8.祈聖石(下)
「人は馬鹿でいてはいけない。互いに支え合う社会の中で生きていくには、必要最低限の学びが必要だ。でも僕は、学び取る意志や姿勢のない者に多くの学を与える必要はないと思っている。自分が無知であることに気付かず、何も知らず何も考えず、そこらの動物と大差なく生きる道でいいと思うなら、そういう生き方でもいい。だけど、紀更が自分の意志で考え学び、知識や技術を身に付けたいと真剣に望むなら教えてあげるよ。操言士のことも、この世界のことも」
「どうか……よろしくお願いします、王黎師匠」
紀更は深々と頭を下げた。
きっかけは操言士団からの一方的すぎる命令だった。けれど今はもう違う。自分の意志で、一人前の操言士を目指す。どう生きていくかも含めて考えて学んで、気付いて知っていきたい。このままなんとなく――そんな風に思考を放棄するのはもう終わりだ。
「よし、じゃあ、エリックさんたちと合流しようか」
紀更の覚悟を感じ取った王黎は、まとっていた険しい空気を取り払い、努めて明るい声を出した。
【我らを覆う暗幕、閑寂、役目を終えよ】
王黎が操言の力を使うと、周囲の空気の密度が少し高くなる。それはほんの一瞬のことで、滞留していた風が一気に吹き込むような流れを感じたと思った瞬間、エリックたち三人の後ろ姿が、視界の数メイ先に現れた。
「エリックさーん、お待たせしました」
「終わったか」
「応急処置ですけど、たぶん大丈夫でしょう」
「たぶんって、本当に大丈夫なんですよね?」
軽々しい王黎に対してルーカスが眉間に皺を寄せて問うと、王黎はけらけらと笑った。
「大丈夫だよ、あとはこの村の操言士たちがなんとかするだろうし、しばらく怪魔は近寄れないはずだよ」
「しばらくってどれくらいですか。本当に大丈夫なんですか」
「うーん、どれくらいかな~」
ルーカスのたたみかけるような質問を、王黎はのらりくらりとかわす。
「ルーカス、もういい」
「でも、エリックさん」
「祈聖石に関して、我々は門外漢だ。操言士の王黎殿が大丈夫だと言うのなら、それを信じるしかない。それで、王黎殿。このあとはどうするんだ」
「ひとまず宿へ戻りましょうか。村の外に出る許可はまだ下りてないですしね~」
そう言った王黎を再び先頭にして、一行は大通りを背に、土の道を宿に向かって歩き始める。
紀更は歩きながらも背後を振り返り、丸太に擬態させた祈聖石を細目で見つめた。それはどう見ても丸太だった。あれが文字通り石だったなどと、教えてもらわねば一生気付かなかったことだろう。
ほかの祈聖石はどんな擬態をしているのだろうか。それに、このオリジーア国内にいくつの祈聖石があるのだろう。王黎は本当に、それらの場所と擬態を憶えているのだろうか。応急処置ではなく真に祈聖石を保守するとなると、操言の力はどんな風に使われるのだろうか。それはいつか自分もできるようになるのだろうか。
次から次へと疑問が湧いて出る。知りたくてたまらない、という気持ちが強くなってくる。紀更の胸は、心地よく高鳴っていた。
宿の一階、出入口から受付に向かって左手側には談話室が設けられている。待ち合わせをしたり、宿泊客が束の間のコミュニケーションをとったりするために用意された、少し広めの一室だ。
その談話室の中にあるソファに座って紀更たちを待っていたのは最美だった。
「最美さん! 傷は大丈夫なんですか」
宿に入り、談話室にいる最美の姿を見つけた紀更は最美に駆け寄った。負傷した彼女の左腕に視線をやると、包帯が巻かれているが血は滲んでいない。傷口はしっかりとふさがりつつあるようだ。
「ええ、ご心配をおかけいたしました」
「いえ、こちらこそ本当にありがとうございました。かばってくださって」
昨日は落ち着いて言えなかった、最美への謝辞。
彼女が身を挺して怪魔から守ってくれたから、紀更は無傷でいられた。今後は、自分の代わりに誰かが傷つくことがないようにしたいと紀更は思った。
「我が君、操言士団と騎士団からの返事が届きました」
最美は手に持っていた二通の手紙のうち一通は王黎へ、もう一通はエリックへと手渡した。それを渡すために、談話室で一行の戻りを待っていたようだ。
手紙を受け取った王黎とエリックはそれぞれ封を破り、中身に目を走らせる。
「うんうん、よしよし」
手紙を読み終えた王黎はとても満足げに笑った。一方のエリックはとても対照的で、眉間に皺を寄せて苦々しい表情になる。今にも手紙を握りつぶしそうだ。
「エリックさん、騎士団はなんですって?」
ほくほくと楽しげな空気をまとって王黎は問いかける。その愉快な態度はエリックの不愉快さを増長させた。
「場所と期限を問わず、紀更殿の護衛を継続せよ、だ。知っているだろう」
「よかった~。騎士団の許可も下りたんですね」
「王黎師匠、どういうことですか?」
エリックの口から自分の名前が出たので、紀更は気になった。
「紀更には残念なお知らせかもしれないけど、休暇は今日で終わりです。その代わりになんと! 祈聖石巡礼の旅に出まーす」
王黎は手紙を最美に返すと、空いた手でわざとらしく拍手をした。
エリックは王黎を睨みつけたい衝動を抑えながら、騎士団からの手紙をルーカスに渡す。ルーカスは手紙の内容に目を通し、困ったように王黎を見た。
「そして、我々もその旅に随行するわけですね。紀更殿の護衛として」
「強い騎士が二人もいるなんてありがたいねえ。ありがとうねえ」
王黎は老人がゆったりと喋るように、伸びた声で礼を言った。
エリックは読み終えたルーカスから手紙を受け取り、それを懐にしまう。
「あなたのためではない。我々はあくまでも、騎士団からの命令に従うだけだ」
不機嫌さを隠せないエリックは、自分自身に言い聞かせているようだった。王黎の思い通りに事が運んだわけではない。自分は騎士団からの命令に従っているだけで、王黎に従っているわけではない、と。
「王黎師匠、祈聖石巡礼の旅とは?」
不機嫌なエリックを刺激しないように、紀更は恐る恐る質問した。すると王黎は楽しそうに答える。
「操言士の修行方法のひとつだよ。国中にある祈聖石を順番に巡って、各地の祈聖石を保守して回るんだ。その旅を通して様々なことを学んで、操言士としての成長を図るんだよ」
「国中の祈聖石をですか? そんな、だって……それって、とても数が多いのでは」
「ああ、もちろん、全部を一回で巡りはしないよ。普通は操言院の修了試験に合格して一人前になった操言士が、回数を分けて何年もかけてやるものだからね」
「私はまだ見習いです。トクベツに許可された、ということですか」
操言士団の、紀更に対する特別扱い。それは紀更の意思とは常に無関係に実行され、ほかの操言士たちからやっかまれる原因となる。紀更にとっては決して嬉しくない対応だ。
そんな紀更の心情を知ってか知らずか、紀更の不満さを滲ませた質問に王黎は堂々と頷いた。
「うん、そういうことだね。操言院は紀更を王都に戻したかったみたいだけど、ほら、操言院で学べることには限界があるし? 護衛の騎士もいるし? 王都の外での実地訓練の方が、紀更には合ってると思うよ」
「もう……」
朗らかにほほ笑む王黎に向かって、紀更はため息をついた。
王黎が心底楽しそうにしている時というのは、彼の思い描いたとおりに事が運んだ時だ。そしてそうなった場合、王黎の作った流れに逆らうことはもはやできない。紀更が操言士団の対応に不満を持とうがどう思おうが、これは決定事項なのだ。
「わかりました。私、頑張ります」
操言院で、年下の見習い操言士たちから向けられる嫉妬の視線や蔑視。教師操言士たちから必要以上に浴びせられる批判や叱責。それらに囲まれることなく、師匠の王黎から操言士について教えてもらえる。それも、今まで見たことのないこの国の風景や人々を見ながら。操言院から解放された場所で、実際に見て感じながら操言士について学ぶ機会。やや強引ではあるが、王黎の用意してくれた祈聖石巡礼という名の修行の旅。
(さっきの祈聖石の保守の実演みたいに、操言院の授業とは全然違う形で学べるのね)
王黎の言うとおり、操言院にこもって学ぶ方法よりもその方が自分には合っているのかもしれない。紀更は、これから始まるその時間が楽しみに思えてきた。
「紀更殿、無理はしなくていい。あなたが心から拒否すれば、操言士団も旅の許可を取り消すだろう」
エリックが心配そうな表情を紀更へ向けた。王黎の手のひらの上で転がされて、紀更が抗おうにも抗えないでいると思ったのだ。しかし紀更は首を横に振った。
「エリックさん、いいんです。王黎師匠の言うとおり、たぶん私、操言院で学ぶよりもこうして外で学ぶ方が合っています。そう気付かせてくれたのは王黎師匠と、エリックさんやルーカスさんなんですよ?」
「自分たちですか」
「はい」
紀更はエリックとルーカスにほほ笑んだ。その晴れやかな笑顔に二人は面食らった。