3.思惑(中)
紀更の持つ操言の力の大きさは確かに異常だった。マチルダを通して、アンヘルからその大きさについて事前に報告は受けていたが、いざ目の前にしてみると言葉を失うほどだった。それだけの力を宿していながら本人が平然としているところを見ても、その異常さは際立つ。それに、修了試験の課題程度では彼女が全力を出すには至らなかったようにも見えた。本来なら大声を出せるのに、ささやくような小声で話しているようなものだ。おそらく、試験の課題のようなままごとではなく、切羽詰まった有事の際などに強く激しく全力を出せば、紀更はとてつもないことを操言の力で実現できるだろう。もしも彼女が「特別な操言士」ではなく、普通の操言士としてあの大きさの力を持って生まれていたのなら、間違いなくタイプⅣを与えていた。
(後天的に力を宿したからなのか、それともあれほどの大きさの力だから後天的に宿ったのか。力が強大すぎたから、《光の儀式》の際、ライアン王は紀更の操言の力を感知できなかった? その可能性は考えられるかもしれないわね)
紀更はなぜ、十六歳の時に操言の力を宿したのか。その答えは出ていない。
あらゆる知識を得、オリジーア黎明期の出来事にも明るいコリンだが、それでも「特別な操言士」に関することは何もわからないままだ。積極的に調べようとしていないためでもあるが。
(後天的に操言の力を宿した、異例の存在。いえ、違う……正確には二人目……でもそれを考えてしまったら現状は崩れる。何かが変わってしまう……ようやく築いた戦争のない時代が。戦う相手は怪魔だけ……そう仕向けたのに)
二度と戦争で操言士が犠牲にならないように、操言士は怪魔とだけ戦っていればいい。その理想のために、怪魔という必要悪を密かに認めて利用してきたのに。
紀更を起点にして、操言士をとりまく今の環境がもしも変わってしまったら、世界はまた、あの時代に戻ってしまうかもしれない。その恐れがコリンの中に渦巻く。
(何も変わらなくていいのよ。このままで……特別なことなどない、許さない……世界が変わるなんて……犠牲なんて、誰も……)
恐れて怯えていることを悟られないように、コリンは表情を硬くする。
しかし心身を強張らせるほど、呼応するように記憶がよみがえる。
――いつか必ず、この世界は大きく動き出す。再び誰かが犠牲になる日が来るんだ。
若い頃の思い出。オリジーア国内を旅する中で繰り返した癒しと絶望。重ねた痛みと苦み。それらの上にようやく成り立った、理想の時代。それは静かに少しずつ、色を変えていく。形も変わっていく。変化を拒む者の思いなど、微塵も考慮せずに。
(それでも、今の私には課せられた使命がある)
操言士団団長――三公団のトップの一人として、やらなければならない。それが己の恐れている変化を加速させるかもしれない、という予感があっても。もう少しだけ、今の理想の世界でいてほしいと、そう思わずにいられないとしても。
「喜代美師匠――」
焦点の定まらないコリンは、久しぶりにその名を口にした。しかし会場内は多くの招待客の歓談の声で満たされており、近くにいるジャックにさえ、コリンの声は小さすぎて聞こえなかった。
◆◇◆◇◆
「どうだ?」
「異常なし。楽な仕事だよなあ」
ユルゲンと同じく、王黎の紹介で雇われたフリー傭兵の楊とミケルは、ペレス家の敷地の外を見回ってお互いに声をかけ合った。
「あ」
「どうした」
「いや、でけぇ犬がいる」
「犬?」
ふとミケルが指差した方向に、楊は目を凝らした。周囲が暗いのではっきりとは見えなかったが、石畳の歩道の上に大型犬以上の大きさの犬がいる。
「確かにデカいな」
「毛並みがきれいだ。どこかの家から逃げ出したのかもしれない」
「このあたりの屋敷はどれも馬鹿デカいからな。飼われてる犬もでけぇのか」
楊は冗談めかして笑った。
大きな犬は礼儀正しく前足をそろえて尻を床に付け、ペレス家を囲む石の塀を見上げている。そこに大事なものがあって、それを見守っているかのように。
「報告するか?」
「いや、あの様子なら大丈夫だろ」
犬はまるで主人の帰りを待っているかのようにおとなしい。これが野良犬で、敷地内に入って誰かを襲うかもしれないなら捕まえてどこかへ放り出すところだが、どうもその様子はない。陽が沈んだ暗闇の中ではその姿が目立つこともないし、危険因子ではないだろう。
楊はそう判断すると、静かに犬に近付き、その頭をひとなでした。寄ってみてあらためて思うが、犬種の中でも最大級と言ってもいい大きさだった。
「いい子だな。頼むから、今夜はそのままいい子でいてくれな」
犬は嫌がるそぶりもなく、おとなしくなでられている。
桜色の毛並みのそのミズイヌが、先日夕食を共にしたメヒュラの少女であることに二人は気付かなかった。
◆◇◆◇◆
「清彦さん、どうぞよしなに」
「善処はする。だが過度な期待はやめてくれ」
「そこをどうか、よろしくお願いいたします」
丸く肥えた体形の男性に、操言士清彦は冷静に伝えた。男性はへこへこと頭を下げながら清彦から離れていく。そこへ、取り皿にチキンソテーを乗せて操言士萌夏が戻ってきた。
「今の、ディマンニ地区の工房の方ね?」
「ああ。まったく」
清彦は困ったように頭をかいた。パーティーなので礼服を着ているが、首を一周覆うように彫られた刺青が非常に目を引く。
「怪魔の襲撃に備えて、怪魔避けの生活器の需要が伸びている。民間部の操言士を増やして、各工房やギルドに配置してくれとの陳情だ」
「なるほどね」
萌夏はチキンソテーの乗った皿を清彦に渡しながら、相槌を打った。いつもは背中に流していることの多い薄茶色の長い髪は、今夜は夜会巻にしてまとめている。
清彦は萌夏から皿を受け取り、大きな口を開けて頬張った。
「国内部の操言士を、民間部に回してもらう?」
「ダミアン部長は許可してくれるかもな。けど、ロジャーとヘススは許さないだろう」
「じゃあ、民間部の操言士が過労で倒れるまで見過ごすわけ?」
萌夏は少しむっとした表情になった。
「そうは言ってねぇだろ」
「何もしないんじゃ、そういう未来しかないわよ。まったく、操言士は奴隷じゃないのよ」
萌夏はぷりぷりしながら果実酒をあおった。
「怪魔が怖いのはわかるけど、だったら平和民団も、もっと調査に協力してくれればいいのよ。特に幹部なんか、何もしてないに等しいじゃない」
オリジーア国内は、怪魔多発の話で持ち切りだ。音の街ラフーアとポーレンヌ城下町が襲撃されたこと、操言士が行方不明になっていること、主に国の南方で怪魔の出現頻度が増えていることは、日々人々の話題にのぼる。
しかし、オリジーア王が三公団にどのような指示を出しただとか、三公団がどのような目的で動いているだとか、そうした国の対応策の詳細が一般市民に丁寧に開示されることはない。そのような情報開示ルートがないからだ。せいぜい、都市部の役所が雇った口頭読売師などが、公にしても差し支えのないような情報を広場などで声高に叫ぶだけである。しかも、それをじかに聞く市民よりも、聞けない市民の方が多い。
そのため多くの国民は、知り合いやご近所からの伝聞を重ねることで情報を得るのが一般的だ。そしてそうした伝聞による情報は、人から人へと伝わっているうちに往々にして尾ひれがつく。いわく、襲撃されたのは操言士が防備を怠っていたからだの、操言士は行方不明になったのではなく怪魔が怖くて隠れているだけだの、各地の騎士団による検問や見回りが強化されているのは、実は怪魔が人に化けているからだの、根も葉もない、話題性を重視したような噂にすっかり姿を変えている場合もある。
人の口に戸は立てられないうえに、庶民はいつもと違う動きに敏感だ。今までと違って都市部間の夜の移動が制限されたり、夜の見回りをする騎士や操言士の人数が増えたりすれば、その裏に何かあると考えるのは道理。人々は、自分自身が火の粉をかぶらないぎりぎりの範囲で不穏な噂を口に出しては、非日常な空気を無意識のうちに楽しんでいる。
だが実態を正しく把握し、正しい目的のために正しい命令で動いている者たちにとって、それら一般市民の噂話はやる気を消耗させる毒にしかならない。
怪魔から都市部を防衛するために、日夜交代で気を張りつめている騎士団と操言士団。それだけでなく、騎士団はピラーオルドと名乗る組織の人物がいないか、都市部の見回りをしたり、都市部を出入りする者たちを厳しく検問したりしている。一方操言士団は、もとから何名かいた他国への斥候の人数を増やし、他国の情勢も探っている。ピラーオルドという組織を擁している国がどこなのか、突き止めるためだ。