7.言従士たち(下)
「我が君、お待ちを」
ヴェレンキ地区のペレス家を出て、帰りの夜道を歩くことしばし。
基本的に住民たちは寝始めている時間帯だが、もう少し進んだ先にあるメクレ大通りからは、まだまだ愉快に夜を過ごすつもりの市民たちの声がうっすらと聞こえてくる。
上空から静かな声とともに一羽の鳥が下りてきて眼前に立ちふさがったため、王黎は足を止めた。その鳥はぬらりと人の姿になると、王黎の進行方向を睨んだ。
「どなた?」
ささやくような大きさの声で、最美は人影のない前方に問いかける。すると何もないはずの、誰もいないはずの路上にわずかな量ではあるが白い靄が立ち込め、暗闇の中に一人の女性が姿を現した。
「こんばんは。操言士イアンが言従士、由布子ですわ。ごめんなさいね、待ち伏せみたいなことをして。察してくださいな」
最美と王黎は警戒していたが、朗らかに謝罪するその女性が知っている人物だったので、身体の力を抜いた。
「こんばんは、由布子さん。キミがいるということは、イアンさんが近くにいるのかな」
王黎は女性の名を呼び、問いかける。由布子はゆっくりと首を横に振った。
「我が主は、かのお方を送り届けている最中です」
「そうですか」
「かのお方から、伝言を賜りましたの。近々、顔を見せてほしいと仰せですわ」
「はあ、わかりました」
「それでは」
由布子は丁寧にお辞儀をすると、再び少量の白い靄に包まれてその姿が見えなくなる。まるで最初からそこには誰もいなかったかのようだ。
「我が君、由布子さんは」
「トウメイネズミのメヒュラだったかな。最美とはまた違った方向性で、隠密行動や偵察向きだよね」
由布子は守護部の操言士イアンの言従士だ。トウメイネズミ型になると、その名前のとおりほぼ透明なネズミの姿になって、闇夜の中ならほとんど姿が見えなくなる。完全に透明になるわけではないので昼間なら目を凝らせば見つけられるが、そもそもネズミとしての大きさが一般的な大人の女性の拳二個分くらいの大きさしかないので、物陰や狭いところなどに隠れられてしまったら見つけるのは至難の業だ。
「会場でお会いにならなかったのですか」
「うん。あっちも僕も、まあ、最低限の人としか話してないかな~」
王黎は最美の腰に手を添えると、止まっていた家路への歩みを再開した。
「たいへんだね、イアンさんも由布子さんも。こんな夜遅くまで仕事か。ちゃんと休めてるのかな」
「お二人ならば大丈夫だと思いますわ」
操言士と言従士は、四六時中一緒にいるとは限らない。王黎が最美を偵察に行かせるように、フローレンスが谷義都をお使いに出したり家事をさせたりするように。時に言従士は、自分の操言士の手足となって離れた場所で仕事をすることがある。互いを深く信頼し合っているので離れていても平気ではあるが、離れていた分、言従士は操言士のもとへ戻るとほっと一安心する。一人では不安なことも、二人なら恐れはなくなる。一人では無理をしてしまうような状況でも、二人でいれば支え合い、労わり合うことができる。
「最美、明日は朝からユルゲンくんを見張っていてくれないか」
「見張る、ですか」
「彼にはまだ王都にいてもらいたいんだ。王都から移動しないように、居場所を把握しておいてほしい。明日からは、彼の動きを見張ることが最優先だ」
「畏まりました、我が君」
歩きながらも最美は丁寧に頷く。その胸中は使命感で熱くなった。
「助かるよ。頼んだからね」
「はい」
操言士は己の言従士を信じて仕事を任せる。
自分の操言士から寄せられる信頼と、頼りにされているという充実感。それは言従士が感じる最大の幸福だ。
◆◇◆◇◆
退屈な仕事だったが、物騒なことは何も起きず、無事に終わった。
窮屈な服を着替えて屋敷を後にし、夜遅くまで営業している風呂屋と飯屋に寄る。そしてまっすぐに共同営舎に戻る。ミズイヌのメヒュラの少女も戻ってきているか、いつもなら気にかけてやるところだが、今夜は別の少女のことで頭がいっぱいだった。
「はあ……」
雑魚寝する木床に横たわってみたものの、頭が冴えて眠れない。妙にそわそわする。落ち着かない。原因はわかっている。ペレス家で会った、紀更のせいだ。
王黎の紹介で請け負った、屋敷の警備依頼。表は騎士が警備するから傭兵たちは主に裏側を、という雇い主の意向で、ほぼ招待客のいない敷地内や敷地の外を見回るだけだったが、僥倖なことに、その屋敷のパーティーに来ていた紀更と遭遇した。
ドレスアップした彼女は普段よりも大人びていて、ユルゲンは柄にもなく見惚れそうになった。そんな自分の浮ついた気持ちを垂れ流すわけにもいかず、どうにか彼女から視線を外してはみたものの、いつもと違う紀更の姿はしっかりと脳裏に焼き付いた。
(きれいだった)
ああ、そう言ってやればよかったのだ。雰囲気が違うとか大人っぽいとか、そんな月並みの言葉ではなく。
(いや、きれいっつーのも月並みか)
ならば、なんと言えばよかっただろう。ただでさえ気になる存在の異性がドレスを着て化粧もして美しく着飾り、いつもと違って色気にあふれていたら。いっそ褒めるための言葉すらも忘れて、素直に見惚れてしまえばよかっただろうか。後先も考えずにあの場から奪い去ってしまって、自分以外の男の目には触れさせないように囲ってしまえばよかっただろうか。
(違う……ンなこと考えるな)
欲しがってはいけない。求めてはいけない。王都に生まれ育った彼女と、傭兵の街で生まれ育って粗野に生きてきた自分とではあまりにも違う。欲しがったところで、手に入るはずがないのだ。そんな欲望を抱くだけ抱いて、叶わないと明確に理解した際に深く傷つくのはごめんだ。
そう逃げ回っているくせに、先ほどの紀更のドレス姿が何度も頭の中で思い起こされる。照れくさそうにはにかんだ愛らしい笑顔が、繰り返し光る。忘れてなるものかと、全身が総力をあげているようだ。
(くそっ)
夜はもう遅く、真夜中が近い。長時間立ちっぱなしだった身体は適度に疲れているはずなのに、まったく眠れる気がしない。それどころか、久しぶりに下半身が疼いている気さえする。これならいっそ、怪魔退治でも請け負って夜通し怪魔と戦っている方がましかもしれない。
(守護部の操言士……本当に、一人前になったんだな)
水の村レイトで出会ってから、約一ヶ月半。紀更は操言士としての修行と訓練を重ねて、着実に前に進んでいる。これから実務を積んでいけば、きっと良い操言士になるだろう。根拠もなくそんなことを思う。
(それなのに俺は)
見つけなければいけない何かを探すという、故郷を出た理由。それをゆるゆると放棄して、今まで以上に目的もなく毎日を浪費している。彼女の傍にいたいと望みながらも、彼女の隣にいてもいい理由を作ることはしていない。十二分に自覚はしているくせに、今日もこうして、自分の気持ちから目をそらしている。それなのに頭の中も心の中も気付けば彼女のことで埋め尽くされて、あまつさえ今夜はとうとう、身体までもが欲しい欲しいと叫び始めた。
(ガキかよ)
今夜見た紀更は、自分の力で自分の道を進み始めようとしている、大人の女性だった。それに比べて今の自分はどうだ。図体が大きいだけの、ただの子供だ。剣を振るい始める年頃の少年と、たいして変わらない。見たいものだけを見て、都合の悪いことは無視して、そのくせ歳は重ねたから、言い訳はうまくなっている。
(くそっ!)
胸の中で悪態をつきながら、寝返りを打つ。しかし脳裏から紀更の姿が消えることはないし、胸の奥でくすぶる思いも消えはしない。身体は熱くなり、涼むために外に出たくなる。ユルゲンの眠れない夜は長く長く続いた。