7.言従士たち(中)
「師匠さんと最美さんみたいに、これからもずっと一緒ですね、紀更様!」
「そうね。でも、紅雷はそれでいいの?」
あらためてそう尋ねてみると、不安の風が紀更の心をなでた。
紀更の言従士として正式に登録すること。それは紅雷の人生を、「言従士として生きるもの」と定めてしまうことだ。そこにためらいや拒絶の気持ちは少しもないのだろうか。彼女の人生を、そんな風に縛り付けてしまってよいのだろうか。
だが、不安を覚えた紀更と違って紅雷は純粋に笑った。
「当たり前です! 紀更様の傍で紀更様のお役に立つことが、あたしの人生の意義なんです。あたしはそのために生まれてきたの。そういう生き方がいいの。死ぬまでずっと、紀更様の言従士として生きられればあたし、とっても幸せです!」
(紅雷……そんな風に思ってくれるなんて……)
躊躇なく、一点の疑いも迷いもなく、誇らしげに、喜ばしげに。星空の下で笑う紅雷の純粋さに、紀更は切ないような少し苦しいような、でもほっと安心するような気持ちになって、目の奥が熱くなった。
今夜はパーティーという初めての場で緊張し続け、ブリアナをはじめ、人間関係における摩擦を感じることが多かったからだろうか。こうしてまっすぐに信頼し、心を預けてくれる味方の存在に無条件で甘えたい気持ちになってしまう。
「ねえ紅雷、ミズイヌ型になってくれる?」
「はいっ」
次の角を曲がれば、もうすぐ紀更の自宅だ。マルーデッカ地区は暗く、すでに就寝している住民が多いのか、団欒の声ひとつ聞こえない。
二つ返事をした紅雷はランタンを地面に置くと、しゅぽんという音を立ててミズイヌ型に姿を変えた。それから、前脚をそろえてお座りのポーズになる。ミズイヌ型の紅雷は普通の大型犬よりも大型なので、その体勢でもなかなか迫力がある。
「紀更様?」
その紅雷の眼前に、紀更は膝を突く。そして、紅雷の首に両手を回してぎゅっと抱きしめると、その後頭部をゆっくりなでた。
「ありがとう」
紀更の首筋に、紅雷のやわらかい桜色の毛が当たる。紅雷の尻尾はこれでもかと大きく左右に振れた。
「ありがとう、紅雷」
初めて出会った時はわからなかった。けれど今ならはっきりとわかる。
紅雷は自分の言従士だ。この世界で誰よりも一番に、味方になってくれる。どんなことがあっても絶対に離れていかない。裏切らない。どんなときも傍にいて、必ず力になってくれる。支えてくれる。ほかの誰かに疎まれて蔑まれて、見下されて傷つけられて、まるでぼろ雑巾のように扱われても、言従士は――紅雷は最期まで一緒にいてくれる。絶対に、絶対にだ。
(紀更様、いい匂い)
修了試験を乗り越え、慣れないパーティーにも参加して、緊張の連続だっただろう紀更の疲労や悲哀を感じ取り、紅雷は何も言わなかった。ただ、ほんのりと香る紀更の優しい匂いを嗅ぎながら、紀更が満足するまでなでられていた。
しばらくそうしていたが、紀更は少しだけ鼻をすすると紅雷から離れた。そして紅雷が地面に置いたランタンを手に持つと、あとわずかだった自宅への道を進む。
「紅雷、ミズイヌ型だとしても夜道は気を付けてね」
「はい。おやすみなさい、紀更様」
「おやすみ、紅雷」
紅雷はミズイヌの姿のまま、紀更がきちんと自宅の中に入る姿を見届けた。紅雷が持ってきていたランタンは火が消えてしまったうえ、ミズイヌ型で共同営舎に戻るなら持ちにくいだろうと、紀更が持ち帰った。
(明日は、あたしも操言士団の本部に行けばいいかなあ)
ジャウドモ地区の共同営舎へと、紅雷はミズイヌ型で闇夜の王都を駆け抜ける。そしてとても久しぶりに、明日が待ち遠しいと思いながら眠りにつくのだった。
◆◇◆◇◆
「これで全部ですわね」
操言院に持っていった多数のドレスや靴、髪飾り。本採用にならなかったそれらを、パーティーが開かれている間にひとまず守護部会館に運ぶ。それから、パーティーが終わる頃に馬車をペレス家に回して、寮組の新人たちを操言院の寮へ送り届ける。寮でタレレンカからドレス等の返却を受け、それを持って再び守護部会館に行き、すべての荷物を一か所にまとめたところで操言士フローレンスは一息ついた。
「谷義都、娘たちの寝かしつけはしてくれたかしら」
「はい、フローレンス様。旦那様の夕飯もすんでおります」
「まあ、まあ。ありがとう。ほんと助かるわ~。だめねえ、わたくしは。気持ちでは家族が一番だと思っているつもりだけれど」
フローレンスは寂しそうに呟いた。
ワーカーホリックで何よりも仕事を優先してしまう気質は、十分に自覚している。だてに四十年弱生きていない。だが、どんなに歳を重ねたところでいまだに適切な加減で自分をコントロールできないのだ。
「さて、集めたものはきちんとお片付けしなきゃいけないわね」
靴は靴屋へ、ドレスは自宅へ、一部の装飾品はイチコへ。楽しくてついついあちこちから借りて集めてしまったが、用は済んだのだからそれらはすべて丁寧に戻さなくてはいけない。
フローレンスは休憩もそこそこに、靴やアクセサリーを箱にしまい込もうとする。だが、フローレンスのその手首を谷義都がそっと掴んで止めた。
「フローレンス様、それは明日にしましょう」
「あら。でも、明日は明日のやることがあるのよ。それに、明日までに片付けておかないと、ラファルさんが困ってしまうわ」
「ドレスや靴が部屋の中にあったって、守護部の方々の仕事に影響は出ません」
「でも」
「今日はもう帰りましょう。フローレンス様のお顔を見ないと、旦那様が安心して眠れませんよ」
「そうねえ。あの人ったら、見かけによらず寂しがりだものね。じゃあ残念だけれど、今日はここまでにするわ」
フローレンスはそう言うと戸締まりをして、誰もいない守護部会館を谷義都と一緒に後にした。
フローレンスには夫がおり、二人の娘もいる。家族四人で住んでいる自宅に言従士の谷義都も住むようになったのは、九年前のことだ。以来、言従士谷義都はフローレンスの息子のように、家族に馴染んでいる。
フローレンスが仕事でいない間は、谷義都がフローレンスの夫の衣食住を世話することもあるし、二人の娘の面倒もよく見ている。フローレンスの仕事に言従士としての役割が必要でないときは、谷義都がフローレンスの自宅の掃除をし、洗濯をし、壊れた門の修理もする。それでは言従士ではなく使用人だ、と笑う人もいるが谷義都は気にしていない。
谷義都の根底にあるのは、自分の操言士であるフローレンスに誠心誠意仕えたいという気持ちであり、その気持ちをフローレンスも十分に受け入れてくれている。他人にどう思われるか、どう見られるかなど、二人には関係がない。そのうえ、フローレンスの夫も娘も谷義都を本当の家族のように大切に思って接してくれているのだから、それで十分だ。
「ごめんなさいねえ、谷義都。今回もわたくしのわがままに付き合わせてしまったわ」
自宅への夜道を歩きながら、フローレンスは苦笑する。
今回のパーティーの準備は、正式な「任務」とは言いがたかった。ゆえに、どれだけ谷義都が汗水たらそうとも、給金は出ない。フローレンスにはラファルが都合して少しばかり報酬が出るようだが、微々たる量だ。
「いいえ、フローレンス様。フローレンス様に必要なこと、フローレンス様がしてほしいと思うこと。それを全部するのが、言従士である俺の存在意義です」
けれども、給金の多寡など谷義都にはどうでもいいことだ。
――ありがとう。
ただ一言、自分の操言士からそう言われるだけで、生きている喜びを存分に感じられるのだから。
「うふふ、そう言ってくれるから甘えてしまうのよねえ。懲りずにこれからも付き合ってね、谷義都」
忙しさの中にあえて自分自身を押し込めているようにとらえる人もいるが、フローレンスは守護部の操言士として、自分を犠牲にしている。谷義都にはそう見えていた。
多忙を好むその心の奥底には、操言士として国と民のために存在せねばという、深い奉仕の精神がある。決して逃れられない、操言士という役割。その役割を心底真面目にまっとうとしようとして常に振り切っているのがフローレンスなのだ。
自分で自分を縛り上げるようなフローレンスが甘えたいと思うなら、存分に甘えてくれていい。むしろそうしてほしいと、谷義都は心の底から思う。操言士としての仕事でも、そうではないプライベートのわがままでも、なんでも言ってくれればいい。国のため人々のためと言って自分を犠牲にするフローレンスの、唯一絶対の味方が言従士の自分であり、そしてそう在ることが自分の生きる理由、人生のすべてなのだから。
「フローレンス様が俺のすべてです。死ぬまでずっと、俺のすべてがフローレンス様のものです」
「あらあら、熱い告白だこと。夫には聞かせられないわね」
「大丈夫です。旦那様にも毎日伝えています」
「まあ、そうなの? でも仕方ないわね。だって、谷義都はわたくしの言従士だものね」
私の言従士――。
そうフローレンスに言ってもらえると、谷義都の心は温かく満たされる。フローレンスに出会うまでの地獄のような日々にすら、感謝したくなる。あの日々があったからこそ自分はフローレンスに出会えたし、こんなにも生きている実感を得られるのだから。
「ありがとう、谷義都。明日もよろしくね」
「はい、フローレンス様」
頼られたいと思う言従士の気持ちをくんで、操言士は全力で言従士を頼る。
操言士と言従士は、こうして絆を強くしていくのだ。
◆◇◆◇◆