6.尋問(上)
感電死するほどの電圧ではない。だが男の身体はしばらく停止し、それからぐしゃりと地面に倒れ込む。全身が麻痺したように、男の手足は動かなくなった。
「だめっ!」
「紀更殿!」
紀更の足は、上げた悲鳴とは逆に勇敢にも走り出していた。エリックのうろたえる声も気にせず、倒れ込んだ黒髪の男へ向かって一直線に向かう。
(いやっ……だめ!)
カルーテの牙よりもキヴィネの放電よりも、黒髪の男が傷つき死ぬかもしれない。その可能性の方が、紀更は怖かった。
自分の身が危険にさらされる以上の不安と恐怖に襲われ、紀更はパニックになりながらも、男のもとに駆け寄って地面に膝を突いた。
「大丈夫ですか!?」
男の表情をうかがう。眉がぴくりと動き、苦しげに寄っていた眉間の皺がやわらいで、閉じていた瞼が開かれる。
「っ、ああ……まだ、いける」
男は深く息を吐きながら目線を上げた。紀更の緑色の瞳と男の青い瞳が向かい合い、一直線に並ぶ。
(あ……)
紀更は、自分の息が止まるのを感じた。
(知ってる……私、この人を)
すぐ横にはまだ怪魔がいるというのに。
窮状は何も変わっていないというのに。
なぜだか、紀更の胸の不安がとけていく。
ふいに感じていたあの胸の痛みが、青空へ解き放たれていく。
――ジジッ!
「逃げろ!」
「危ねえ!」
エリックと男が同時に叫んだ。
男は素早く紀更の後頭部に腕を伸ばしてその身を引き寄せると、紀更と共に転げ回る。紀更は地面に耳を打ち付け、その痛みと衝撃に目を閉じた。砂埃にむせて、二度三度咳をする。それから落ち着いて目を開けると、今まで紀更と男がいた地面には放電が直撃した痕があった。
「君は操言士か」
自分と紀更の身体を起こしながら、男が問う。その視線はキヴィネに注がれたままだ。
「は、はい……」
「なら、しっかり頼むぜ。俺の得物が、あいつをぶちのめせるようにな」
男はそう言うと、キヴィネに向かって地面を蹴った。
一瞬ぼうっとしてしまった紀更だが、すぐに男の行為が無謀であることを思い出す。普通の刀や剣では、キヴィネに太刀打ちできないのだ。
(エリックさん)
紀更はエリックにすがりたい気持ちになり、その姿を探した。だが、エリックは今にも倒れそうなルーカスと背中を合わせて、カルーテの相手をしているところだった。
(だめ、頼れない。操言の力……私がなんとかしなきゃ)
紀更はエリックから視線を外した。キヴィネの鉄の箱を蹴り、攻撃を繰り返す男の姿を見つめる。そんな紀更を守ろうと、血の止まらない腕をもう片方の手で押さえながら最美が紀更の傍に寄った。
「紀更様、落ち着いて。あの方の刀に向けて、操言の力を飛ばすようにイメージしてください」
「刀……あの人の、刀が……怪魔に勝てますように」
違う、そうじゃない。紀更は集中しようと必死になった。
(イメージを言葉に……言葉が、森羅万象に干渉する……それが操言の力)
操言院では定型句ばかりを憶えさせられた。だが、操言士にとって大事なのは、イメージを言葉にできるかどうかだ。決められた言葉を暗記しているかどうかではない。
――お姉ちゃん。
ふと、俊の姿が思い浮かぶ。
そうだ、操言士になる前に死んでしまった俊のためにも、自分が操言士になるのだ。
【鉄の箱……それは守るもののないただの空箱……やわらかな砂を固めた偽りの姿】
紀更は目を細めて、キヴィネを構成する鉄の箱をひとつずつ睨みつけた。
一見頑丈そうに見える鉄の箱。だが、人や村を傷つけるだけのキヴィネには、守るものなどない。鉄のように頑丈な素材である必要はない。
【偽りを貫き暴き、我らを守る刀……それは空箱を割いて崩し、すべてを塵と化す】
紀更の言葉に合わせて、キヴィネの身体と男の刀が淡く光った。紀更の操言の力が、両者に干渉し始めたのだ。
「うらぁっ!」
男の刀は紀更の「言葉」通りにキヴィネの箱を貫き、やわらかな砂の塊でも切り裂いているのかと思うほどに、いとも簡単にその箱を割いた。
――ヴィギイイィィン!
キヴィネはカルーテのように鳴き声を上げはしない。その代わりに、その身を構成する鉄の箱が震えて、耳の奥をじくじくと突き刺すような甲高い音を発した。それはまるで威嚇、あるいは怒りを表現しているようだ。
紀更はその音にひるんで集中力を切らさないように、ぎゅっと全身に力を入れて心を堅くし、キヴィネが消えゆく姿を懸命に想像した。
【鋼鉄と化した刀がすべてを切り裂き、鉄の箱は二度動かない……消えてしまえ!】
「はあぁっ!」
男は最後の体力を振りしぼるように、渾身の力を込めて刀を振るう。男の刀はそれまでとは打って変わり、キヴィネの身体をものともしない硬度になっていた。ひとつ、ふたつ、三つ。男の刀がキヴィネの箱を切り裂いていく。
――ギイイインンン!
断末魔のようなにぶい音がけたたましく鳴り響く。切り裂かれたキヴィネの箱の断面は塵へと様変わりし、やがてすべての箱は黒い霧に変わって消え散った。
「た……斃せた?」
「油断するな! カルーテを追い払え!」
キヴィネへの攻撃を終えた男は、紀更の集中力が途切れないように指示を出す。
それから、エリックとルーカスに加勢すべく、カルーテの群れに走った。
(追い払う……カルーテを……どうやって?)
これ以上戦うには、男たちの体力は限界だ。早く対処しなければ。
「紀更様、光です。怪魔は強い光に弱いのです」
「光……っ」
紀更の隣に立つ最美が助言する。
紀更は、頭上から注ぎ込む光に弱ったカルーテが立ち去っていく姿を懸命に想像した。
【空から降り注ぐ、強き光。怪魔カルーテたちを照らし出せ。四本足の牙持つ者ども、みな光の前から逃げ出せ】
「ギイイ!」
「ギイィィァ!」
紀更の操言の力によって、カルーテたちの頭上に光線が走った。普通の日光以上の光度に照らし出されたカルーテたちは、身が焼かれるような苦しい悲鳴を上げる。
すると一匹、また一匹と、怪魔カルーテの姿は透明になって消えた。次から次へと森の奥から出現していたはずだが、光が当たる場所には出てこられないようで、それ以上、新たなカルーテが現れることはなかった。
「お……終わった?」
紀更の自信なさげな呟きが全員の耳に届く。それくらいにあたりは静かになった。
息絶えたキヴィネの塵も霧もすっかり消え、地面にはキヴィネの足跡とも言える土のへこみと、放電がえぐった痕だけが残っている。
「ふぅ」
「なが、かった、です、ねえ」
エリックとルーカスが、浅い呼吸をしながら長剣を鞘に納める。闖入者の男も、呼吸を整えながら両刀を鞘にしまった。
紀更はその様を呆けて見ていたが、ふと我に返って最美を見上げた。
「最美さん、けがっ」
最美の左腕には、カルーテの牙が走ったために皮膚が削り取られた痕がある。流れ出た血筋は手の甲にまで伸びており、傷口からはまだわずかに出血していた。
「し、止血……どうしよう」
どうにかしなければと思うのに、こんなけがを間近で見たことのない紀更は冷静になれず、適切な行動が浮かばない。
一方の最美は、深い呼吸を繰り返しながらゆっくりと紀更に言った。
「紀更様、操言の力で、わたくしの傷口をふさいでくださいますか」
「操言の力で?」
「あなたが持つその力は、なんでもできるのですよ」
血の気が失せた白い顔に、最美はやわらかな微笑を浮かべた。
紀更はこくりと頷くと、傷ついた最美の二の腕にふれないように距離をとって手のひらをかざし、痛々しい傷口を包み込んだ。
【白く、やわらかく、清潔な皮膚よ、この傷を覆え】
最美の白く美しい肌がまたそこに復活するように。えぐられた肉はすぐに復元できずとも、せめて皮膚が膜となって、傷を覆うように。紀更はイメージしたことを素直に言葉にして、口から出した。すると、まるで紀更の声で力を得たように空気が温かく光り、その光が最美の傷口に集まった。
「は、ぁ」
最美は少しばかり深い吐息をもらした。傷口に、ゆっくりとだが熱が生まれたのを感じる。紀更の操言の力によって、最美の身体が圧倒的な速度で皮膚を再生したのだ。
「これで大丈夫ですわ。ありがとうございます」
傷口に集まっていた光が消え、最美は言った。
乾いた流血の跡はそのままだが、先ほどまであった裂傷はうっすらと皮膚で覆われて、それ以上出血することはなさそうだった。
「大丈夫ですか。あの、本当に?」
自分の処置に自信のない紀更は、恐る恐る最美の顔をのぞき込んだ。
「ええ。休めば回復しますわ」
最美はやさしく目を細めた。
「最美殿、動けるか?」
そこへ、エリックとルーカスが歩いてくる。
「お気遣いありがとうございます。動けますわ」
「では、宿へ戻ろう。怪魔の気配はもうない。全員、休息が必要だ」
「この人数で持久戦はきつかったですね」
ひたいにびっしょりとかいた汗を拭いながら、ルーカスは疲弊した声で呟いた。
彼が前衛で途切れることなくカルーテの相手をしてくれたおかげで、後衛にいた紀更たちの身は守られたようなものだ。キヴィネを斃したのは黒髪の男だったが、一番の功労者はルーカスかもしれない。
「悪いが、君も一緒に来てくれるか?」
少し離れたところでこちらの様子を見ていた黒髪の男にエリックは声をかけた。男は返事の前に、青い瞳で紀更を見つめる。
(なんだろう)
目が合った紀更は男の視線の意味がわからず、黙したまま少しだけ首をかしげた。しかし男は紀更には何も言わず、エリックの方へ視線を移した。
「ここへ来る途中で荷物と馬を放ってきたんだ。回収してからでもいいか」
「ああ。我々はレイトの宿にいる。回収が終わったら来てくれ」
「了解」
男は短く返事をすると、北分水池の方へ大股で歩いていった。
「我々も行こう」
エリックの掛け声で、紀更たちは負傷した最美に合わせたゆっくりとした歩調で村の宿へ向かう。しかし、歩き出してすぐに紀更はふと足を止めて、男が去っていった方角をぼんやりと見つめた。
「紀更殿?」
「あ、はい」
ルーカスに呼ばれて、紀更は我に返る。そして宿へと再び足を進めた。