9.顔合わせ(上)
「イレーヌ様、試験補佐官を務めてくださり、ありがとうございました」
マチルダが教室を出たあと、紀更とブリアナは試験補佐官だったイレーヌという名の操言士にうながされて、操言院から操言士団本部を目指してメクレドス地区の歩道を歩いていた。
イレーヌはマチルダよりも年上に見え、五十は超えているだろう。赤い瞳には美しさと優しさがあふれ、栗色のショートヘアにはどこか若々しい雰囲気が感じられるが、落ち着いた少し低い声で丁寧に喋るところに、隠し切れない高貴さや重ねた歳の重みを感じる。
ブリアナはイレーヌと面識があるようで、歩き出すなり自然な流れで礼を述べた。
「イレーヌ様と同じ守護部に所属できて、嬉しいですわ」
ブリアナは人懐っこい笑顔で少し背の高いイレーヌを見上げる。
「そうですか」
イレーヌはほほ笑み、短い返事をすると、白い操言ローブを少しひるがえしながら操言士団本部へ歩いていく。
(ブリアナはイレーヌ様とどういう知り合いなのかしら)
イレーヌに話しかけられない紀更は、二人がどんな関係なのか胸の中で疑問に思う。そんな紀更を、イレーヌは横目で見やった。
「二人はまだ、互いの自己紹介すらしていませんね」
イレーヌは足を止めると、ブリアナと紀更の二人に等しく視線を送った。
「守護部会館に着く前に、それくらいはすませましょう」
紀更とブリアナも足を止めたが、二人の間には妙な沈黙が流れる。
ブリアナは昨日の昼休みのように紀更に対してマウントをとりたいらしく、少し不機嫌そうな顔で紀更を見つめる。一方の紀更はそんなブリアナに付き合う気はないので、努めて自然に口を開いた。
「紀更です。歳は十七。実家はマルーデッカ地区の呉服屋つむぎです。よろしくね」
紀更は右手をブリアナに差し出した。その手を取るかどうか、ブリアナはしばし迷う。しかしイレーヌの視線を感じたのか、渋々と自分も右手を差し出して握手を交わした。
「ブリアナよ。あなたは〝特別な操言士〟なんて言われているけど、わたくしの両親の名字はモワナールで、父はシドニー王妃の弟なのよ! まだ苗字を継いでいないけれど、わたくしもいつか、モワナールの苗字を継ぐつもりなんだから!」
ブリアナはだいぶ不服そうな顔で、まくしたてるように言った。
「モワナール?」
ブリアナの自己紹介に知らない名字が出てきたので、紀更はぽかんとした表情で訊き返した。そんな紀更に対して、ブリアナはいよいよ不機嫌な顔を隠さない。
「ちょっとあなた、まさかモワナール家を知らないの!?」
「ええ、ごめんなさい」
「嘘でしょ。いえ、どうりで」
ブリアナは憤ったようだが同時に何かを納得したようで、わざとらしいまでに大きなため息をついて両手を腰に当てた。そして顎を突き出した尊大な態度で紀更に告げる。
「あまりにも無知で幼稚なあなたに、きちんと教えてあげるわ。モワナール家は四大華族のひとつで、王族に対して送嫁することが多いのよ」
「そうかする?」
「それも知らないなんて! あなた、本当に操言院で学んだの!? 信じられないわ! 特別な操言士と言ってもてはやされているからって、勉学を疎かにしたんじゃなくて!?」
ブリアナは蔑みをありありと浮かべて紀更を睨んだ。
「それは操言院にいれば誰もが等しく必ず学ぶことなの? 全員が受ける授業の内容なの?」
何度も何度も「特別な操言士」と呼ばれることに腹が立ってきたのもあって、糾弾するブリアナに紀更は鋭く訊き返した。
「あなたにとっての常識を私が知らないことは、そんなに責められなきゃいけない?」
お前は学んだのか、と馬鹿にするように咎めるが、そもそもそれは必修科目か。全員が等しく知る機会のあることか。ごく一部の集団において常識とされているだけのことではないのか。狭いコミュニティにおける常識を知らないからといって、それだけで無知扱いされるのは正直理不尽だと思う。
「そ、それは……授業の内容ではないけれど」
そんな風に尋ねられるとは思っていなかったのか、それとも紀更の指摘が正しいと思ってしまったのか、ブリアナはうろたえた。しかし彼女はなかなかに打たれ強いようで、すぐにご高説を再開する。
「現国王であるライアン王の伴侶のシドニー様は、結婚前はシドニー・モワナールといって、モワナール家の令嬢だったのよ。そして、わたくしの父はシドニー様の弟。つまり、わたくしはライアン王の御子である王子たちと従兄妹の関係なのよ。おわかり? 特別な操言士さん」
紀更は、本人の意図とは関係なく、誰からも一方的に「特別な操言士」と呼ばれる。自分の境遇が「普通」とは「違う」のだと自覚はしているけれども、自分自身がトクベツだと思ったことも、トクベツ扱いが嬉しいと思ったこともない。
一方ブリアナは、自分の出自をたいそう誇りに思っている。紀更は四大華族だとか「そうかする」だとか、ブリアナが身を置いてきた環境のことはわからない。しかし彼女の認識としては、王族と関わりのある自分の方こそ「特別な存在」なのだ。あるいは、特別な存在だと思いたいのだろう。だから自分以外に「特別」扱いされる紀更に、不必要なほど突っかかるのだ。
ブリアナの性格の背景が理解できて、紀更は納得した。
「なるほど、わかったわ。あなたは、王族と関わりのある、特別なお嬢様なのね」
温和な紀更にしては珍しく、棘のある嫌味な言い方だった。
昨日初めて顔を合わせたばかりで、まともな自己紹介もたったいましたばかり。そんな相手から一方的にこき下ろされ続けて、さすがに苛立ちが積み重なっていた。自分の中で消化しきれないその苛立ちが、鋭い声と硬い言葉になって紀更の口から出ていく。
「ただでさえ王族と関わりがあるのに、あなたは操言の力もあってすごいのね」
「そうよ! 王族の方とは小さい頃から交流があるの。わたくしは王族に近い操言士なのよ! あなたと違ってね!」
ブリアナはそう言ってふん、と腕を組む。先ほど、紀更に言い負かされた空気に一瞬だけなったが、こうして紀更が自分のことを認めたので、とりあえずいい気持ちになったようだ。
どうも穏便とは言えない二人の自己紹介を、イレーヌは黙って見つめていた。しかし、紀更とブリアナがそれ以上互いの心の距離を縮めようとしなかったので、現在の目的地である守護部会館へと再び歩き出すのだった。
「ラファル部長、新人をお連れしました」
操言士団本部の敷地にある守護部会館。その四階にある部長執務室に、イレーヌは紀更とブリアナと連れて訪れた。
「おう、入れ」
大きな執務机に座っていたラファルは丸眼鏡の位置を直してから立ち上がり、三人に近付く。イレーヌは紀更とブリアナに、前に出るようにうながした。
「よく来たな、モワナール家のお嬢さん。それと、〝特別な操言士〟さん」
「紀更、です! よろしくお願いします」
「わたくしはブリアナですわ。本日をもって守護部所属の初段操言士となりました。よろしくお願いいたします」
紀更が手短に挨拶を述べ、続いて負けじとブリアナも挨拶をする。
先ほどからブリアナに「特別な操言士」と呼ばれ続けていたことで腹が立っていた紀更は、ラファルにも同様の呼び方をされて思わずむっとした表情になってしまった。そしてブリアナの方は、先に紀更が挨拶したことで負けたような気持ちになり、悔しさが声に滲んでしまった。二人のその胸中が手に取るようにわかったラファルはガハハと笑う。
「こりゃまた仲の悪そうな同期だな。初日からどうした、二人とも」
「いえ」
「なんでもありませんわ」
紀更はなんと答えるべきか適切な言葉が見つからないので曖昧に否定し、ブリアナは少しでも自分の印象を良く見せたいがために、愛想笑いを振りまいた。
その反応がまた対照的でわかりやすく、ラファルは子猫の喧嘩でも見ているような気分になって笑いが止まらない。
「あっはっは! いいねえ、個性が強くて。守護部でやってくにはそれくらい尖っていないとな。なあ、イレーヌ」
ラファルはイレーヌに話題を振るが、イレーヌはゆったりとほほ笑むだけで言葉を返すことはなかった。
「まあ、お前ら。ちょっと座れ。あ、イレーヌはここまででいいぞ。ご苦労さん」
「では、失礼します」
ラファルに頭を下げると、イレーヌは部長執務室を出ていった。
ラファルは紀更とブリアナを応接用のソファに座らせ、自分も向かい合って腰を下ろす。
「んじゃ、あらためて。二人とも、修了試験合格おめでとう。そしてようこそ、操言士団守護部へ。俺は守護部部長のラファル。お前らの上司ってことだな」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
二人はそろって頭を下げ、再び挨拶をした。
「二人の修了試験の様子や結果はすでに聞いている。だが、俺はンなものは気にしない。これから先、お前らは操言士としてどれだけ国に貢献できたか、人々に尽くせたか、それをもって評価される。たかが操言院の試験結果なんかなんの意味もねえ。つまり、どんな理由や経緯があって守護部に来たかはたいしたことじゃねぇんだ。大事なのはこの先何を成し遂げられるか、何を実際に成し遂げたかだ。このオリジーアという国と民のためにな。まずはそういうことを意識してくれ。いいな」
「はい」
紀更は力強く頷いた。