6.着々と(中)
紀更もまた、いつもと違って髪をセットしてメイクもして、フローレンスの用意してくれたドレスを着ていた。フローレンスとイチコは手放しで褒めてくれたが、果たしてユルゲンの目にはどう映っていただろう。雰囲気が違うというのは、どういうことだろう。大人っぽいということは、少しはきれいに見えたのだろうか。紀更がユルゲンの姿にときめいたように、少しは胸の中がざわついてくれただろうか。
(私、ユルゲンさんにドキドキしてほしいのかしら)
変な気持ちだ。きっと自分がそうだったから、なんとなくユルゲンにもそう思ってほしいのだろう。自分だけ落ち着かない気持ちにさせられるのは、なんだか悔しいから。
(まだ王都にいるわよね? 護衛の依頼をしたいし、それに私の操言ローブ姿を見てもらってない)
明日、どこかで時間を作れるだろうか。王黎に相談すればいいだろうか。いや、王黎のことだからすでに動いているだろうか。
(出発日も……王黎師匠にきか、なきゃ……)
閉じた瞼の裏に眠気が充満してくる。
まだ気になることはあったが、紀更の意識は急激に遠のいて落ちていく。
――でも、君はまだ足らんね。言従士がおらん。
――プレカ、や。不思議やなぁ言われて、不思議やなぁ思うたら、言うてみ。
現と夢の境目、消えゆく意識の端で、ようやく思い出したことがある。
だがそれはすぐに沈んで姿を消してしまい、紀更は安らかな寝息を立て始めた。
◆◇◆◇◆
「おはようございます」
翌日は朝から少し曇っていた。夜遅くか明日には雨が降るかもしれない。
弐の鐘が鳴る前に守護部会館の待機室にやって来た紀更は、目に入る操言士と朝の挨拶を交わす。顔と名前はまだまだ全然憶えられないが、成人前後の見慣れない顔の操言士はだいたい新人である、ということを熟知している年長者たちからは、気さくに話しかけられた。
「おはよう、紀更。早速で悪いけど、ちょっと来てくれる?」
すると、先に来て待機室の奥で待っていた王黎が紀更を手招いた。
「おはようございます、王黎師匠。今日の任務ですか?」
「いや、祈聖石巡礼の旅のことだよ。急だけど、三日後の朝に出発しようと思うんだ」
「三日後……意外と早い出発ですね。もう少し先かと思っていました」
「今日から少し天気が崩れそうだけど、三日後なら晴れると思うからね。それに幹部会の気持ちが変わらないうちに、とっとと王都を出たいからさ」
「ふふっ」
冗談めかす王黎に、紀更は苦笑した。
「それと騎士団から連絡があって、護衛の騎士はエリックさんとルーカスくんになったよ」
「よかった! 心強いです」
安堵の息が漏れた紀更に、王黎はほほ笑んだ。
「顔見知りだから安心だよね。さらにですね、実はユルゲンくんにもすでに護衛依頼を出していて、正式に受託してもらってるから」
「ええっ! いつの間に!?」
「僕ってば仕事が早いでしょ?」
驚く紀更に、王黎は鼻を高くして得意げな顔をしてみせた。
昨夜寝る前に予想したことだが、本当に王黎はあっという間に動いていたようだ。
「それで、護衛のその三人と道程について話しておきたいんだよね」
「私も一緒の方がいいですよね」
「いや、紀更にはそれよりも重要なことがあってね」
「重要……」
含みを持った王黎の言い方に、紀更はごくりと唾を飲む。
「実は、王都内にある祈聖石をひとつも巡っていないんだ」
「あ……」
都市部の中や街道、国道に、擬態した状態で設置されている祈聖石。
国中にある祈聖石を巡って祈りを込め、場所と擬態を憶えること。それが操言士の修行方法のひとつとされ、これまで紀更は、王黎と共に各地の祈聖石を巡ってきた。ところがこの王都ベラックスディーオにある祈聖石はひとつも巡っていなかった。紀更はまだ見習い操言士で操言院に缶詰め状態だったので仕方のないことではあるが、このままでは初段操言士になったにもかかわらず、王都のどこに祈聖石があるのかひとつも知らないままである。
自分もそのことをすっかり忘れていた紀更は、困ったように呟いた。
「そうでしたね。うっかりしてました」
「僕は旅の打ち合わせをしたいし、でも紀更には王都の祈聖石を少しでもいいから知ってほしいし、旅の準備もしてほしい……ということで、タスクが盛りだくさんなわけです」
「どうしましょう」
紀更がおろおろと尋ねると、王黎は一枚の紙を手渡した。受け取った紀更がその紙片に目を通すと、旅に必要と思われるものが羅列されていた。
「動きやすい服、長袖長ズボン一セットは必須、なるべく頑丈な靴、水入れ等々……」
「まずそれね。現時点で紀更の自宅で用意できるものがあるなら消去して。足りないものだけにしぼったら、紅雷に買ってきてもらおう。それと、紅雷にもそれを参考に、旅の準備をしてもらわないとね」
「あ、じゃあ、紅雷を呼びますね」
「待って待って。とりあえず最後まで聞いて」
王黎は紀更を制してから続けた。
「紅雷に用意してもらっている間に、紀更は王都の祈聖石巡りをしよう。とりあえず、今日と明日はずっとね。それでも回りきれないと思うけど」
「そんなにあるんですか」
「そりゃ王都だもの。絶対に怪魔を近付けちゃいけないからね。祈聖石以外の守りの仕掛けも結構あるんだよ?」
王黎はいたずらっぽく笑った。
「でも僕は忙しくて案内できないので、代わりに先輩操言士に頼みました。おーい、オリバーく~ん」
王黎は待機室のソファに腰掛けて本を読んでいた一人の操言士を呼んだ。短く刈りそろえられた金髪に、Ⅰの刻印が入った操言ブローチを付けた少したれ目の青年が、王黎と紀更に近付いてくる。
「行きますか」
「うん、いま話したところ。紀更、彼は守護部所属の四段操言士、オリバーくん」
「初めまして、紀更です」
「オリバーだ。よろしくね」
オリバーは右手を差し出し、紀更と握手を交わした。その朗らかな笑い方はどことなく王黎と似たような、人当たりの良さを感じる。
「オリバーくんは五段への昇段試験を控えていてね。後輩指導の実績が必要なんだ」
「後輩指導の実績?」
首をかしげた紀更に、オリバーは穏やかな声で説明した。
「昇段すればするほど、こなした任務の量や質だけじゃなくて、後輩の操言士に対してどんな貢献ができたか、という実績も昇段の審査基準になるんだよ。王黎さんが忙しそうだからもしよければ、って僕からお願いしたんだ」
「紀更はオリバーくんの案内で王都の祈聖石を巡り、場所と擬態を憶える。オリバーくんはそういう後輩指導をしたという実績を積む。まあ、悪くない話でしょ。僕も助かるし」
「なるほど」
にっこりと笑う王黎の隣でオリバーは苦笑した。
「ごめんね、紀更ちゃん。君を利用するみたいで」
「いえっ、私はありがたいので、全然」
「オリバーくん、とりあえず今日と明日は夕暮れまでみっちり頼むね」
「二日間じゃ全部は回りきれませんよ?」
「大丈夫、わかってる。可能な限りでいいよ。どこをどう回るかも、全部キミに任せるよ。何かあれば、一階の黒板にでも書いておいてくれればいいから」
王黎はそう言うと、最後に紀更に向き直った。
「じゃあ紀更、そのメモと紅雷へのお遣いも忘れずにね。あとはオリバーくんの言うことをよく聞くんだよ。じゃあね~」
「え、あっ、王黎師匠っ!?」
王黎は戸惑う紀更に構わず、風のように軽い足取りで待機室を出ていく。言いたいことだけを言って去っていくその後ろ姿は本当にマイペースだ。
「忙しい師匠だね」
「そうですね。ほんとに自由で……もうっ」
困る気もするが、あの足の軽さ、動きの速さに助けられている。ユルゲンに依頼しなければ、と紀更がのんびり考えている頃には、すでに依頼を終えているくらいだ。
「ラファルさんの言う、守護部の操言士はフットワークが軽くないといけないって言葉を体現してますよね」
「ああ、それ。ラファルさんがよく言うよね」
新人の紀更がすでにラファルの格言を聞いて憶えていることがおかしくて、オリバーはくすくすと笑った。
「さて、出発は少し待った方がいいのかな?」
「あ、はい。用意ができたらお声かけします。そんなに時間はかからないと思うので、もう少しだけお待ちいただいてもいいでしょうか」
「うん、構わないよ」
オリバーはそう言うとソファに戻り、読みかけていた本を手に取った。
紀更は王黎から手渡された紙片と睨めっこをして、自宅にあるもの、ないものを思い出し、買い出しが必要なものにレ点を書き足して選別していく。そしてそれが終わると、守護部会館の外に出て昨日ミッチェルに教わったやり方で紅雷を呼び出した。
風のように飛んできた紅雷に出発が三日後であることを告げ、旅の準備をしてほしいと頼む。紅雷は紀更の役に立てることが嬉しそうで、二つ返事で頷いて街へと繰り出した。それから紀更は待機室に戻るとオリバーに声をかけて、王都内の祈聖石を巡るべく歩き出した。
◆◇◆◇◆