9.出立(上)
「王都しか知らない私は、ルーカスさんが教えてくれた街道のこと、レイトのこと、とても新鮮でした。怪魔と戦うお姿はすごいなって思いました。操言院に閉じこもっていてはきっと知らないままだったことです。でもそれは、一人前の操言士になるためには知らなければいけないことです。私は、まだ自分が知らないことを知っていきたい。操言士のことも、自分が住むこの国のことも、もっと多くのことを」
この先、自分が操言士としてどうやって生きていくのか。それを考えるためにも、この国が、世界が、どうなっているのか見て知りたい。自分の中にこんなにも強い好奇心が生まれているのを、紀更はくすぐったく思った。
「私の事情にお二人を付き合わせてしまいます。あの、それは……ごめんなさい」
紀更は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。
王黎が強引に用意した道は紀更にとって僥倖だ。しかしそれに振り回されるエリックたちにとっては、必ずしも幸いとは言えない。むしろ迷惑をかけているだけだろう。
「いや」
エリックは眉間の皺をゆるめた。
王都の西門で対面した数日前の紀更は、ぎこちなく固まったままの表情だった。少しばかり抑うつ状態にあると事前に知らされていなければ、なんとも暗い少女だ、と感じていただろう。
それが、今は初対面の時の暗い雰囲気が鳴りを潜め、とても自然に笑っている。心なしか、自信があふれ出ているようにすら見える。操言院や王都から離れたことが、彼女の精神状態を良くしたのかもしれない。
「紀更殿が納得しているなら、それでいい」
王黎の思惑がからんでいたとしても、紀更が納得するなら自分も納得する。己の意志で進もうとする者の護衛なら、いくらでも引き受ける所存だった。
「そうですね。自分たちは護衛任務という仕事をこなしているだけです。紀更殿が謝る必要はどこにもないですよ」
ルーカスもやわらかく笑い、エリックに同調した。
「騎士団の二人が了承してくれたところで、もう一人確認してもいいかなあ。ねえ、ユルゲンくん?」
談話室の壁に寄りかかって腕を組み、紀更たちを静観していたユルゲンの方へ王黎は一歩近付いた。
「聞いてのとおり、僕らはこれから旅に出るんだけど、キミ、まだ一緒に来る?」
期待しているような、それでいて拒絶するつもりのような、王黎のグレーの瞳。
また尋問か。試されているのか。ユルゲンはそう思ったが、王黎のペースに気を取られないように、はっきりと自己主張した。
「言っただろ。あんたらと一緒に行けば、俺の目的が果たせる気がするって」
「うんうん。一緒に来る、ってことだね」
「信用されないうちは常に前衛で戦うという条件は継続でいいし、戦力にならないと判断したなら気にせず置いていってくれて構わない」
「ずるいなあ、その言い方。キヴィネを斃せる傭兵のキミが戦力外なわけないだろう」
「せいぜい、武器の手入れは怠らないようにしておくよ」
そう言ってからユルゲンは紀更を一瞥した。
旅に出るならば、今後もまた、怪魔との遭遇機会は当然あるだろう。騎士二人と王黎はともかく、王都からほとんど出たことがないという紀更が怪魔との戦いに怯えずにいられるか、気掛かりに思う。昨日は彼女のおかげでキヴィネを斃せたが、何が起きるかわからないのが旅というものだ。
これが仕事なら、足手まといになりそうなメンバーには難色を示すところだ。しかし、今のユルゲンはゲスト――正式な仲間ではないので、口出しをする権利は当然ない。しかも旅の主役が紀更本人なのでは、パーティから外せるはずもなかった。
(守りは騎士さんたちに任せるとして)
旅と聞いて傭兵のユルゲンが気にすることは怪魔との戦闘についてだ。もしも昨日以上の激しい戦闘になったとき、最弱の紀更を守ることは騎士に任せて、自分が前衛に立つのが最適解だ。もとより、エリックとルーカスから信用を勝ち取るために、戦闘時は常に前衛に立つと宣言している。
(あとは、この王黎って奴が操言士としてどれだけ腕が立つかだな)
「エリックさん、旅程の策定は僕に任せてもらってもいいですか」
頭の中で戦闘時を想定して考え込んでいるユルゲンにそれ以上構うことなく、王黎はエリックの方へ向き直った。
「構わないが、あまりにも危険な道のりや、紀更殿の護衛の観点から好ましくないルートは回避してもらうぞ」
「もちろんです」
好き勝手ばかりさせまいと、あまり意味を成さない王黎の手綱をエリックはなんとか握る。エリックのその気苦労を知ってか知らずか、王黎はへらへらと笑った。
「それで早速なんですが、このあと日持ちのする食料を調達して、参の鐘が鳴るまでにはレイトを発ちましょう」
「えっ、そんなに早くですか?」
王黎の提案にルーカスは驚いた。
今朝は仕事の始まりを知らせる弐の鐘が鳴ってすぐ、村の北部にある祈聖石へ向かった。それから時間はそれほど経っていない。暖かく晴れた日差しはまだ空の頂点に到達しておらず、昼食には少し早い、という頃合いだ。
「まずはここから西にある、音の街ラフーアを目指したいと思います。レイトからラフーアまでは馬を駆けさせれば一日もかかりませんが、祈聖石巡礼の旅の場合、道中で寄れる祈聖石にはすべて寄ります。そういう寄り道をしていると、通常以上に移動時間がかかるんです。レイトからラフーアまでの道中で、最低三つは祈聖石を巡りたいですから、出発は早い方がいいかなと」
「寄り道もするとなると、ラフーアに着くのはいつだ?」
「明日の昼過ぎの到着になると思います」
エリックの問いに答える王黎に、ルーカスも疑問点をぶつけていく。
「レイトからラフーアに行くとなると、西国道を進みますよね。今夜の宿はどうするんですか?」
「西国道の途中、ヤージュの森にある営所で過ごそうと思う」
「王黎師匠、営所とはなんですか?」
馴染みのない単語が出てきたので、紀更はすかさず尋ねた。
「騎士団と操言士団がよく使う、住人のいない公共の小屋だよ。整備された道の途中なんかに建っているんだ。都市部の外で任務にあたる騎士や操言士は、都市部で夜を明かせない場合が往々にしてある。そういうときに、誰でも自由に寝泊りしていい場所なんだ」
「なるほどです」
「ちなみに、そういう営所の近くにも必ず祈聖石があるから、一応怪魔に襲われる心配はないよ」
「怪魔の活動が活発になるから、夜間移動は厳禁だな」
「そうですね。夜は極力移動しないようにします。一番いいのは、昼間のうちに次の都市部に到着することですが、まあ、それは努力目標で」
「わかった。それで行こう」
紀更の身の安全が考慮された道程を、エリックは承諾した。
「では各自出発準備を整えて、ここに集合しましょう。最美、また紀更と二人乗りをお願いしたいんだけど、腕は平気?」
「ええ、問題ありませんわ」
「じゃあ、紀更はまた最美の馬に乗ってね。ユルゲンくんは自分の馬がいたっけ?」
「ああ」
「うん、なら問題ないね」
そうして、それぞれの客室へ戻って荷造りをしたのち、宿をチェックアウトする。
出発の前に、王黎は村の市場で日持ちのする根菜やパンを購入した。それらを収納する麻袋をしっかりと用意していたあたり、もしかしたら王黎は最初から「旅行」ではなく「旅」に出るつもりだったのかもしれないと、紀更は思った。
(大げさなくらい荷造りしてね、って王黎師匠は言ってた。最初から、旅行じゃなくて旅に出るつもりだったのかしら……まさかね)
その疑惑はかなり信憑性が高い気がしたが、真偽のほどはひとまず気にしないことにする。それから、一行は水の村レイトの北出口へと向かった。
昨日キヴィネと戦闘した現場へ着くと、紀更の身体は少しばかり縮こまった。えぐられた地面はキヴィネの不気味な存在感と、放電攻撃の恐怖を思い出させる。
しかし、怪魔との戦闘はこの先も必ず発生する。相手がカルーテなのかキヴィネなのか、それ以外の怪魔なのか。それは遭遇してみないとわからないが、怪魔を殲滅するのに操言の力が必要である以上、たとえ恐怖を感じても逃げ出すことは許されない。
(祈聖石巡礼の旅は、操言士の修行方法のひとつ……怪魔との戦闘も、修行の一環だ)
紀更の中の怪魔への恐怖は、完全に消え去ったわけではない。けれどその恐怖を克服することは、操言士として生きていくうえで必要なことだろう。ならば、時間がかかってもいいから打ち克つしかない。
紀更は、自分の中に生まれた覚悟を忘れないように、キヴィネにえぐられた地面をしっかりと見つめて記憶した。
それから北に向かって少し進むと、ノノニス川を渡る橋に差し掛かった。
「橋を渡ったら左にそれるよー」
ルーカスと並んで先頭を行く馬上の王黎が、振り向いて声をかける。
音の街ラフーアへ行くにはこのまま西国道を北へ直進すべきなのだが、王黎は直進せずに橋の終わりで左折した。紀更の前に座る最美も手綱をさばき、馬首を左にめぐらせる。
ノノニス川を流れる豊かな水の音が耳をくすぐり、水に冷やされた空気で紀更の肩は震えた。もう少し暑い季節ならその冷たさが心地よかっただろうが、今はまだ初夏だ。薄着をしているわけではなかったが、水辺の近くは体感温度が低かった。
「エリックさんたちは上で待機していてください。紀更は馬を下りて川の縁へおいで」
王黎はささっと馬を下りて、手綱をルーカスに預けると河原へと歩いていく。
あたりに、視界を遮る背の高い木々はない。川の流れが遠くまでよく見えるほど開けていて、川の西側一帯は小麦畑になっているようだ。目を細めれば遠くの方で、農作業に精を出している村人たちの姿が見受けられる。
紀更は最美の手を借りて下馬すると、雑草と小さな砂利石でできた斜面を慎重に歩いて、王黎が待つ川辺へ下りた。
【陰影の暗幕、暗影の閑寂、我らの姿と声を覆え】
目を閉じて、王黎は操言の力を使う。すると王黎と紀更の姿はほかの者たちの目に映らなくなった。
「もう少し川下に進むよ」
「祈聖石は、このあたりの石に擬態しているんですか」
「お、鋭いねえ。そのとおりだよ」
「このあたりの祈聖石も、効力が切れているのでしょうか」
王黎の半歩うしろを歩きながら、紀更は問いかけた。
「たぶんね。キヴィネほどの怪魔が村の入り口まで近付けるなんて、村の中の祈聖石だけじゃなくて村の外、村から近い位置にある祈聖石の効力も切れているとしか考えられない」
そう答えながら、王黎は足元の石にきょろきょろと視線を這わせた。
「うーん……ああ。あったあった」
そして、おもむろに足を止めると合掌した。
【聖なる光の石よ、誠を以て真を現せ】
操言の力が、ふよふよと浮かぶ霞のように王黎の足元に集まっていく。それは紀更の視力でとらえているわけではないのだが、王黎の操言の力の〝ゆらめき〟は間違いなくそこにあると、紀更には感じ取れた。
操言の力のゆらめき、またの名を波動と呼ばれるそれは、ゆっくりと王黎の足元一帯に広がり、やがてひとつの岩石に寄ってたかった。岩石の表面はつやつやとなめらかで斑状模様をしているが、王黎の操言の力に包まれると左右から中央に向かってせり上がり、小さな突起物をいくつも隆起させ、灰褐色のでこぼこした石に姿を変えた。それは丸太に擬態していた祈聖石と同様の石だった。
王黎はその灰褐色の祈聖石を拾い上げて、紀更に見せる。
「ほらね」
「くすんだ茶色ですね」
「まったく、どうしてこんなことになっているんだろうねえ」
王黎は大げさなほどため息をついた。
「紀更、祈聖石を乳白色にする言葉は憶えてる?」
「あ……いえ……すみません」
「謝らなくていいよ。ぶっちゃけ、言葉なんて好きでいいんだ。でも、中にはわかりやすくてイメージと結び付きやすい、いい言葉もあるから。そういうのは憶えておいて損はないよ」
王黎は祈聖石を頭上にかざした。昼過ぎの太陽が、祈聖石を燦々と照らし出す。
「まずは、朝の太陽が昇るところをイメージする。東の空が段々明るくなるよね」
「はい」
「その瞬間から、祈聖石は太陽の光を吸収するんだ。待っていました、と言わんばかりにね。そしてそれは、陽が沈むまで続く。祈聖石の気持ちになるって言うのかな。人や村を守るための力を、太陽から分け与えてもらう。そのためにただひたすら光を集める。そんな画を思い浮かべるんだ」
王黎は空にかかげた祈聖石を下ろすと、それを紀更に持たせた。
「僕の言葉を復唱しながら、紀更もやってみようか」
王黎はにっこり笑うと、紀更が両手で持った祈聖石の上に手のひらをかざし、目を閉じた。