4.青空教室(下)
その時、師匠の言葉の後半の意味はすぐには理解できなかった。だが歳を重ねるごとに意味がわかり、その言葉の重みが身に沁みてくる。
怪魔という脅威に身をさらして、時に命を落とす操言士。その運命に負けぬように、その宿命を誇れるように、そのために国と人を知る。知らなければならない。
(知ることで絶望を感じることがあったとしても……ね)
それが時に自分を傷つけることもあるけれど。
「本当の意味で、人々や国を守る……」
少しばかり昔を懐かしむ王黎の隣で、紀更は師匠の言葉を咀嚼した。かつて操言士道貴が弟子の王黎に伝えた言葉は少しだけ形を変えて、今度は操言士王黎から弟子の紀更の心へと刻まれていく。
(王都……ラフーア、ポーレンヌ……父さん、母さん、サム……この国で生きる人々……みんなを守る)
操言士ならできること。操言士だからできること。
紀更は、それが自分の歩く道のような気がした。
(一年前に、なぜか後天的に授かったこの操言の力。普通の操言士と経緯は違うけれど、操言士として生きなければならないさだめを、役目を背負ったことには違いない。操言士として生きるこの先の人生をどう過ごすか……ちゃんと納得して自分で決めたい)
なぜ後天的に操言の力を宿したのか理由はわからないが、これは間違いなく自分の人生なのだ。ぼんやりと流されるように生きるのではなく、自分の足でしっかりと地を踏んで生きていきたい。
――人生ってのは自分の前にすでにできている道を歩くことじゃない。悩んだり苦しんだり、失敗したり成功したり、そういう経験を重ねながら自分のうしろにできた道が、自分の人生なんだ。
今はまだ先のことが見えなくてもいい。探して見つけて確かめて、手応えを感じながら進んでいけばいい。そうして自分のうしろにできた道を、いつか誇れるように。
「それとね、紀更。もうひとついいことを教えてあげよう」
王黎は目を開いた。いたずらを思いついて、それを実行するのが楽しみで仕方がない、といった含み笑いを浮かべる。
「祈聖石巡礼の旅に出る場合、目的地や旅程によっては護衛をつけることがよくあるんだ。僕はほとんどが師匠と二人旅だったけどね」
「前回も騎士団のエリックさんとルーカスさんが護衛についてくださいましたよね」
「そうそう。前回の場合は、〝特別な操言士〟の護衛ってことでちょっと特殊な背景があるけどね。操言士は操言の力で怪魔と戦うことができる。とはいえ、さすがに一人でなんでもかんでもできるわけじゃない。旅をしていて出くわすのは怪魔だけじゃなくて、野盗とか野犬とか、ほかの脅威もある。それに、効力の強い言葉を使う時は集中力が必要だから、怪魔の攻撃を避けながら言葉を紡ぐなんてできない。だから武器を使って怪魔と戦ったり、僕ら操言士を守ってくれたりする護衛が必要なんだ。そんな護衛は、腕っぷしがあれば騎士じゃなくてもいい」
「それって」
「騎士に依頼することもあるけど、傭兵に依頼することも結構あるよ。都市部から離れたフィールドの地理とかって、都市部に根差した騎士よりも、仕事次第で頻繁に国内を移動することの多い傭兵の方が詳しかったりするしね」
王黎はそう言って片目をつぶり、ウインクしてみせた。紀更の心臓が急に高鳴り出す。
(つまりそれって……!)
守護部の操言士になって、祈聖石巡礼の旅に再び出る。もしもその旅の護衛をユルゲンに依頼して彼が引き受けてくれれば――。
(――ユルゲンさんと一緒にいられる!)
もう、ユルゲンの探し物という不確かな理由を頼りにしなくてもいい。旅の護衛を依頼すれば、正々堂々と共にいられる。どうして一緒にいてくれるのか、いつまで一緒にいられるのかを気にして不安になることもない。
(そっか、そういう方法があるのね)
目から鱗の、考えたこともない方法だった。彼と共にいる理由を作れる方法があることを知り、胸につっかえていた何かが消えていくようだ。
しかし、軽くなったその胸中で紀更はふと気が付いた。急に冷や汗が出て、背中にぞわぞわとした妙な感覚が走る。
「あの、王黎師匠」
「ん~?」
「どうして、それを」
「それって?」
「その……旅の護衛を、傭兵にって」
「ふふっ。さて、どうしてでしょうか~」
王黎はたまらなく楽しそうな笑顔を浮かべた。
もしかしなくても、この師匠は知っているのだろうか。紀更の胸の内に秘めた、ある傭兵と一緒にいたいという願い――どうすれば一緒にいられるのだろうかという、身勝手な悩みを。
「護衛がいると旅の安全性が高まる、って話だよ。護衛なしでも旅はできるし、深く気にしなくていいんだよ? ああでも、依頼できそうな、むしろ依頼したいような、一緒に旅をしたいような、そんな相手がいたらちょっと考えものかな~?」
「し……師匠っ!」
紀更は思わずベンチから立ち上がり、顔を真っ赤にして大声を上げた。
おそらく、いや確実に、王黎には心を読まれている。愉快で笑みを抑えきれないという王黎の表情が、鮮明にそれを物語っている。
何か王黎に言ってやろうかと紀更は思ったが、はっきりと抗議すると王黎の思うままであると認めてしまうことになりそうで、それ以上何も言えなかった。それに王黎が教えてくれた方法をとれば、ユルゲンと一緒にいられるかもしれない。ユルゲンが依頼を断った場合はどうにもならないが、どうしようもなく拭いきれなかった不安を解消できる方法はあるのだ。修了試験前にそれを知ることができて、ひとつ気掛かりが減ってよかったと思う。
王黎に心が読まれているかと思うと悔しいやら恥ずかしいやらいたたまれない気持ちになるが、気付かれたものはどうしようもない。今後は容易に自分の気持ちを悟られないように、すぐに感情を出さないように気を付けるしかない。
(それに、とにかく目の前のこと……まずは修了試験よ)
合格しなければ、四部会への所属も旅も何も話が始まらない。
紀更はぎゅっと拳を握って、いたずらにかき乱された気持ちを整えた。
◆◇◆◇◆
修了試験まで残り四日、ペレス家のパーティーまで残り六日というその日。
守護部の操言士フローレンスは、しばらくの間占有している守護部会館の会議室で慌ただしくしていた。とはいえ、ミルクティベージュの長い髪もおっとりとした表情も乱れてはおらず、相変わらず外見だけは慌ただしさの欠片もなく、のほほんとして見える。
「せめて髪と瞳の色がわかって助かるわ~。一人三着……いえ、五着は用意しておけばいいかしら。当日の準備は操言院の寮をお借りできるのよね。ペレス家には馬車で向かうのかしら。馬車もわたくしが用意した方がいいのかしら。そうだわ。谷義都、谷義都」
「はい、フローレンス様。ここに」
フローレンスが少し声を張り上げると、薄紅藤色の髪の若い青年が会議室に入ってきた。
「イチコさんの予定はおさえられました?」
「直接会いに行って、約束してきました。大丈夫です」
「そう、ありがとうね。助かるわ~。あとは……そうそう、お靴よね。どうしましょう、大きさがわからないから、これもたくさん用意するしかないわね~。買ってもいいけれど、それはさすがに困るわよねえ」
その時、一人の男性操言士が会議室に入ってきてフローレンスに声をかけた。
「あの、フローレンス主任……メリフォース支部から連絡が」
「まあ! なぁに、どうしたの」
「セカンディア国内で、操言士集団の動きが活発になっているそうです」
「活発って具体的には? メリフォース支部が普段把握しているのは四集団、二十人くらいよね?」
「それが七集団、四十人くらいを観測したそうです」
「あらあら! 倍近くですわね~。それはすべて、怪魔殲滅のためなんですの?」
「はい。マートン街を拠点として、その周囲を定期的に巡回、怪魔殲滅を行っているようです」
「マートン街……セカンディアにとっては西の拠点よね。オリジーアと同じように、怪魔が多発しているのかしら。近くのヒノウエ集落にも操言士集団がいるのではなくて? オリジーア側の怪魔の被害は? 石の村ヒソンファやヨルラの里は大丈夫かしら」
「オリジーア国内の被害は今のところ大丈夫です。ただ、操言士の数を二倍に増やしたということは、セカンディア国内ではそれなりの被害が出たのでは」
「わかりました。セカンディアのその七集団に新たな動きがあったらすぐに知らせてください。怪魔に対抗するための集団ならいいですけれど、万が一にでもオリジーアに攻撃をするつもりの操言士たちなら見過ごせませんからね」
フローレンスの指示に男性操言士は頷くと、小走りで退室した。
フローレンスは手元の紙片に視線を落として呟く。そこにはパーティー準備のために気付いたことすべてが、小さな字でざっくばらんに書き連ねてあった。
「セカンディアも動くほどの怪魔の数……サーディアとフォスニアではどうなのかしら。コリン団長の見立てではフォスニアが怪しいと言うけれど、果たして本当にそうかしら。それに、どうして南方なのかしら。怪魔の出現頻度に濃淡があるというのはどういうことなのでしょう。ああ、もっと情報が欲しいわ。特に他国さんの!」
「フローレンス様、俺がサーディアやフォスニアへ偵察に行きましょうか?」
休めの姿勢で待機していた谷義都が提案する。するとフローレンスは谷義都に向かってほほ笑み、首を横に振った。
「いいえ、谷義都。あなたはわたくしの傍にいてちょうだい。サーディアとフォスニアの情報は……そうね、メリフォースの方に動いてもらうようにラファルさんにお願いしましょ。ねえ、それはそうと、今から言う靴屋さんを訪問して、二足三足ほどお靴をお借りできないか交渉してきてくれる?」
「はい、仰せのとおりに」
「サーディアとフォスニアの操言士はどう動いているのかしら。それ次第でどちらが悪い子なのかわかるかしら。あ、借りるお靴のだいたいの色味を教えるわね」
フローレンスは手のひらと手の甲を交互に見せるような速さで、他国の操言士の状況とパーティー準備の話題を行ったり来たりする。フローレンスのその速度に慣れていない者だといまなんの話をしているのか混乱してしまうが、もう十年近く彼女の言従士を務めている谷義都は慣れたものだ。
そんな谷義都は、フローレンスが告げる五軒の靴屋の名前と場所を暗記して、守護部会館を後にした。
◆◇◆◇◆