3.呉服屋つむぎ(下)
「アンヘルさんは最初はあまりいい印象がなくて……なんていうか、常に上から見下ろしているというか……でも少しずつ変わってきてる気がして、今はそうでもないんです。雛菊さんは、あ、王黎師匠の同期の方なんですって! 普段は王都中央図書館で働いているそうで、とても博識で説明もわかりやすくて……王黎師匠の同期っぽいな、って少し思いました」
「なんだよ、同期っぽいって」
すらすらと話す紀更に、ユルゲンは苦笑を浮かべた。
「えっと、知識を大事にするところが王黎師匠と近しいと言いますか……あっ、でも」
ふとポーレンヌの操言士マリカを思い出して、紀更は口ごもった。
マリカも、親しげに王黎と話していたところを見ると同期っぽい――つまり、互いをよく知り尽くしているように見えた気がする。しかし、マリカの名前をユルゲンの前で出す気にはなれず、語尾がすぼんだ。
「つらくはないのか」
「えっ?」
ユルゲンが穏やかに問う。紀更は質問の意図がわからなかったが、すぐに思い至る。
旅に出る前の操言院にいた時間の中で紀更が感じていたのは息苦しさだった。王黎が操言院から休暇の許可をとってくれた頃は、いま思えば心が疲れきっていたのだろう。またそんな風になっていないかと、ユルゲンは心配してくれているのだ。
「はい。以前とは違って大丈夫です」
紀更は落ち着いて、胸を張って答えた。
「王黎師匠のおかげです。自ら学ぼうとする姿勢でいれば、気持ちがどんどん上を向くみたいなんです。できることもできないことも、わかったこともわからないことも全部が……楽しいです」
「そうか」
ほほ笑む紀更の表情が明るいので、ユルゲンは安堵した。
「それを聞いて安心した」
「心配……してくれたんですか」
紀更は恐る恐る尋ねた。ユルゲンはしばしの間返事をせずに黙っていたが、カップに口を付けて茶を飲み、一息ついてから頷いた。
「まあ、な。旅の道中、君が悩んだり努力したりしている姿を見てきた身としては、王都に戻って無事にやれているのかどうか、気になるさ」
(っ……嬉しい)
紀更は、自分の頬が急激に熱くなるのを感じた。
ユルゲンが自分で言っているように、ユルゲンは旅を共にした仲間として心配してくれたにすぎない。しかしユルゲンのその心配が、紀更は嬉しいような恥ずかしいような、むずがゆい気持ちになった。
(違う、ちがうっ……。旅の途中でね、そうっ……ユルゲンさんはいろいろ話を聞いてくれたから)
旅の間、ユルゲンの前で涙してしまうことが何度かあった。そのたびにユルゲンは紀更を励まし、慰めてくれた。あれだけ弱くて情けないところを見せていたら、さぞ頼りなく思うことだろう。操言院でやっていけるのかと、心配をかけてしまうのも無理はない。
「だ、大丈夫ですからね! 私、ちゃんとやれてると思います。修了試験だって大丈夫ですから」
紀更は努めて明るく振る舞った。ユルゲンはそんな紀更に優しい目線を送り、静かにほほ笑む。
「そりゃあ、いい。頑張れ」
三白眼でどこか不機嫌そうな普段の表情とその穏やかな笑みとのギャップに、紀更の胸は大きく高鳴った。
(なんか……なんかっ……もうっ)
そんな風にほほ笑まれると、なぜか心臓の動きが早くなる。言葉では言い表せないむずがゆさが心をとりまく。ユルゲンを前にすると、最終的にはこの落ち着かないこそばゆさに包まれる気がする。それは決して不快なものではなかったが、かきむしれないかゆみを抱えているようでどうにももどかしかった。
「ラフーアで一緒に戦った傭兵二人組と、さっき会ってな」
ユルゲンは唐突に話題を変えた。紀更はユルゲンが何を話そうとしているのかわからず、黙して続きを待った。
「ポーレンヌの騒ぎのことも、操言士が行方不明になってるってことも知っていた。ポーレンヌのことは、もうほとんどの国民が知っているんだろうな。少しずつ、不穏な空気が広がってる感じだ」
「不穏な空気……。怪魔の退治依頼が多いって……音の街ラフーアの時みたい、ってことですか? また、都市部が怪魔に襲われるかもって」
「どうだろうな。国の南の方で怪魔が多発しているらしいが、それもあの馬龍とかローベルとかの仕業なのか……それとも別の奴か、はたまた偶然か」
「操言士団は何か対策をしているのでしょうか」
「ポーレンヌの怪魔襲撃の件は王族も当然知っているから、操言士団だけでなく騎士団や平和民団も対策をしてるんじゃないか。ピラーオルドについて国がどうするのかは、俺らにはわからねぇけどよ」
ユルゲンはまた一口茶を飲み、床で眠る紅雷を一瞥した。のんきに寝ているその姿を見ると、自分まで眠くなってきそうだ。
「あの、ユルゲンさん」
「なんだ」
「ユルゲンさんはまだ……」
紀更は口ごもる。
言いたいけど言えない。訊きたいけど訊けない。
訊いてもいいのだろうか。答えてくれるだろうか。望む答えと違っていたらどう受け止めればいいだろうか。そんなことを考えてしまい、先が続かない。
「あの……探し物は、まだ見つかりませんか」
紀更の口から発せられた問いは、紀更が本当に尋ねたかったこととは違っていた。けれども、無関係なことでもなかった。
「え、あ、ああ……そうだな」
ユルゲンは何を問われたのかわからなかったが、すぐになんの話か理解して間延びした声を出した。
「まだ探してるんですよね?」
紀更は不安を感じて震えそうになる。
これまでにも、何度かこの問答を繰り返してきた。そのたびにユルゲンの答えを聞いては安心し、しかしまた不安になることを繰り返している。
紀更とユルゲンをつなぐもの。それは水の村レイトでユルゲンが言った、「一緒に行けば自分の探し物が見つかる気がする」という、たったそれだけのユルゲンの勘、言葉だ。不確かで頼りないものでしかない。そのいともたやすく切れてしまうつながりに紀更はすがり、そしてその言葉がまだ有効かどうかを何度もユルゲンに確かめてきた。
だが始海の塔に向かう船の上でユルゲンは言った。何を探しているのかわからなくなったと。見つけたいと思っていた気持ちが落ち着いてしまったと。
いま、その気持ちはどうなんだろうか。見つけたいという気持ちは本当になくなってしまったのだろうか。王都でゆっくりと探してみるつもりだと言ったが、いつまで王都にいるのだろうか。探し物を口実にして一緒にいることは、この先もうできないだろうか。
(一緒にいたい……でも、どんな理由があれば一緒にいられるのか、わからない)
五日後の修了試験に無事合格できたら、紀更は晴れて一人前の操言士となる。操言士団の四部会のどこかに所属して、「任務」を言い渡されて国のために働く日々になるだろう。
そうなった時、ユルゲンと一緒にいたいと思う気持ちはどうしたら満たせるのだろう。どうしたら叶えられるのだろう。
「紀更」
「は、はいっ」
名前を呼ばれて、紀更は条件反射で背筋をぴんと伸ばした。紀更を射抜くユルゲンの青い瞳には、真剣さが宿っている。
「俺の言う探し物はとても抽象的で、曖昧で、自分でもよくわからない。それを見つけたいかと問われれば、そうだと今でも即答はできる。けど、今すぐ見つけないとどうにかなってしまう、って感じでもないんだ。始海の塔に向かう船で言ったとおり、それが何なのか、感覚的にもわからなくなりつつあるしな。だから、そんな不確かなものを君が気にすることはない」
「でも……」
「自分の探し物のために、君の旅に同行させてもらった。いや、利用させてもらった、と言った方が近いのかもしれない。それはありがたいことだったと思う。一人じゃ行けなさそうな場所へ行って、一人じゃできなさそうな経験ができたからな。でも、君や王黎や、あの騎士たちにとってはそうではなかったかもしれない」
「そんなっ! そんなこと、ないですっ」
紀更はふるふると首を横に振った。
「君がそう思ってくれるのはありがたい。でも、少なくともエリックとルーカスにとっては、突然現れたフリーの傭兵なんて護衛対象に近付けたくない、というのが本音だったはずだ。俺に対して気を抜けない場面も、きっとあったと思う」
エリックたちの視点で見た場合の可能性を、紀更に否定することはできない。水の村レイトでのやり取りを思い出すと、確かにエリックたちはユルゲンが同道することに難色を示していた。ただ守られるだけの側にいた紀更とは違って、紀更を護衛する立場上、気を張り詰めていた時間は長かっただろう。
「一緒に行けば見つかると思った……が、結果的には見つからなかった。その結果に不満があるわけじゃない。でも、俺の曖昧な探し物のために紀更たちを利用することはもうしない。そんなもの、気にかけてくれなくていいんだ」
「利用なんて思っていないです。そんな……っ」
利用していたのは、果たしてどちらだろう。ユルゲンの探し求める気持ちを利用し、探し物を口実に一緒に居続けようと浅ましく思っていたのは、自分の方ではないだろうか。
(気にかけてくれなくていいって……でも、それじゃ)
彼はこの先も探し続けるのだろうが、その探し物を気にしなくていいということは、もうユルゲン自身のことを気にしてくれるなと言われたも同然だ。彼と一緒にいるための数少ない理由が、口実が、すべてなくなってしまう。わずかでもあったつながりが、完全に切れてしまう。
「悪かったな。ヘンな理由で長々パーティに加わらせてもらっちまって」
(っ……いいの……いいのに)
そんな風に謝らないで。悪く思わないで。悪いことなんてひとつもなかった。楽しかった。頼もしかった。一緒にいられて嬉しかった。だから、旅が終わった今もこの先も、同じように一緒にいたいのに。そう望んでいるのに――。
(でも、そこまではっきりと言われたら……)
これ以上、食い下がることはできない。自分が悪いと下手に出て謝って引き下がる大人のユルゲンに、それ以上何も言えない。
紀更は黙って俯いた。泣きはしなかったが、胸の中が、奥が、鋭く尖った痛みで刺されているような気がした。