4.青空教室(上)
「試験に合格したら、操言ローブをまとった姿くらいは拝ませてほしいもんだな。それまで紅雷のお守りはしてるから安心してくれ」
「そんなの見ても……」
「傭兵ってのは仲間を何よりも大事にする。一時は共に旅をした仲間が、見習いから一人前になるんだ。めでたいことなんだし、少しは祝わせてくれ」
「ご、合格できるかは」
「大丈夫なんだろ? そのために頑張ってるんだろ?」
ユルゲンは少しだけ意地悪そうに、ニヤりと笑って紀更を見つめた。
大丈夫、頑張っていると、先ほど紀更の口から聞いたばかりだ。合格できるかどうかわからない、なんて言わせはしない。
「先のことなんて考えても不安になるだけなんだから、率先して不安になる必要はないんだ。目の前のはっきりしているものをまずは気にかけようぜ」
「目の前の?」
「紀更は修了試験、俺は……そうだな、紅雷をいつ起こして次の仕事をどうするか、ってことだな」
先のことなんて考えても不安になるだけ。目の前の修了試験を気にかける。確かにそのとおりだと紀更も思う。しかしユルゲンのことに関してだけは、そう器用に割り切れそうになかった。
(まだ数日は紅雷と一緒に王都にいてくれる……でもそのあとは?)
拭いきれない不安のせいで心は重い。ユルゲンがなんと言ってくれたら、この不安は軽減されるのだろう。どういう状況になれば、自分は安心していられるのだろう。
(一緒にいたいの……一人前の操言士になったあとも、ユルゲンさんと一緒に)
ささやかな願いが欲望に変わっていることに、未熟な紀更はまだ気付いていなかった。
それからしばらくして紅雷が目を覚ますと、ユルゲンは紀更と沙織に礼を言って、紅雷と共に呉服屋「つむぎ」を後にした。
二人の背中を見送った紀更は昼食を作り、店番をする父と母と交代で食事にする。それから台所の片付けをすると、沙織に一声かけてマルーデッカ地区の図書館を目指した。まだユルゲンのことで不安な気持ちはあったが、ユルゲンの言うとおり目の前の修了試験を気にかけなければならないので、図書館の本でも読んで言葉に触れてみようと思ったのだ。
(でも置いてある本って、実は簡単な内容が多いのよね)
昔に比べれば大量生産できるようになった紙は、王都内ではわりと出回っている。しかし、それでも個人が気軽に大量購入、大量利用できるものではない。そんな紙を多く使った「本」の製作は、手間も値段も段違いになってくる。平均的な王都住まいの国民が本を見る機会は、光学院での授業か地区図書館くらいだ。
しかし、地区図書館で閲覧できる本というのは文字数とページ数が少なく、子供たちが文字の読み書きを覚えるのに使うような、簡単な内容のものがほとんどだ。大人向けの本もあるが、そもそもその内容と本という「知識を得るための手段」の需要が少ないからなのか、蔵書数はそれほど多くない。操言士として多くの言葉を知りたいという強い向上心があればなおのこと、未知の言葉にはそうそう出会えない地区図書館の易しい本は物足りなさを感じる。
(雛菊さんの職場……王都中央図書館だと、もっと難しい本があるのかしら)
地区図書館が近付き、午後のやわらかい風が吹いてくる。ここ数日はまとまった雨が降ったり曇りだったりすることが多かったが、今日は久しぶりの快晴だ。
「きーさーらっ」
図書館が見えたところで背後から声がかかり、紀更は足を止めた。振り返ると、白い操言ローブを風になびかせた王黎が立っている。
「図書館で自習?」
王黎はにこにこと笑みを浮かべて尋ねた。
「こんにちは、王黎師匠。自習というほどでもないんですけど、何か言葉に触れてみようかなと」
「そっか。せっかくだから、久しぶりに僕と青空教室でもしない?」
紀更は少し考え込む。そして長く息を吐いてから言った。
「拒否しても別の口実で誘われそうですね」
「わかってるねえ~。地区図書館の簡単な本なんかより、僕の頭の中の方がよっぽどいろんな知識と言葉があるからね。役に立つよ?」
「自分で言いますか」
「自分で言うね。事実だもん」
王黎は楽しげに目を細めると、紀更を追い抜いて歩み始めた。その半歩うしろを紀更も歩き出す。
「どこへ行くんですか」
「光学院を超えて、ミニノート川の河川敷に行こう。ベンチもあるしね」
地区図書館を右手に見ながら歩道を進む。紀更がかつて通った光学院も右手に見えて、それも通り過ぎる。そしてその先に、王都ベラックスディーオを北東から南西に向かって斜めに流れるミニノート川の河原が見えた。周辺では幼児が何人か輪になって遊んでおり、近くに母親や父親の姿も見える。
河川敷にあるミニノート川を臨むベンチに腰掛けると、王黎はすぐに口を開いた。
「修了試験まであと少しだから、少し師匠らしいことでもしようと思うんだ」
「王黎師匠、大丈夫ですよ。気張らなくても、あなたは私にとって立派な師匠です」
瞳の奥に強い意思を浮かべた紀更は、王黎の横顔をしっかりと見つめた。その視線に気付いた王黎は一瞬目を見開き、だがすぐに閉じて嬉しそうにほほ笑んだ。
「それはよかった」
「神出鬼没なところはやめてほしいんですけどね。気まぐれでマイペースなところや、何も言わずにいなくなるところも」
「それは性格だから無理かなあ」
「それで、何を教えてくれるんでしょうか」
「そうだね、まずは紀更が一番気にしていることから話そうか」
「私が気にしていること?」
「どんな操言士になりたいか、だよ。時期もいいしね」
王黎は足を組んだ。
「祈聖石巡礼の旅を通して、紀更はそれを考えるようになったと思う。そして修了試験が目の前に迫ってきて、いよいよなんらかの答えを出したい時期だよね」
「はい。でも、まだ答えなんて」
「うん、いいんだ。なにも今後の死ぬまでの人生の生き方を決めろ、って話じゃない。それに操言士団の四部会のどこに所属するかで、操言士としての仕事は結構変わるしね。ただ、操言院復帰初日にした、ヒルダの話を思い出してほしくてね」
「ヒルダの?」
「彼女は見習い操言士の時から、自分が何をしたいか考えていた。そして自分のやりたいことを達成するためには、守護部に所属したかった」
「だからヒルダは守護部に入れるように努力をしたんですよね」
「そうだね。でも、その努力ってどういうことだと思う?」
「どういう……?」
「入りたい四部会があるなら、修了試験でそれをアピールすることはできるんだよ」
「そ、そんなことできるんですか?」
意外な話に紀更は食い付いた。
「もちろん、口頭で希望を述べるわけじゃないよ。でも試験を通して、自分がどこに所属したいのかを伝えることは可能なんだ。きっとヒルダもそうしたと思うよ」
「でも王黎師匠、試験でアピールなんて、そんなこと本当にできるんですか」
「簡単だよ。修了試験の技術分野で、戦闘に関する実践力を最大限に見せつければいい」
にっこりと笑いながら王黎は続けた。
「修了試験の構成は、先日聞いたとおりだ。合格ラインに達することが一番重要だけど、合格したあとの目標があるなら修了試験なんてただの通過点にすぎない。利用してなんぼだよ。たとえば、もしも教育部に所属して後進の教育に携わりたいなら、知識分野の口頭試問でわかりやすく答えることを意識する。生活器を造る職人操言士になりたいなら、技術分野で完璧かつ丁寧な力の使い方を見せつける」
「守護部に所属したいなら、対怪魔戦の戦闘力が高いことを見せつける?」
「うん、そういうこと。注意してほしいのは、修了試験でアピールしろ、って話じゃないからね。どんな操言士になってどんな仕事をしたいか、もしもその答えが出ているのなら道はすでに始まっている。修了試験はゴールじゃなくて踏み台なんだよ、ってことだ」
「はい、わかります」
ヒルダは操言院にいた時、修了試験の合格をゴールだとは思わなかっただろう。その先に、自分が操言士として果たしたい役割をすでに見つけていたから。だからヒルダは、紀更と同い年にもかかわらずあんなにも強くまっすぐに、船の上で立って戦っていられた。心の軸が、自分の中にしっかりと定まっているのだ。
(でも、私は……)
「紀更はまだ答えが出ていないと言ったね。そこで、師匠の僕からお勧めだ」
ミニノート川の上を風がすべる。その風は水の冷たさを含んで、ひんやりと紀更の頬をなでた。
「紀更は守護部に所属して、怪魔を殲滅する操言士になるといいと思うよ」
王黎の言葉を聞いても、紀更は特に表情を変えなかった。ミニノート川を流れる水音や河川敷で遊んでいる子供たちの声を、ただ静かに聞いているように落ち着いている。
「驚かないね。自分でもそう思ってた?」
「少し前、アンヘルさんに似たようなことを言われました」
「アンヘルさんが? そっか。うん、彼もまだ、捨てたもんじゃないね」
教える俺はいつでも正しくて、お前は何も知らない阿呆で俺よりも格下の存在なんだ――アンヘルはそんな態度を省みることも隠すこともしない、傲慢さの滲み出た典型的な教師操言士だと王黎は思っていた。しかし、どうやら紀更への指導を通じて彼の中に変化が起きていたようだ。
(見習い操言士の適正を気にするような人には思えなかったけど、紀更の影響かねえ)
王黎は教育部に所属する操言士のことを快く思ってはいない。だが憎んでいるわけでもないので、アンヘルの前向きな変化は好意的に受け取ることにした。
「アンヘルさんは、どうして守護部だって?」
「はっきりと理由は言ってなくて。でも私が、自分の波動をなかなか感じ取れなくて、それが、私の力の性質や大きさのせいだろうから、と」
「うんうん、なるほどね。僕が紀更に守護部を勧める理由も、実はアンヘルさんと同じだよ。ねえ紀更、操言の力ってなんだと思う?」
「何って……特定の人が生まれつき持っているものです。私はちょっと違いますけど」
「まあそうなんだけど、もっと根本的なことだよ」
王黎は足を組み替えて、ミニノート川の水面を見つめた。日光が当たり、そこはキラキラと光って見える。