1.初任務(上)
これは夢の中だ。なぜなら、いつもよりわくわくしないから。
いつもなら、ここにあるこの大量の本たちに囲まれただけで胸は躍り、表情には出ないものの、感動と興奮で気持ちがたかぶる。
だが、いつものそれが今はない。ここは知っている場所のようで、きっとそうではない。そう、夢の中だ。
[君なら知っとるやろ。誰も見向きもしない、でも大事なあの本のことを]
姿は見えないのに、誰かの声が聞こえる。
いや、違う。声じゃない。文字、言葉が、頭の中に入ってくるような感じだ。
[あの娘に渡したってな。不思議なあの娘に]
そう、不思議だ。この世界には不思議なことがたくさんある。どれだけの本を読んでも、不思議なことの方が多い。当たり前の営みに見えることでも、なぜそうなるのかを考えると何もわからないことはいくらでもある。
たとえば、なぜ水と光と土があれば草木は成長できるのか。そこにあるのが当たり前の山々がどうやってできたのか。海水がなくなることはないのか。人の話すこの言葉がどうやって生まれたのか。今から百年先、二百年先、人々は今と同じ言葉を話しているのか。
仕組みがわからないのに、それでも不思議とこの世界の朝と夜は疑いもなく交互に繰り返される。自然も人の営みも、わからないことは多々あるけれど、「わからない」ことを見つけるのは面白い。調べて、理解して、解き明かしてみたくなる。そして忘れてしまうともったいないから、見知ったことはすべて書き残しておきたい。何かの形にして残しておきたい。消えてしまわないでほしい。そう強く思うのは、自分が言葉を操る操言士だからだろうか。
[よろしゅうな]
言葉が聞こえる。
なんだっけ。
何かを誰かに、渡すんだっけか。
(何を……)
本? この大量の? 誰に?
(それは……なぜ?)
また、わからないことがひとつ増える。
それはつまり、この夢が覚めれば、また新しい興奮に出会えるということだ。
◆◇◆◇◆
カラっと晴れた朝だった。仕事始めを伝える弐の鐘が鳴る前から気温は上がり、日差しが肌に痛いくらいに強い。本格的な夏が、一足早く顔を出したようだ。
壱の鐘が鳴るなり起床して身支度を整えた紀更は、操言ローブを羽織り、胸元に操言ブローチを留めて家を出た。向かう先はミニノート川の向こう、メクレドス地区の操言士団本部にある、守護部会館だ。
せっかくの気持ちのよい朝なので、ミニノート川に沿った近い方の道には行かず、中央通りを第二城壁前のヴィローラ広場まで北上する。そして城壁を左手に見ながら歩く、少し時間のかかる道から行くことにした。
(ここに帰還したのが、三週間前かあ)
第二王子のサンディ一行と共にポーレンヌから戻ってきて、このヴィローラ広場で馬を下りた。その時の自分は、こんなにも晴れ晴れしい気持ちでこの操言ローブと操言ブローチを身に付けられるなど、想像できなかっただろう。
操言の力を後天的に宿したという点ではほかの操言士と違って「トクベツ」だが、修了試験に合格したいま、紀更は普通の初段操言士。操言士としての本格的な日々が、いよいよ今日から始まるのだ。
紀更はヴィローラ広場に立ち、第二城壁の中央門を見上げた。第二城壁の奥には王城がある。オリジーアを治める王族が住む、この国で最も重要な場所だ。
(頑張ろう)
国のために、民のために、操言士として自分にできることをやる。その決意を静かに胸の中に抱き、紀更は第二城壁に沿って東へ歩き出した。そして弐の鐘が鳴る前に、守護部会館二階にある待機室に足を踏み入れた。
「おはようございます」
「おはよう。お、新人か」
「操言ローブがピカピカ新品だね~」
ドアを開けて挨拶をすると、そこにはすでに何人かの操言士がいて、紀更に気付いた者が気さくに話しかけてくれた。ラファルの姿はないようだったが、代わりに、やたらと背が高くてガタイのいい、しかし女性もののオフショルブラウスをまとった、生物学上は男性に見える操言士が紀更に近付いてくる。
「おはよう。あーたが紀更かしら?」
その操言士の声は普通に男性のものに聞こえるが、間近で見れば口紅も引いているうえに、白っぽい金髪はお団子ヘアにしており、どちらの性別にどう分類すべきなのか、なかなか判断に悩まされた。
「アタシはミッチェル。守護部の操言士で、段位は七段。ここにいる操言士の人員管理が主な仕事よ。よろしくね」
操言士ミッチェルはほほ笑みを浮かべながら、紀更に右手を差し出した。
「はい。あの、紀更です。今日からよろしくお願いします。えっとミッチェル、さん」
握手を交わした紀更の表情に、一種の迷いが浮かぶ。そのような反応には慣れているのか、ミッチェルは早口気味に言った。
「アタシが男か女かなんて、好きにとらえてちょうだい。どちらの扱いも問題ないわ。アタシの人間性を踏みにじらず、同じ人間として尊重してくれるならね。それよりあーた、王黎と師弟関係を結んでいるのよね。アイツ、神出鬼没で困るでしょ。いると思ったらいなくて、いないと思ったらいつの間にかいて。あーたも苦労するわね~」
「えっと……」
「え~。そんなことないよねぇ~」
その時、困惑する紀更にかぶせるように、背後から間延びした声が聞こえた。
紀更が驚いて振り向くと、そこには王黎が立っていた。
「おはよう、紀更。それとミッチェルさん」
「お、おはようございます」
「ほら~。やっぱり神出鬼没じゃない! 驚かすんじゃないわよ、王黎」
「ひどいなあ、ミッチェルさん。僕は普通に出勤しただけですよ?」
王黎はくすくすと笑う。
「いつもそうやって普通に出勤しないから、普通が普通と思ってもらえないのよ」
ミッチェルは気を取り直して一息つくと、両手を腰に当てて紀更と王黎に告げた。
「王黎と紀更、二人はジャウドモ地区の騎士団詰所に行って、騎士たちの装備品に操言の加護を施してらっしゃい」
「それは任務、ということですか」
「そうよ。紀更の初仕事になるわね。都市部の外で怪魔が多発していて騎士たちもその殲滅に繰り出しているから、毎日毎日加護を施さないと追いつかないのよ」
「はーい、ミッチェルさん。それはいいんですけど、紀更の言従士の登録もしたいんですよねー」
「あっ」
紀更が今日ラファルに尋ねようと思っていた重要事項を、王黎が先に切り出した。するとその会話が聞こえた待機室内の操言士たちが、みないっせいに驚いた表情になった。
「おいっ、もう言従士がいるのか!?」
「あ、はい」
「どこ!? どこで出会ったの!?」
「王黎、嘘じゃないだろうな」
「嘘じゃありませーん。港町ウダで見つけた、本物の紀更の言従士でーす」
わらわらと近寄ってくる操言士たちに、王黎は語尾を伸ばしながらのんきに答えた。
紀更は一応頷いてみせるものの、このように取り囲まれて注目されることに慣れていないので、あわあわと操言士たちの表情を見やる。
「あーたたち、人のことはいいの! だまらっしゃい!」
しかし、ミッチェルがびっくりするぐらいに大きな声でそう一喝すると、蜘蛛の子を散らすように操言士たちは紀更から離れていった。
「うぉっほん!」
ミッチェルは実に男らしい咳払いをして、紀更の目を見て尋ねた。
「紀更、あーたに言従士がいるというのは本当ね?」
「はい」
「それで、言従士はいまどこにいるのかしら」
「ジャウドモ地区の共同営舎に宿泊していますので、王都内のどこかにいるかと」
「そう。せっかく言従士がいるなら、さっさと登録すべきだわね。ラファル部長がいればいいんだけど今はいないから、とりあえず登録書だけ書いちゃってくれる? それで、あとでラファル部長に報告して登録しましょ」
ミッチェルは待機室の書庫から一枚の紙とつけペンとインク壺を取り出して、空いている机の上に置く。そして紀更を手招きすると、記入箇所を指差した。
「言従士の名前をここに。そう、紅雷というのね。ヒューマ? メヒュラ?」
「メヒュラです」
「じゃあ、ここを丸で囲んでちょうだい」
ミッチェルに指示されながら、紀更は登録書に記入していく。
「ん、これでいいわ。王黎、加護付与の任務が終わり次第、必ず二人で戻ってきてちょうだい。その頃にはラファル部長も戻るでしょうから、紅雷を呼んで認定審査をしましょ」
「了解でーす。じゃあ行こうか、紀更。キミの操言士としての初任務にね」
「はいっ。ミッチェルさん、ありがとうございます」
「いーえ。気を付けていってらっしゃい」
ミッチェルは片手をひらひらと振り、待機室を出ていく紀更と王黎を見送った。
紀更と王黎は操言士団本部を出てメクレ大通りを進み、ミニノート川を渡った。王都の南東に位置するジャウドモ地区の少し奥まったところに、目指す騎士団の詰所があるのだ。
「久しぶりですね、王黎師匠とこうして街の中を歩くの」
紀更は隣を歩く王黎を見上げてほほ笑んだ。
「祈聖石巡礼の旅みたいです」
「そうだね」
嬉しそうな紀更に、王黎も笑顔で同意する。
それから、王黎は紀更の操言ローブを指差した。
「似合ってるよ、それ」
「あ、ありがとうございます。ふふっ、あらためて言われると照れますね」
「紀更さ、操言院での授業が再開する前に、ユルゲンくんと紅雷に操言の力の加護を与えたんだってね? 加護を与えるのは悪いことではないんだけど、今日からは、基本的に任務という仕事じゃないかぎり、簡単に加護を付与したら駄目だからね」
「それは……」
王黎に注意されて、紀更はその理由を考える。そしていつかの雛菊の講義を思い出して、しゅんとうなだれた。