5.二人の男(下)
「悪いな、一応仕事中だから見回りに戻る」
「あ、すみません、おしゃべりしてしまって」
「いや……君もそろそろ中に入れ。その薄着じゃ風邪をひく」
「はい」
小声で頷く紀更の頭をなでたいとユルゲンは思ったが、せっかくセットしている髪型を崩してしまうかもしれないとためらい、その衝動はぐっと抑え込んだ。
「じゃあな」
代わりに別れの言葉を告げて、ユルゲンは屋敷の裏側に向かって暗闇の中を進んでいく。その足取りは確固たるもので、紀更を残していくことへの未練などまったくないように見えた。
(これで終わり?)
段々と小さくなっていく、ユルゲンが持っていた携帯用明灯器の灯りとその背中。
以前、実家の呉服屋「つむぎ」にユルゲンと紅雷がやって来た時、ユルゲンは紀更の操言ローブ姿くらいは拝ませてほしいと言っていた。今の予期せぬ邂逅で修了試験に合格できたことは伝えられたが、ご所望の姿は見せていない。
(またどこかで……)
彼に会えるだろうか。操言ローブを羽織った姿をお披露目できるだろうか。それとも今夜の出会いで満足されてしまっただろうか。これでユルゲンとのつながりは最後だろうか。もう二度と、彼に会えることはないのだろうか。
(祈聖石巡礼の旅……ユルゲンさんに護衛を頼む……)
王黎が示してくれた、ひとつの可能性。
しかしユルゲンと一緒にいたいという個人的な願望のために、祈聖石巡礼の旅に出たいとは言えない。もう一人前の操言士になったのだから、これからは操言士団守護部という組織の一員として、上司であるラファル指揮のもと、働かなければならないのだ。
(それでも……)
置いていかないで。いなくならないで。
見えなくなってしまったユルゲンが名残惜しくて切なさがつのる。
(一緒にいたいの……)
どうすればいい。どうしたらいい。
自分勝手に振る舞いたくて、でも実際にはそうできそうにない自分。この胸の中には欲望があるはずなのに、いつまで経ってもそれを持て余している。それを直視してどうにか叶えようとすることを、恐れている気がする。
(ユルゲンさん)
でも無意識のうちに、心の中で彼の名を呼んでしまう。
ままならない気持ち。処理しきれない感情。操言士としての義務と、個人としての願望。そのふたつを両立させることは不可能なのだろうか。
紀更は身体だけでなく心まで冷えてきた気がして、俯いたまま室内へ戻ることにした。
廊下に足を踏み入れて少し進んだところで、自分の足先に誰かの足先が映る。ぶつからないようにするために、紀更はのそりと視線を上げた。すると、立ち止まった紀更と同じようにその足の持ち主も立ち止まったようだ。焦点の定まらないぼんやりとした紀更の瞳は、吸い込まれるようにそこにあった赤に釘付けになる。
(真っ赤な瞳?)
その人物は何かもの言いたげに、黙ったまま紀更を見つめた。
蛇に睨まれた蛙のように動けない紀更の思考回路は、スローモーションで回る。
(イレーヌ様みたい……。それに、紫紺の髪……サンディ王子と同じ)
物言わぬ青年は紀更より少し年上、二十代半ばくらいだろう。面影がサンディに似ていたが、サンディよりも目付きは鋭く、肌も日に焼けている。紫紺のその髪はサンディのように短く整えられてはおらず、どこか雑に伸ばしっぱなしだ。しかし、一目見たら忘れられない独特のオーラは、やはりサンディと似ているものがある。
(あれ……待って)
――今夜はわたしの兄、第一王子のレイモンドもこのパーティーに招かれているのです。
――紀更殿、もしも兄を見かけたら、ぜひ話しかけてやっていただけませんか。
少し前の、サンディとの会話がよみがえる。
(紫紺の髪、赤い瞳……この人が!)
ゆっくりだった頭の回転が急にスピードを上げる。
「あのっ」
だが、紀更がしっかりと声をかける前にその人、第一王子のレイモンドは紀更から顔を背け、廊下の奥へと足早に去ってしまった。
「ま、待って」
紀更は慌ててその背中に声をかけたが、ほかの招待客が目の前を横切り、あっという間にレイモンドを見失ってしまう。
廊下でもおしゃべりに興じている招待客たちを避けながら、紀更はレイモンドが向かった先へ進んだ。しかし廊下の先は玄関に続いており、一足先に帰宅しようとしている招待客たちが、別れの挨拶を交わし合いながら小さな混雑を作っている。
そのまばらな輪の中に、レイモンドの姿は見つけられなかった。
◆◇◆◇◆
「それは光栄な申し出だね。理由を訊いてもいいかな」
切実な表情でこちらを見上げてきたブリアナに、王黎は努めて笑顔で尋ねた。
「王黎さんは最も若い年齢で師範の称号を得た、とても優秀な操言士です。レイモンド王子の護衛をなさっていたので王家からの信頼も厚く、実力も兼ね備えた有能で素晴らしい方です。わたくしは、王黎さんのように立派な操言士になりたいのです!」
「うーん」
「レイモンド王子の護衛だけではありません。かつてゼルヴァイス付近に大量発生した怪魔の大討伐や、ディーハ山脈の防御壁補強作業など、王黎さんが成し遂げた偉業の数々は、幼かったわたくしにも聞こえてきました。王黎さんは歴史に名を残すほどの、偉大な操言士になりますわ。いえ、すでにもうなっています!」
若干緊張しながらも、ブリアナは王黎の経歴を称賛する。
確かに、王黎はかつてレイモンドの護衛として、彼の国内見聞の旅に随従したことがある。ゼルヴァイスの大討伐も、セカンディアからの侵攻を察知するために操言の力で作られている見えない防御壁の補強作業も、間違いなく王黎がやり遂げた実績のひとつだ。しかし、ブリアナの称賛は何ひとつ王黎の心には響かなかった。
「どれも僕一人で成し遂げたことじゃないよ。僕は僕にできることをしただけで、ほかの操言士や騎士、時には平和民団の協力もあったからできたことだ。歴史に名を残すなんて、大げさだよ」
「いいえ、そんなことありません! 王黎さんの輝かしい功績は、きっとこれからも増えていきます」
(別に増えなくていいんだけどねえ)
ぼやきは声に出さず、王黎は胸の中で呟いた。それから、断りの理由を遠回りに述べてみる。
「キミも知っていると思うけど、僕にはすでに、紀更っていう弟子がいるんだよねえ」
「弟子を同時に二人以上とることは、禁止されていません。そうですよね?」
王黎がそう言って断ることを想定していたのか、ブリアナは落ち着いて同意を求めた。
端的に言って、ブリアナは紀更のことを羨ましく思い、そして妬んでいる。「特別な操言士」という二つ名で呼ばれ、何かとつけて人々の話題にのぼっていること。成人間近という遅い年齢にもかかわらず操言院に入ったり、見習い操言士の分際で弟子入りしたりするなど、特別扱いされていること。しかも弟子入りした相手が、ブリアナが密かに憧れていた、最年少で師範の資格を得たあの王黎だったこと。
紀更に関わることが耳に入るたびに、ブリアナは自分の中に嫉妬の炎が生まれるのを感じた。羨ましくて、いつしか憎く思うほどになっていた。操言院での成績がふるわず、落ちこぼれだと周囲から見下されている彼女を見ると、溜飲が下がる思いがした。
しかしその紀更と同期になって、本人と言葉を交わせば交わすほどに、ブリアナは戸惑った。紀更自身は何も特別ではなく、驕っているところもなく、ブリアナに比べて少し無知な部分もあったが、自分の知らないことを素直に学ぼうとする姿勢があった。教師操言士たちや見習いたちが好き勝手に噂していたような、一から十まで劣っている人物ではなかった。
(でも、あの娘の力はやっぱりトクベツで……)
操言院での成績は良くないと聞いていたのに、修了試験で彼女が見せた操言の力はとてつもなく大きかった。それなのに、本人はそれを自覚していないように見える。
トクベツと揶揄されているのに特別ではなくて、でもやはりトクベツで、だけど話してみれば普通の女の子で――。
(――なんなの……何なのよ!)
特別扱いされて、醜く天狗になればいいものを。そうすれば、もっと周囲に嫌がられて煙たがられて、自分が操言士としては異質な存在なんだと惨めに嘆くだろう。そうすればこちらだって、罪悪感なく彼女を見下せる。トクベツなのはすごいことではなく劣っているということ。その劣っている存在を、自分たちのように生まれつき操言の力を宿していた本当の操言士の輪から、躊躇なく追い出せる。のけ者にできる。
それなのに紀更自身に驕ったところはなく、実力的にも劣っているとは言いがたいので、憎むに憎めない。軽んじて嘲ることができるほど、彼女は落ちこぼれていない。それどころか彼女の力の大きさを思うと、やはり彼女は特別な存在なのかもしれないと、こちらが必要以上に意識してしまう。
羨ましい、妬ましい。憎みたい、憎めない。排除したい、排除できない。
操言士としては自分の方が上なんだ。上にいたいんだ。後天的に操言の力を宿したなんてまがい物だ。正しい操言士なんかじゃない。