9.顔合わせ(下)
波動符官は操言士の中で最も特殊な職種で、現役の操言士はわずか三名しかいない。彼らは第二城壁に守られた、王城がある敷地内に建っている「天女の間」と呼ばれる建物の中で、国中の操言士の波動を日々感知しているのだという。
――波動符官はその成り立ちから役割まで、全部話すとそれだけで一日がつぶれてしまうわ。波動符と呼ばれるとても特殊な生活器を扱う、少数精鋭の特殊な職業ってことだけ、とりあえず憶えていればいいわ。ほかのどんな仕事よりも、持って生まれた資質が適するかどうかが重要なの。それと、波動符官は国内部所属だけど、実質的に管理してるのはコリン団長ご自身よ。
――コリン団長?
――コリン団長は波動符官ではないけれど、今の波動符官の役割を確立した人なの。
――役割を確立……。
――波動符そのものはコリン団長より上の世代の操言士が作ったとされているけれど、詳細が公にされていないからよくわからないのよね。ただ、操言士に関して何か異例の事態が起きた際は、波動符官のはたらきが必要とされるらしいわ。
雛菊がしてくれた話を思い出しながら、紀更は教壇の上に視線をやった。そこには丁寧に折りたたまれた真新しい操言ローブと、新品の操言ブローチが人数分。そして、紙のような布のような、どちらか判別しづらい素材でできた、腕の長さほどの札のようなものがあった。札も人数分用意されていたが、どれも白い背景に色の違う横線が一本だけ入っている。
(国中の操言士の波動を感知するための、あれが波動符なのかしら)
「授与の前に、操言ブローチの取り扱いについて説明する」
紀更は波動符官の存在が気になりつつも、すっかり聞き慣れたアンヘルの愛想のない声に耳をかたむけた。
「刻まれている刻印は削ってあるものなので、消えることはない。また、職人操言士の手によってあらゆる保護が施されているので、多少落としたりぶつけたりしたぐらいでは傷つかない。紛失した際は速やかに、近くの操言支部に届け出ること。再授与はされるが、場合によっては紛失したことへの懲罰として、降段させられることもある。重々気を付けたまえ。それと」
アンヘルはひとつの操言ブローチをかかげた。それは親指と人差し指で作った円ほどの大きさで、衣服に装着するための留め具がうしろに付いている。外周は二重の銀の装飾が施され、装飾に囲まれた中央には丁寧に磨かれて光を反射する白い石がはめ込まれていた。そして、その石の中央にはⅠという文字が刻まれている。
「見てのとおり、ここに用意した操言ブローチの色はどれも白い。しかし、授与後にこの色は変わる。百聞は一見に如かずだ。まずは理知介、前に来たまえ」
アンヘルに呼ばれて、理知介はアンヘルの立つ教壇の前に立った。するとアンヘルは、折りたたまれた白い操言ローブの上に白い札と操言ブローチを乗せてワンセットにして、そのセットを理知介の前に差し出した。
「これが君の操言ローブと操言ブローチだ。操言ブローチの上に手をかざし、操言ローブの方に防水の加護を施してみたまえ」
「はい」
理知介はアンヘルから渡されたローブを左手のひらの上に乗せると、札とブローチを挟むように右手のひらをかざした。そして、言われたとおり操言の力を使ってローブに防水の効果を施す。
「よろしい。ではブローチを見たまえ」
「え……あれっ」
紀更たちは気になり、理知介の背後や隣に集う。そしてローブの上のブローチに注目した。
「白じゃなくなってる……」
真っ白だったブローチの石は、少し灰色がかった青に変色していた。
「瞳の色ですね」
その色が理知介の瞳の色と同じだと気付き、カシムは呟いた。そしてアンヘルが授業中と変わらぬテンポで解説する。
「そうだ。初期状態の操言ブローチを持って操言の力を使うと、ブローチがその力に反応して持ち主の瞳の色を宿すんだ。これも職人操言士の高度な技術の賜物だ」
「もしも誰かのブローチと混在した際に、自分のだとすぐ気付けますね」
「それもブローチの色の役割だな。だがほかにも、自分は操言士だと騙り、偽る者に対してその真偽を確かめるという役割もある」
「自称操言士に、操言ブローチの色の由来を問いただせばいいわけですわね。どうやってブローチの色が付くのか答えられるのは、修了試験に合格してこのようにブローチを授与された、本物の操言士だけですもの」
ブリアナの解釈に、タレレンカはなるほど、と頷いた。
「そのとおりだ。全員、このローブとブローチを受け取ること、そしてそれを身に付けることの意義を生涯忘れないように。そのつもりで受け取りたまえ。では次、カシム」
そうして一人ずつ、神妙な表情で操言ローブと操言ブローチを受け取った。白い札だけはなんの変化もなく、波動符官の奈美によって淡々と回収されていった。
紀更は、ようやく手にした一人前の証――鮮やかな瑞々しい緑色の操言ブローチを窓の外の太陽にかざし、角度を変えてじっくりと魅入る。
(これで、本当に一人前……)
「では以上だ。全員、明日のパーティーに向けた段取りを忘れないように」
アンヘルがそう告げると、理知介が一番に教室を出ていった。それから、カシムとタレレンカが雑談をしながら。ブリアナも、言葉にこそ出さないものの感慨深いようで、操言ローブをぎゅっと胸に抱き、操言ブローチを大事そうに持って出ていく。二名の波動符官も、短い会話をアンヘルと交わしてから退室した。
最後まで教室に残った紀更は、アンヘルに笑いかけた。
「アンヘルさん、たいへんお世話になりました。このローブとブローチをもらえたのは、アンヘルさんのおかげです」
「ああ……まあ、そうだな」
アンヘルの返事は歯切れが悪い。おそらく、アンヘルなりに照れているのだろう。
「修了試験の結果は悪くなかった。そのブローチに刻印されたタイプⅢが意味するところ。怪魔との戦いに、君は向いている。だが決して自分を過信しないように。合格はしたが、ほかの同期達に比べて、君の力の使い方はまだまだ未熟で甘い。雑で、力任せなところがある」
「はい」
「操言士は生涯、修行と研鑽が必要だ。なぜ君が後天的に操言の力を授かったのかはわからない。だが、今日をもって君は本当の操言士になった。国と人々のために、その力を使いたまえ」
「はい、ありがとうございました!」
紀更ははきはきとした声で礼を述べ、頭を下げた。
アンヘルは常に上から目線に物を言う、印象の良くない嫌味な人物だった。だが、操言士団教育部という組織ゆえにそうなったのだろうとも思うし、それが彼のすべてではないということにも次第に気付けた。集団授業ではなく個別指導だったせいもあってか、アンヘルは徐々に、「特別な操言士」という異例の見習いではなく紀更という一人の個人を見てくれるようになってきた。教育部の操言士として長年教えてきただけあって、基礎ができていない紀更に根気よく基礎をたたきこんでくれた。
もしもアンヘルと初対面のあの日の自分に、「彼はけなして見下すだけでなく、正直に褒めてくれるところもあるし、良い先生よ」と言っても、きっと信じないだろう。
お世辞ではなく本当に、合格はアンヘルの力のおかげだ。それと、雛菊も。
(雛菊さんに会えるかしら)
アンヘルへの挨拶を終えた紀更は、第十七教室を出てひとまず寮へ向かう。その道程で操言院の中をきょろきょろと見回した。どこかですれ違えないかと思ったが、雛菊の姿はなく寮に着いてしまう。しかし寮の一階で、黒縁のティアドロップ型眼鏡をかけたよれよれのカーディガン姿を見つけて、紀更は笑顔で駆け寄った。
「雛菊さん!」
「なかなか来ないから、もう国内部に戻ろうかと思ったところよ」
雛菊は不機嫌そうにちらっと紀更を見て、横を向く。
「すみません、私も雛菊さんを探していました。よかったです、会えて」
「まあ、おめでとうくらい、直接言ってあげるわ」
雛菊はぶっきらぼうに言う。アンヘルといい雛菊といい、一癖も二癖もある指導者だったがもう何も言うまい。
「雛菊さん、三週間近く、本当にありがとうございました。雛菊さんのご指導のおかげで、無事に修了試験に合格できました。タイプⅢの操言ブローチをもらって、今日から守護部の所属です」
「そう、おめでとう。結果が出てよかったわ。これでようやく、肩の荷が下りる」
左右の肩を順番にぐるりと回す雛菊に、紀更は苦笑した。
「この先何かを学ぶ際は、雛菊さんを参考にします。情報が偏らないように。知識のその奥へ、目を向けられるように。ひとつの流れとして、理解できるように」
「参考になんかしなくていいわよ。頭デッカチの本の虫になるだけだからね」
「ふふっ」
雛菊の自虐に、紀更は小さく笑う。そんな紀更につられて雛菊もうっすらと目を細め、口角を上げた。雛菊の笑顔らしい笑顔を、紀更はこの日初めて見ることができた。
こうしてついに紀更は見習い操言士を脱し、操言院に別れを告げるのだった。