1.音の街ラフーア(中)
「騎士団本部の裏側一帯、いま歩いてきた道の左手ですね。そこは訓練場なんです。紀更殿は、王都の騎士団の訓練場を見たことはありますか?」
「いえ。王都育ちですけど、自分が住んでいる地区以外にはお使いぐらいでしか行ったことがなくて。王都の中のことも、知らないことの方が多いと思います」
「王都の訓練場は、基本的に騎士団関係者以外は入れません。ですが、ラフーアの訓練場は周囲を壁で覆っていませんし、特別禁止もされていないので、入ろうと思えば中に入れるんですよ」
「そうなんですね」
そう言われると訓練場の中を見てみたい気もしたが、軽々しくのぞいてみたいと口にしていいものかどうかわからず、紀更は相槌を打つにとどめておいた。
ルーカスはひとまず街中の案内を優先すべく、ライアー通りを東へ進む。ライアー通りは左右に様々な店が並んでおり、商店街のようだった。
「王都みたい」
紀更がぽつりと呟くと、ルーカスは少し笑った。
「王都よりは小さいですよ。それにラフーアの場合、このライアー通りより、ザッハー広場から南に伸びるウィーコー通りの方がお店はたくさんあります」
「やけに眩しいな」
ずっと黙っていたユルゲンが目を細めて呟く。心なしか、その声はやや不機嫌さをはらんでいた。
「白い壁が多いですからね。日光を反射して、眩しく感じるんだと思います」
「傭兵の街メルゲントとはだいぶ違いますか?」
「傭兵ばかりだからな。そもそも、こんな明るい雰囲気ではないな」
ユルゲンはぶっきらぼうに答えた。
確かに、ユルゲンのように決して陽気とは言えない人種が多いのでは、明るくて眩しい街とは言えないかもしれない。
「着きましたよ。ここがラフーアの名所のひとつ、ザッハー広場です」
一体の銅像を中心に据えた石畳の広場に出ると、ルーカスはほほ笑んだ。
円盤状の広場の縁には、ほぼ同じ大きさの建物が密集している。そのほとんどは一階が店で二階が住居という造りで、すべての店の出入口は広場の中央に向かって開いていた。
「ルーカスさん、あの銅像は?」
「ラフーア最初の音楽家、シュモーヴェン・ザッハーですよ」
「音楽家っぽい名前だな」
ユルゲンはまだ眩しいようで、ひたいのあたりに左手で庇を作りながら広場の中央にある銅像を見つめた。
「銅像の足元の木製の舞台が見えますか? あそこは広場ステージと呼ばれていて、この街の音楽家たちがあそこに立って演奏をするんです」
ステージのすぐ目の前には、四人掛けほどの長椅子がいくつか並んでいる。今は誰もステージにいないのでその長椅子も空席だが、いざ演奏が始まると、人々が演奏を聴くために足を止めて腰を下ろすのだろう。そんな光景を想像して紀更は目を輝かせた。一方で、同じく演奏時の騒々しさを想像してユルゲンはしかめっ面になった。
「既存の音楽だけでなく、誰かが新しく作った曲が披露されたり、躍る人や歌う人がいたり、なかなか飽きないステージですよ」
「ルーカスさんは演奏を見たことがあるんですか?」
「はい、何度か。ただ正直に言うと、自分には音楽の良さはあまりわからないんですけどね。聴いている時はまあ、すごいなとも思うんですが、すぐにお腹いっぱいになってしまうというか」
ルーカスはそう言って苦笑した。
剣を振るってばかりの生活のルーカスにとって、繊細な指使いで楽器を演奏する音楽家たちは対極の立場にあり、理解や憧れからは遠いのだろう。
「そうだ、そこのチキンバーガーが美味しいんですよ。ちょうど昼時ですし、買ってきますね」
「あ、私も行きます」
「大丈夫です。紀更殿はユルゲンさんと、ステージ前の椅子で待っていてください」
ルーカスはそう言うと、広場を臨む一角にある行列に揚々と歩いていった。ルーカスの言うとおり美味しくて評判なのか、店には十人を超える列ができている。
ルーカスの背中を見送り、紀更とユルゲンは広場ステージを鑑賞するために設置された長椅子の最後列に腰を下ろした。
「ユルゲンさんはこの街に来たことはありますか」
「いや、ないな。これまでに訪れたことのある最北の都市部は、港町ウダだ」
「港町ウダ……水の村レイトの南にあるところでしたっけ」
光学院で地理を学んだ時に見た国の地図の記憶を、紀更はなんとか手繰り寄せて思い浮かべた。
「ウダへはお仕事で?」
「ああ、隊商の護衛だった。メリフォース城下町から港町ウダまで、結構な距離を移動する隊商でな。道中、野犬だの野盗だの怪魔だのいろいろ出くわすから、片っ端からのしていった」
「お一人でですか」
「いや、隊商の人数が多かったからな。俺たち傭兵は全部で七、八人いたな」
ユルゲンは肩でも凝ったのか、首を左右に曲げて、胸鎖乳突筋を伸ばすストレッチをしながら答えた。ラフーアの街の雰囲気は、彼には少し肌が合わないようだ。
「あの……ユルゲンさんはいつから傭兵さんなんですか」
訊いてもよいのかどうか自信がなかったので、紀更はユルゲンの表情を恐る恐るうかがった。デリケートな質問ではなかったようで、ユルゲンはすらすらと答える。
「養父母が傭兵でな。気が付いた時には傭兵になるべく鍛えられていたから、いつからと訊かれたら……まあ、子供の頃からだな」
「養父母、ですか」
「実の両親は俺が生まれてすぐ死んだらしい。実の父親も傭兵だったから、その縁で養父母が俺を引き取ってくれたそうだ」
「ごめんなさい。立ち入ったことを訊きました」
「いや、訊かれて困ることじゃない。気にするな」
紀更の表情が暗くなったので、ユルゲンは落ち着きなく少し早口になった。
「傭兵なんかやってると、俺みたいな育ちは珍しくない。むしろ実の両親がそろっていて、家族全員で平和に暮らしている方が珍しいとさえ思うよ」
紀更は、ユルゲンの言う「珍しい方」に入る。弟の俊は一年ほど前に亡くなってしまったが、少なくとも紀更の育った家庭環境は、王都ではごく標準的だ。
だが、自分がそうだからといって、必ずしもその環境が誰にとっても当たり前で普通のものであるとは限らない。紀更の住まいがある王都のマルーデッカ地区でも、父子家庭や母子家庭、養子を迎えた家庭もあった。両親が早くに亡くなってしまい、祖父母に育てられているという友人もいた。
総合的に考えると、ユルゲンの言うとおり、実の両親が存命で家族みんなで暮らしているというのは、実は普通ではなく珍しい家庭環境なのかもしれない。
「実の両親はいねぇが、一人じゃないのはありがたい。孤独は嫌なもんだからな」
(ひとり……)
ユルゲンの言葉は、俊が亡くなった直後を紀更に思い出させた。
俊が亡くなり、悲しみに暮れて会話が減った父と母。薄暗くなった家の中。
ある日突然、それまで当たり前にそこにいた誰かがいなくなるということ。
俊がいなくなって悲しい。残されて寂しい。
けれど、その感情はやがて色を変えていく。
俊がいなくなったことだけじゃない。
残された自分が誰にも気付いてもらえないような気がして。
それが今度は寂しくて、悲しくて。
誰かに見つけてほしい。こんな自分に気付いてほしい。
――……独りはいやなの。
ふいに胸が痛くなり、紀更は自分のそこにそっと手を当てた。
「一年前」
その時、ユルゲンはぼうっとした表情で空を仰ぎ、ゆっくりと語った。
「胸が痛くなったんだ。急に……どうしようもなく、ふいに。生きていればそれだけで御の字……そう思っていたはずなんだけどな。何か足りない気がしてきたんだ。何かが……それが何なのかはわからないが、でも何かがどうしようもなく欲しくて」
「探し物……ユルゲンさんの旅の目的?」
紀更は、レイトの宿でユルゲンが述べた旅の理由を思い出した。
「見つければ……心を埋めるものがあれば、痛みはなくなると思ったんだ」
「それは何なんでしょうか」
紀更は小声でぽつりと呟く。
少し隙間を空けて隣に座っている紀更の横顔に、ユルゲンは目線を向けた。
「何があればいいんでしょうか」
なぜだか、ユルゲンの曖昧な語りは紀更にも身に覚えのある話のような気がした。
「一年ほど前に、私の弟、俊は亡くなりました。そのあと、急に操言士団の人がうちに来たんです。私が後天的に操言の力を宿したから、今から操言士になれ、って」
レイトの噴水広場で紀更が口ごもりながら濁した、見習い操言士になった経緯。
たどたどしく語る紀更の話を、ユルゲンは静かに聞いていた。
「俊が死んで……ああ、ひとりだなって……ひとりはやだな、って……思ったんです。寂しくて悲しくて……誰かに気付いてほしいような……。おかしいですよね、私。両親がまだいるのに……一人じゃないのに」
「いや、おかしくない」
ユルゲンは即答した。
「ひとりは……孤独は〝状況〟でもあるが〝感情〟でもある。感情が生まれるのに正常も異常もない。俺も、実の両親はいないが養父母がいた。孤独じゃないはずだった。でも何か足りない気がして……それは、もしかしたら〝誰か〟なのかもしれない。無性に感じる強い孤独を埋める誰か。それが欲しくて、俺は街を出て旅を始めたんだ」
「街を出るって、ほかの都市部に引っ越したということですか」
「いや……そうだな、上品な言い方をすれば〝住所不定〟だな。護衛や退治の依頼を受けて金を稼ぎながら、あちこち放浪してる」
「上品な言い方?」
ユルゲンの言い回しが面白かったのか、紀更は肩を震わせて笑い出した。