1.音の街ラフーア(下)
「ふふっ……じょ、上品な……住所不定?」
「いや、紀更が引っ越しとか言うから。そういう上品な感じに合わせた方がいいのかと」
「ふふっ……別に上品じゃ、ないですから……上品な……住所、不定……ふふっ」
上品な言い方をすれば住所不定。ちぐはぐなその言い回しを口の中で転がしながら、紀更は全身を小刻みに揺らして笑った。笑いのツボに入ってしまったのか、笑うことが止められず腹痛がしてきて、紀更は自分の腹に両手を当てる。
「もう……ふふっ……ユルゲンさんと話してると、私、笑っちゃう」
レイトでもそうだった。あの時もユルゲンの何気ない言葉がおかしくて、笑い続けてしまった。知り合ってまだ数日なのに、こんなにもリラックスして笑顔を見せられるなんて、なんだか不思議だ。
「そんなにおかしかったか」
あまりにも屈託なく笑い続ける紀更を、ユルゲンは呆れたような感心したような複雑な表情で見つめた。
「す、みません……面白くて……ふふっ」
笑いすぎて少量の涙が浮かんだ目元を、紀更は指先で拭う。
「そりゃあ、まあ……よかったな」
何か重たくて暗い話をしていたはずだ。それなのに紀更もユルゲンも、カラっと晴れた夏空のようにさっぱりとした気持ちになっていた。
「見つかるといいですね、探し物」
そう言って紀更がユルゲンにほほ笑みかける。その紀更の笑顔を見下ろすように見つめたユルゲンは、声を奪われたように黙った。
胸の痛みを埋める何か。見つけなければいけない何か。
足りないもの。欲しいもの。
それは物かもしれないし、人かもしれない。
うまく言葉で表現できないが、きっとそれを見つければ満たされる。癒される。
それは自分のすべてをかけて守りたいと思うほど大切なもので、それを手に入れることこそが最大の幸福――。
「ユルゲンさん?」
紀更を見つめたまま動かなくなったユルゲンを、紀更は不思議そうに呼ぶ。ユルゲンははっとして立ち上がり、紀更から視線を外した。
「ルーカスがそろそろ戻ってくるんじゃねぇか。列に姿が見えない」
「え……あ、ほんとですね。お店の中でお会計中ですかね」
ユルゲンにならって紀更も立ち上がり、ルーカスが向かった店の方に視線を送った。するとタイミングよく、ルーカスがハンバーガーを五つも持って戻ってきた。
「お待たせしました! これこれ! 美味しいんですよ!」
お勧めの品を買えたことで、ルーカスは上機嫌だった。
紀更はひとつのチキンバーガーで十分だったが、ルーカスとユルゲンはぺろりとふたつも平らげて、さらにまだ食べたいと呟いた。
それから食後の一休みを終えると、三人はザッハー広場から北坂を上った。小高い場所にある、この街のもうひとつのシンボルであるラフーア中央音楽堂と音楽院を外から見て回る。その後は居住区を迂回してザッハー広場に戻り、今度は南に伸びるウィーコー通りを歩いた。
宿に戻るまでの間、紀更はころころと表情を変えながらルーカスの観光案内に耳をかたむけ、ユルゲンはそんな紀更を穏やかな気持ちで見守っていた。
◆◇◆◇◆
「こんにちは。操言士団守護部所属の王黎と申します」
少し時をさかのぼる。
王黎はエリックに告げたとおり、ラフーア操言支部会館を訪れていた。
支部会館に入ってすぐ右手には受付カウンターが設置されている。そこにいた女性操言士に笑顔で声をかけると、彼女は王黎の胸元の操言ブローチと王黎が羽織っている操言ローブをじっと観察し、王黎が真に操言士あることを確かめたうえで返事をした。
「ご用件は?」
「支部長と話がしたいんです。いますかね? まあ、いると思うんですけど。ゴンタス支部長って、ほとんどここから動かない人ですもんね」
「ご予約は?」
女性操言士は簡潔に尋ねた。無愛想で淡白な彼女は、余計な雑談を好まないようだ。
「ありません。飛び入りです」
「確認しますのでお待ちください」
「はーい」
王黎はのんきに手を振って、無表情の女性操言士が受付の横にある階段を上っていく後ろ姿を見送った。
(うーん……相変わらず街の雰囲気と違って明るくない支部だねえ)
操言支部会館の一階は、出入口ドアをまっすぐ奥に進んだ先にひときわ大きな部屋がある。相談室と呼ばれる部屋で、ソファやテーブルなどが置かれた空間だ。そしてドアを入ってすぐ左手、受付カウンターの対面には物品室と呼ばれる、生活器が格納された部屋になっている。そのどちらにも操言士や、操言士に用のある住人たちが数名いたため、大声で悪態をつくわけにはいかない。王黎は喉から出てきそうになる言葉を、必死で胸の中にとどめた。
木製の受付カウンターにもたれてしばらく待っていると、女性操言士が下りてきて無機質な雰囲気で王黎に声をかけた。
「支部長がお会いになられますので、ご案内いたします」
「ありがとうございます。部屋はわかりますから案内はいいですよ。あ、もし僕の言従士が来たら、助けてあげてくれませんか。女性の言従士です。王都の操言士団から、ちょっと用事を頼まれているんです」
「可能なことならば」
「じゃあ、よろしくです~」
営業スマイルを振りまきながら、王黎は階段へ向かった。
操言院の修了試験に合格してから十五年以上、ずっと守護部に所属している王黎は、オリジーア国内各所の訪問経験がある。それが仕事でもあるし修行でもあるし、趣味でもあるからだ。そのため、レイト操言支部にもこのラフーア操言支部にも何度も来ている。
「どうもー。操言士団守護部所属の王黎でーす」
慣れた足取りで階段を上った王黎は、三階の一番奥にあるドアをノックもせずに開けて入った。すると陽気な王黎の声とは正反対に、部屋の中にいた二人の操言士がむすっとした目線を王黎に投げつけた。
ここは支部長室と呼ばれる部屋だ。木製の床の上には深緑色の絨毯が敷かれ、壁には大きな本棚と、引き出しのついたキャビネットが複数。それから部屋の一番奥には大きな窓を背にした広い木製のデスク。
その広いデスクに向かって一人の男が座っている。太い眉毛に爬虫類のようにぎょろりと見開いた目。後退した前髪の生え際と、垂れてきた首の皮膚の皺が老いを感じさせる、小柄な丸っこい体型の男性だ。
「相変わらずうっとうしい奴だな!」
不機嫌さを全身に滲ませているその男の名はゴンタス・ビロカミール。ラフーア操言支部の支部長だった。
「ノックぐらいしたらどうだね、王黎くん」
ゴンタスの隣に立っているもう一人の男が王黎を睨み咎める。
ゴンタスとは対照的に、背は高くひょろりとした体型で、ブラウンの髪の毛を不自然なほど七三分けにして固めている彼の名はネーチャヴィン。ゴンタスの右腕、副支部長のような立場の操言士だ。
「お二人こそ特に変わらずお元気そうですね。ご機嫌いかがですか」
王黎はドアをしっかり閉めると、デスクの前に設置されたソファに優雅に腰を下ろした。ネーチャヴィンの小言などどこ吹く風だ。
「非常に悪い!」
「ありゃりゃ、そりゃまたどうして」
「王都の操言士団から、お前のワガママを聞いたからだ!」
軽薄な態度の王黎に対してゴンタスは鼻息荒く、腕を組んで不機嫌な表情を隠しもせずに怒鳴り散らした。
「操言士団の経費で六人分の宿の確保……って、ワガママですかねえ?」
「騎士が二人いるだろ! そいつらの分は騎士団に負担させろ!」
「二人分くらいいいじゃないですか。操言士団として騎士団に恩が売れるでしょう」
「二人分の宿代が恩になるものか! それにお前と弟子とお前の言従士はともかく、もう一人はなんだ! どこのどいつだ!」
「紀更の護衛の傭兵くんでーす」
口を開くたびに唾を吐き散らし、ゴンタスの声の大きさは増していく。王黎と会話すればするほど血圧が上がり、腹立たしくなっているようだ。
「だいたい、〝特別な操言士〟はまだ見習いだろう! さっさと操言院に戻して早く修了試験に合格させろ! それがお前の役目のはずだ!」
「うーん……そうですねえ」
王黎はぽりぽりと、かゆくもない頬をかいた。
「見習いのくせになにが祈聖石巡礼の旅だ! どうせ祈聖石の保守に必要な言葉のひとつも憶えちゃいないんだろ! なにが特別な操言士だ! 出来が悪いとの噂はこのラフーアにも届いているんだぞっ」
「成績は下の中だそうですね。最下位でないあたり、まあ本人も努力はしているのでしょうが。〝トクベツ〟というのは、〝トクベツ劣っている〟という意味なんですかね」
怒鳴るゴンタスと違い、ネーチャヴィンの口調は冷静だ。しかし彼はゴンタス以上に特別な操言士――紀更のことを見下していた。
「やだなあ、ネーチャヴィンさん。そんなわかりきったことを確認しないでくださいよ。あ、それともご存じないですか? 紀更が特別な操言士と呼ばれるのは、《光の儀式》で操言の力なしと判別されたにもかかわらず、十六歳になって操言の力を宿したという経緯があるからですよ。もしかして噂話ばかりでアタマが一杯になっちゃって、単純な事実は忘れちゃいました?」
「ふん」
王黎はネーチャヴィンの嫌味に負けないように、容量を増やした嫌味で返した。
ネーチャヴィンもゴンタスと同じくらい不機嫌そうに鼻息を荒くしたが、さすがに分が悪いと見たのかそれ以上は突っかかってこなかった。
「まあまあ、お二人とも。真面目な話をしましょうよ」
王黎はそう言うと操言の力を使った。
【陰影の暗幕、暗影の閑寂、我らの声を覆え】
操言の力による透明な暗幕が周囲に下ろされ、ここにいる三人の声が誰かに聞かれる恐れがなくなる。
王黎がわざわざそうして情報漏洩に気を遣ったので、ゴンタスとネーチャヴィンの表情は硬くなった。