よ、威信をもって啼け〟、です。これくらい憶えられるでしょう、小さな子供ではないんだから」
「す……すみません」
「あなたは特別な待遇でここにいるのですから、もっと気を引き締めなさい。そんなとろくさい頭では、修了試験に合格なんかできませんよ」
「はい……」
「ほかの皆さんはわかるでしょうが、出来の悪い生徒のためにもう一度教えましょう。風車のように大きな物を動かすならもう少し高度な言葉とイメージを組み合わせる必要がありますが――」
そうして続けられる教師背操言士の授業の内容は、恥ずかしさと悔しさで下唇をぎゅっと噛んでいる紀更の耳には残念ながら残らなかった。
もちろん、そんな風にわかりやすく、紀更を見せしめにする教師操言士ばかりではない。普通に接してくれる教師操言士もいた。だがそれは少数で、ねちっこく紀更だけに小言を重ねる教師操言士の方がやたらと多かった。
「ねえ、〝特別な操言士〟って知ってる?」
「えー知らなーい」
「特別出来の悪い操言士ってこと?」
「あははっ」
教室内にいる、紀更より少しばかり若い見習い操言士たちが、くすくすと紀更を馬鹿にするように小声で笑う。
(特別な待遇なんて、私が頼んだわけじゃないのに)
紀更は幾度となく反発したいと思ったが、彼らよりも自分の方が年上で大人であるという少しばかりの矜持が、その態度を良しとさせなかった。
そんな操言院の授業が終わり、夕方になる。寮の部屋で一人きりになると、紀更の胸は痛んだ。ふいに感じるあの痛みだ。すると、切に思うのだ。
理不尽だと思いつつも、どうにかこの環境にめげずにいる自分を誰かにわかってほしい。負けそうになったり泣きそうになったりしながらも、我慢している自分がいることを知ってほしい。見つけて、気付いてほしい。誰か、誰か――。
――いいの、私、操言院に行く。
俊を思い出し、両親を思い出し、行くと言った自分を思い出し、紀更は毎日、自分で自分を励ました。ふいに感じる胸の痛みをこらえながら、国を支える一人前の操言士になるために頑張ろうと、自分を鼓舞した。
そうして、見習い操言士になってから十ヶ月弱が過ぎた。
成人と認められる十七歳の誕生日を二ヶ月後に控えたある日、またも紀更は、操言士団から唐突な通告を受けた。
「あなたは操言士王黎と師弟関係を結んでもらうことになりました。以後は操言院の授業のほかに、師匠である王黎の指導にもよくよく従いなさい」
その日の授業の終わりに、一人教室に居残るよう命じられた紀更は、教師操言士からそう言い渡された。
操言院で学ぶ見習い操言士たちは、操言院修了試験に合格すると一人前の操言士となる。文字通り、操言士団の一員として国のために働き始めるわけだが、その際、年長者の操言士に弟子入りすることができる。一人前の操言士として仕事をしつつも、師匠のもとで研鑽を積んでいくのである。
師弟関係を結ぶことは義務ではないので、中には誰にも弟子入りせず、与えられた仕事を淡々とこなすだけという淡白な操言士もいる。師弟関係を結ぶことも、どの操言士に弟子入りするかを決めることも、基本的には操言士個人の自由だ。
そのため、弟子入りを強制され、かつ本人の与り知らぬところで師匠を選定された紀更の待遇は異例中の異例。これまた「トクベツ」な出来事だった。
紀更は日々の授業の内容を頭に詰め込むことに必死で、修了試験に合格したあとの操言士たちの事情に明るくない。師弟関係を結ぶとどうなるのか。授業のほかに師匠の指導に従うとは、具体的にどういうことなのか。わからないことが増えて不安に思った。
決定事項だけを告げてすたすたと教室を去ってしまった教師操言士に、本当は問いかけたかった。しかし、紀更の話を聞くつもりはない、と言わんばかりのそっけないその背中に、紀更はかける声が出なかった。
(本当に一事が万事、勝手すぎる。それに一方的で唐突……)
がらんとした教室に一人残った紀更は、ため息をついた。
(王黎さん……どんな人なんだろう)
教師操言士と同じように、紀更を疎ましく思う人だろうか。できればそんな人でないといい。好ましく扱ってくれとは言わないが、せめて壁を作ることなくコミュニケーションをとってくれる人だといい。
(師匠さんからの指導って、どういうものかな。操言院の授業とは違うといいな)
王黎という操言士は教師操言士なのだろうか。どんな風に何を教えてくれるのだろうか。その師匠という存在によって、この息苦しい操言院での時間は変わるだろうか。紀更はほんの少しの期待を胸に身構えた。
しかし、それから三日経てども七日経てども、王黎という操言士と出会うことはなかった。ようやく彼と対面できたのは、師弟関係を結ぶことを言い渡されてから十日後。まだ春は少し遠く、寒い風が吹く日のことだった。
「初めまして。操言士団守護部所属の師範操言士、王黎です。今年で三十路だよ」
そう言って笑った王黎は、紀更が想像していたよりも若かった。歳は三十だと言ったが、目を細めたその笑顔は人当たりがやわらかく、二十そこそこの青年のようにも見えた。
「紀更です。あの……よろしくお願いします」
「うん。よろしくねー」
朗らかな返事。いい人そうでよかった。
そう紀更が安心していられたのは最初だけだった。