1.三公団(中)
アンヘルも雛菊も、そして間違いなく王黎も、紀更の持つ操言の力の異常さには気付いている。しかし気付いていながらも、三人はあえてそれを口にしない。
(ただでさえ、過去に例のない特別な操言士……通常と違うことが起きていても不思議じゃないと思うし)
何より、通常と違う事態を操言士団の幹部会は非常に嫌う。正確な主語は幹部の中の保守派の操言士たちなのだが、派閥として最も人数が多い保守派の声はほかを圧倒する。「今までと違うこと」を嫌う幹部の耳に、特別な操言士の新たな「特別さ」を伝え入れるのは、面倒なことになりかねない。
(アンヘルさんはさすがに教育部の部長くらいには言うでしょうけれど、余計なことに巻き込まれたくないから私は黙っているわよ、王黎)
おそらく同じ理由で紀更の力について何も言わなかった王黎に、雛菊は心の中でそう呼びかけた。
「雛菊さん、講義の前に少しだけ休憩しても構いませんか」
「ええ、水くらい飲みなさい。あなた、そんなにつらいなら、途中で休憩したいってアンヘルさんに言えばよかったのに」
「そうですね。楽しくて、夢中になっちゃって」
訓練が楽しい。授業が楽しい。そう素直に言える見習い操言士は少ないだろう。
操言院の授業や訓練は、実に画一的だ。言葉の暗記を主体として、誰もが同じ力の使い方を身に付けさせられる。教師操言士に教わることはあくまでも基礎であって、そこから自由に応用していく操言士もいるが、普通に集団で受ける操言院の授業は「楽しい」と思えるものではないと雛菊は思う。
「アンヘルさんが私に合わせてくれるからですかね。できないことがどうすればできるようになるか、丁寧に道を作って教えてくれますから」
「そうね」
第二教室棟の一階にある給水所で水分補給をする紀更を尻目に、雛菊は感慨深く思う。
現在の教育部部長はマチルダという女性操言士だ。雛菊は操言士団の内部事情に精通しているわけではないが、マチルダが操言院の画一的な授業を維持し、教師操言士たちの「自分たちは選ばれた、特別で偉い存在だ」という思い上がりを増長させていることくらいは知っている。アンヘルのように、教職というだけで自分が上、見習い操言士はじめそのほかはすべて下、という態度をとる教師操言士が多いのも、それを良しとしている組織長がいるからにほかならない。
けれどもたった数日で、そのアンヘルの態度が変化している。「俺が教えることは正しいのだからお前は黙って頷け」、という指導から一変し、相手、つまり紀更のことを考え、紀更に合わせた指導法になってきている。能動的に教えを請い、すべてを学び取ろうとする素直な紀更に感化されたのか、それとも普段の集団授業とは違う個別指導だからなのか、理由はわからない。その両方かもしれない。
(集団ではなくこうした個別、あるいは少人数制の授業でもいいのかもしれないわね)
思えば、操言院の修了試験合格後、どんどん力を伸ばして段位を上げていく操言士のほとんどは、年配操言士に弟子入りして長年にわたって個別指導を受けている。その最たる例が王黎だ。一方、せっかく生まれついて持った操言の力を積極的に磨こうとしない者は、誰かに弟子入りすることもなく並の仕事だけを淡々とこなしている。そしてそのような操言士は、往々にして昇段にも興味がない。
弟子入りするから力が伸びるのか、力を伸ばしたいから弟子入りするのか。どちらが先かはわからないが、師について一対一で学ぶ者は、総じて成長していく。集団ではできない密度で学びを深めていくからだろう。
(紀更にとって、王黎との師弟関係は良い糧になっているのね。王黎のことすらも褒めるようでちょっと気持ち悪いけど)
人生は学び続けることだと雛菊は思う。どんなに毎日図書館勤めをしていても、すべての知識を吸収できたと実感できたことはないし、何かを知れば知るほどもっと多くを知りたくなってしまう。知的好奇心に際限はない。雛菊の場合は知りたいという欲求が強いだけだが、紀更のように、学ぶことが楽しいと思える者こそより優秀な操言士になるのかもしれない。
「紀更、今日は三公団について教えるわよ」
「三公団ですか?」
「修了試験で問われることは少ないと思う。でもあなたは成人しているのだし、知っていて当然よね、と訊かれるかもしれない。何より、知っていて損はないからしっかりと憶えてちょうだい」
「はい」
第二教室棟二階の一番奥の教室に着くなり、雛菊はまくしたてた。
雛菊は、アンヘルと違って教室の教壇には立たない。特殊事情ゆえに紀更に教えているだけで、自分はアンヘルと違って教師操言士ではないと思っているからだ。
その代わり、紀更と机ひとつ挟んで向かい合うように座り、教えるというよりまるで語り合うかのように自分が知っていることを伝える。乾いた土が水を吸い込むように、紀更の中に知識が吸い込まれていく様を間近で確認するためだ。
「まず、三公団とは?」
椅子に座って向かい合い、雛菊は切り出した。
「オリジーアの基幹組織である平和民団、騎士団、操言士団の三つを指す言葉です。オリジーア国民は三公団のいずれかに所属していますが、オリジーア王だけは三公団に属しておらず、三公団を統べる存在とされています」
「三公団への所属の仕方は?」
「騎士団は常時見習い騎士を募集しています。平和民団所属の国民が見習い騎士を志願し、試験に合格すると見習い騎士の身分となり、平和民団から騎士団の所属となります。操言士団の場合は、《光の儀式》で操言の力があると判断された日から操言士団の所属となります。それ以外の国民は、役所に出生届が出された瞬間から平和民団の所属です」
「いいわね、そのとおりよ。では次。依頼と任務について、三公団をからめて説明してちょうだい」
「依頼と任務……えっと」
これまでに何気なく耳にしてきた「依頼」や「任務」という言葉。
紀更がすぐに思い出すのは、ユルゲンが食堂などの掲示板で依頼を請け負い、報酬を得ているという話だ。それに、エリックとルーカスが「特別な操言士の護衛という任務」に就いていたことも思い出す。だがそれらと三公団をからめるとは、どういうことだろう。
「すみません、わかりません」
「謝らなくていいのよ。説明するから理解してちょうだい」
雛菊は椅子から立ち上がると、黒板を使いながら解説した。
「まずは国民の収入について。紀更、あなたのご両親はどうやって収入を得ている?」
「うちは呉服屋を営んでいますから……えっと……売り上げから必要経費を引いた分が両親の収入です」
「そうね。平和民団の多くは自営業で、そうやって収入を得ているわね。自営業でなかったり、まだ若かったりする場合は自分で商売をしないで、大きな商家や店に雇われて給料をもらう、という形で収入を得るわ」
(サムがそのパターンね)
サムの実家はパン屋で自営業だが、サム自身はソレル商会に雇われている。大きな商会は身内だけで商売するには限界があるので、そうやって若者を雇うことがよくあるのだ。
「収入は貨幣だけでなくて物品の場合もあるけど、ひとまず貨幣での収入を前提として考えたとき、騎士団と操言士団、つまり騎士と操言士はどうやって収入を得ている?」
雛菊は黒板にチョークで、騎士団、平和民団、操言士団という三つの単語を、それぞれが三角形の頂点になるように書いた。
「騎士と操言士は、国からお給料をもらうんですよね」
「そうね。でも操言士団の場合、民間部という、民間の店や組織に所属することができる四部会があるけど、民間部の操言士もそうかしら」
「えっ……うーん……違うのでしょうか」
「答えは、民間部の操言士もやはり国からお給料をもらうわ」
雛菊は黒板に書いた三つの単語を丸で囲み、それから三つの丸を直線でつないだ。そうしてできあがった三角形の真ん中に、国という文字を書いてその文字も丸で囲む。
「まずは税金の話からね。オリジーア国民は、王族を除く全員に納税の義務があるわ。税金は国に納められ、国の運営に使われるの」
三つの丸から中央の丸に向かって雛菊は矢印を書く。
「国の運営に使われるというのは、国のために働く騎士と操言士の給料になる、ということなの。たとえば、騎士は都市部の治安を守るし火事が起きたら消火活動もするわ。でも、その騎士の働きに対して国民が一人一人、報酬を支払うわけにもいかないでしょ?」
「だから、税金という形で先に報酬を集めておいて、あとで分配するんですね?」
「そういうことよ。税金の使い道はそれだけじゃないけどね」
「じゃあ、操言士は」
「操言士の場合についてはもう少し詳しく説明するわね」
雛菊は、平和民団という文字を囲んだ丸から、騎士団と操言士団の丸につながっていた直線に短い線を書き足して矢印にすると、その横に「依頼」と書き加えた。