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ヒオクダルスの二重螺旋  作者: 矢崎未紗
第09話 歴解派操言士と空白の物語
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8.囁き(上)

 紀更のその意志は予想していた。紀更は素直な性格で、比較的柔軟に、あらゆることをなんの抵抗もなく受け止めてしまう。しかし時々とても頑固で無鉄砲だ。自分を省みず一直線に向かうところがある。その最たる例が、始海の塔を目指したあの嵐の夜だ。ヒルダの叫び声を聞きつけた彼女が一目散に甲板を目指したあの時ほど、ユルゲンの肝が冷えたことはない。

 そんな紀更だから、操言士団から旅の許可をもらったいま、外野に何を言われようと「やっぱりやめます」という選択肢をとるはずがない。きっともう、旅に出ることを強く決めていて迷いなどないだろう。そう予想はしていたが、ユルゲンは出発前に紀更本人にそれを確かめたかった。


「そうか」

「でも、あの……ご迷惑はなるべくおかけしないようにします」


 前回の旅を少し反省しているのか、紀更は声のトーンを落とした。


「王黎師匠の言うこともちゃんと聞きます。だからまた……よろしくお願いします」


 紀更は遠慮がちに、まるで探るような目でユルゲンを見つめた。ユルゲンに呆れられるか、あるいは否定されるとでも思っているようだ。それはつまり、そんな態度をとられたくないと思っている、ということだろうか。


――紀更にはキミが必要なんだ。


 王黎の言うとおり、自分の存在が紀更に必要なのだろうか。必要としてくれているのだろうか。言従士でもないのに?


――紀更自身はにぶいけど、周りがきっと放っておかないよね。


 今から少し前のことだ。

 旅に必要なものを調達するために街中を歩いていたユルゲンは、見知らぬ金髪の男性操言士と紀更が一緒に歩いているところを見かけた。何を話しているのか会話の内容は聞こえなかったが、短く借り上げられた金髪の優男は労わるような優しい眼差しで紀更を見つめていた。そして紀更も嬉しそうに目を細め、ころころと表情を変えて会話を楽しんでいるようだった。

 ふと見てしまったその光景に、王黎の言葉が急激に重なり、胸が激しくざわついた。


――二人の王子様に気に入られるなんて罪な女だねえ、紀更も。

――紀更って警戒心が薄くて素直すぎるところがあるから、好きだって告白されたらその人のことを好きになりそうだよねえ。


 紀更の幼馴染だというサムが相手なら、余裕を保っていられた。彼の場合は明らかに自信がなく、紀更に対して一歩も二歩も踏み出せずにいるのは明白だったからだ。けれども、いま目の前で優男と並ぶ紀更を見たら、ユルゲンの心は一瞬で煮えたぎった。

 紀更が自分以外の男と二人でいること、自分以外の男に笑いかけること、自分以外の男からあたたかな視線をそそがれること。そのどれも許しがたい。許せない。それは自分でもわかりやすすぎると思うほどの嫉妬心だった。


「あの……」


 ぼんやりと紀更を見続けるユルゲンを、紀更はまだどこか不安そうに、遠慮がちに様子をうかがっている。

 こんなお世辞にも愛想がいいとは言えない、傭兵という野蛮な自分を、そうやって無警戒に見上げてくるところ。臆することなく話しかけて、笑いかけてくれるところ。そのどれもがかわいらしくて、嬉しくて仕方がない。ほかの男になんかしないでほしい。自分だけを見ていてほしい。


(傍にいたいと思って)

――キミには紀更の傍にいてあげてほしいんだ。だって、キミは紀更に必要な存在だからね。

(必要としているのは……)


 見ず知らずの男に嫉妬心を抱くほどに。いっそのこと、彼女をどこかに閉じ込めてしまいたいと思うほどに。この世界で唯一紀更にだけ、こんなにも強く焦がれている。


(俺の方だ)


 傍にいたい。傍にいてほしい。隣にいたい。隣にいてほしい。誰にも渡したくない。誰にもとられたくない。この手の届くところにいてほしい。

 だから離れられなかった。紀更から何度問われても、もうこれで終わりだなんて言えなかった。惨めったらしくうじうじと、離れていかない理由を述べ立てた。隣にいてもいい理由が欲しかった。その理由を持っている紅雷が羨ましかった。

 だって、君はとても魅力的な女性だから。かわいくてきれいで、健気で一生懸命で、時々頑固で強気で、でも泣き虫で。その姿をいつでも見ていたい。どんな表情も全部、朝も昼も夜も余すことなくずっと。

 王子になんか、同期の操言士になんか、年上の優男になんか、もちろん幼馴染のアイツにだって、やるもんか。君は、俺が探して見つけたんだ――。


「ユルゲンさん?」


 いつの間にかユルゲンは黙って立ち上がっていた。紀更の前に立ち、無言で右手を差し出す。


「どうしたんですか」


 見上げた彼の表情はいつになく仏頂面で不機嫌そうに見えたが、怒っているわけではなさそうだ。ユルゲンがとても真剣な眼差しで見下ろしてくるので、紀更は不思議に思いながらも、彼のその手を取った。


「あっ、え」


 すると、ユルゲンはふれた紀更の手を強く引いて彼女をベンチから立たせた。左腕を紀更の脇から腰にかけて回してその身体を抱き寄せ、右手も使って小柄な体躯をぎゅっと抱きしめる。そして頬ずりをするように首を傾けて、彼女の頭部に少しだけ体重を乗せた。重しをして、まるで閉じ込めるような体勢だ。


「あの、えっと……」


 紀更は突然のことに困惑し、身体が強張った。こうして抱きしめられている状況が恥ずかしくて、体温が上がって頬が赤くなる。

 紀更を抱き込んだユルゲンの腕の力は強く、逃げ出すことはできそうにない。押し付けられたユルゲンの胸は硬く、少し呼吸がしづらい。

 それなのに――恥ずかしくて困るのに――嫌悪感は一切なかった。


(細い……)


 ポーレンヌの、怪魔襲撃騒ぎの翌日の火事現場。あの時のことをユルゲンはふと思い出す。あの時と変わらず紀更は小さく細い身体で、このまま力を入れたら簡単に折れてしまいそうだ。

 こんなにもやわくてもろくて頼りない身体なのに、紀更は危険なフィールドに出て怪魔と戦う道を行くと言う。操言士を誘拐しているピラーオルドなどという、謎に満ちた危険な組織がいようとも、彼らの刃が民に振り下ろされることを許しはしない。


――だって、私は守護部の操言士です。


 そう言って、誰かに守られる側ではなく誰かを守る側に立とうとする。

 何かとても、惹きつけられてやまない、目の離せない存在。

 俺にとって、「特別」な存在――。


「紀更」


 愛おしさのあふれた甘い声で、ユルゲンはその名前を呼んだ。

 始海の塔で共に星空を見上げた夜のことが思い出される。あの時も、意味もなく彼女の名前を呼んでしまった。彼女の名前を口にすることで、何かを確かめていた。


(見つけた……やっと逢えた……)


 胸の奥が満たされる。熱いのにやわらかい想いが込み上げてきて、我を失う。


――どうして自分の心の声を無視するんですか。


 自分の心の声が何を叫び何を求めているかなんて、とうに知っている。にぶいわけでもないし、それなりに歳も経験も重ねているからだ。紀更という存在は自分にとってとても重要で特別な、かけがえのないもの。本当は知っていた。わかっていた。きっと、もうずっと、だいぶ前から。こんなにも強く彼女を想う自分がいて、この先もずっと傍にいたいと願ってやまなかった。だからこそ怖くてたまらない。自分のその願いを表明してしまうのが怖い。


――そんなに怖がらないでもらえるとありがたいんだが。

――すみません……私、いろいろと……見慣れてなくて。


 水の村レイトで出会った紀更は、傭兵という見慣れない職業のユルゲンのことを怖がっていた。よく知らない相手であるし、初めて顔を合わせた時が戦闘中だったことも考えると、彼女から見た第一印象はとにかく野蛮で粗雑な怖い男で、お世辞にも良いと言えるものではなかっただろう。紀更の幼馴染のサムは初対面のユルゲンに対してわかりやすくびくついていたし、紀更の母も不審者を見るような警戒心に満ちた目でユルゲンを見ていた。傭兵が身近にいない王都の者たちならば、それが普通の反応だろう。

 けれども紀更は次第にユルゲンに慣れていき、今ではすっかり怖がらない。それどころか無邪気にあどけなく笑いかけてくれるから、つい思い上がって忘れてしまう。傭兵として生きてきた自分と、王都に生まれ育った健全な彼女とでは生きている世界が根本的に違うのだということを。


――持ち主が抱く感情は得物に移る。こいつはそう多くないが泣いたことがあるようだ。人を斬る罪悪感でな。


 紀更は知らない。仕事として必要なら、ユルゲンは他者を傷つけることができる。罪悪感を伴いながらも、怪魔に向けるような暴力性を時には同じ人間相手にだって向けることができる。自分はそうやって生きてきた人間だ。紀更が知らないような、残虐な闇の中を歩いたこともある傭兵だ。

 今でこそ紀更は操言士だが、一年前まではきっと、粗暴なことなど子供同士の喧嘩くらいしかないような平穏な環境で、それが当たり前で普通として生きてきたことだろう。仕事とはいえ、暴力で他人をねじ伏せることも厭わずに傭兵として生きてきた、粗野な自分とではあまりにも釣り合わない。

〝怖い。イヤ。嫌い〟

 もし紀更との距離を明確に詰めようとして、そんな風に拒絶されたら――そう考えると途端におじけてしまう。全身がすくんで動けない。

 願って望んで欲しがってこの手を伸ばしたところで、手に入らないかもしれない。光の中だけを生きてきたような彼女に自分のまだ見せていない闇の部分を見せたら、怖がり、恐れ、嫌悪し、離れていってしまかもしれない。はっきりと境界線を引かれて、「これ以上近付かないで」と距離をとられてしまうかもしれない。紀更のその笑顔が、自分に向けられなくなってしまうかもしれない。そんな、ありとあらゆるマイナス思考が渦巻いて足がすくむ。


(もしも紀更がいなくなったら……)


 こんな風にすぐ傍で目を合わせることも声をかわすことも、何もできなくなったら。紀更のいない世界になったら――。


(――絶望だ)

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