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ヒオクダルスの二重螺旋  作者: 矢崎未紗
第05話 グラマラスな操言士と旅の終わり
117/307

7.幕切れ(中)

「紀更様」


 談話室に現れた紅雷を、紀更はぼんやりと見上げた。

 一人になりたいと思ったが、結局、宿にいる以上、一人にはなれそうにない。紅雷を責めるつもりはないが、ままならない不自由さを感じて、紀更の表情は無意識のうちにゆがんだ。

 そんな紀更の心情を察したのか、紅雷はしゅぽんと音を立ててミズイヌの姿になった。そして紀更が座るソファにぴょんと飛び乗ると、紀更の太ももに顎を乗せて腹ばいの姿勢になった。普通の大型犬よりも大きいので、紅雷の身体はソファの上で窮屈そうだ。


「へへっ」


 ミズイヌ型の紅雷はどことなく嬉しそうな上目遣いで紀更を見上げる。

 メヒュラは動物型でも人型と変わらずに喋れるのだと、紀更は紅雷を見て初めて知った。身近にメヒュラがいない生活だったので、そんな些細なことさえもこの旅で得た新しい知見だ。


「紀更様、あたしのことは気にしないでください。居ないものと思ってくださいね」


 それは紅雷なりの気遣いだった。

 一人になりたい紀更。でも、紀更を一人にさせるわけにはいかない周囲の者たち。

 ミズイヌ型の紅雷なら、そうして喋ることさえしなければ見た目は完全に大きな犬だ。紀更を一人にさせないが、紀更に「他人」を意識させずにすむ。

 紀更は黙ったまま、おもむろに紅雷の頭をなでた。人型の髪色と同じ桜色の毛は艶やかで、絹糸でもさわっているかのようだ。


「王都の私の実家はね、呉服屋なの。呉服屋『つむぎ』っていう、父方のひいおじいちゃんが開いたお店でね。小さい頃から店の手伝いをすることがあったの。でも、いま思えばあれは手伝いじゃなくて、どちらかというと邪魔だっただろうなあ。いろんな布や糸、ボタンやレースをさわって、配置を並び替えたりして……ふふっ。紅雷の毛がつやつやだから、なんだか実家のお店のことを思い出しちゃった」


 紅雷は少しだけ頭を上げて、今様色のまん丸の瞳で紀更を見つめた。大きな尻尾がぱたぱたと揺れているので、紀更になでられているのが嬉しいのか、気持ちいいのだろう。

 だが言葉で紀更に相槌を打つことはなく、再び紀更の膝に顎を乗せて鼻で息をした。普通の犬よりも明らかに大きな体躯だが、言葉を発さずにそうしているとメヒュラではなく本当の犬のように思えてしまう。

 紀更はぼんやりとした手付きで紅雷の頭をなで続ける。その脳裏には数週間前の王黎との会話が再生されていた。


――操言士団の許可が下りたよ。明日から休暇にしていいってさ。

――え……えっ!?

――休暇だからもちろん寮も出ていいよ。久しぶりに実家に帰りな。

――う、うそ……本当に……ほんとう、ですか。

――うん、一週間か……十日くらいかなあ。ま、ゆっくりしておいで~。


 少しばかりの羽休みの始まりだった。実家に帰り、両親と会話をして食事をして自分の部屋で眠る。それだけのことでも、身体にべったりとくっついていた重い泥が少しずつ洗い流されていくようだった。


――紀更、お母さんいま、手が離せないの。代わりに真由美おばさんのところに納品に行ってくれないかしら。

――あら、紀更ちゃん! 久しぶりねえ。

――今日はマサルさんとこのいい野菜が出ていたよ。買うなら早めに行きな。

――紀更! 帰ってたんなら声かけてよー。


 久しぶりに店を手伝い、馴染みの客と言葉を交わす。歩き慣れたマルーデッカ地区で買い物をして、友人と談笑する。

 何気ない会話。日常を飾る素朴な言葉の数々。操言院の中にいた時のように、言葉ひとつ発するのにも気を張りつめる必要がなくて、妙な感動を覚えたものだ。

 あれからとても長い時間が経った気がする。実際には一ヶ月も経っていない程度なのだが、王都を出てからの一日一日がとても濃かったため、こうして振り返ってみて体感以上に月日が過ぎていないことに紀更は驚いた。


(ちょっとした旅行のはず……だったのよね)

――せっかくの休暇なんだし、外に出ない?

――この王都の外だよ。そうだなあ、ちょっとした旅行かな。


 そうして王黎に連れ出された王都の外で、紀更はこれまでの人生で見たことのないものを見た。知らなかったことを知った。操言院で過ごすよりももっと、刺激的で実践的なことを王黎から教えてもらった。操言士という存在について、自分がいかに未熟で幼い思考で止まっていたか、自覚させられた。


――僕は、学び取る意志や姿勢のない者に多くの学を与える必要はないと思っている。


 水の村レイトで、祈聖石を修繕したあとに王黎は言った。何度思い出しても耳が痛い考え方だ。だが、そのとおりだと思う。「学ばされている」という受け身の姿勢のまま操言院にいても、なんの学びも身に付かない。ただ泥に覆われて重くなるだけだ。


(もっと能動的だったら、操言院での一年間はまた少し違っていたのかしら)


 過ぎた時間にたらればの話をしても仕方ないのだが、そんな風に考えられるほどには過去の自分の幼さを冷静に見つめ返すことができる。

 王黎の言うとおり、自分の意志で考え学ぼうと思ってからはどんどん視界が開けた。受動的な姿勢から能動的な姿勢に変わっていくのが自分でもわかった。新しいことを知ったり学んだことを定着させようと実践したりして、操言士としてできることを増やしていく。その楽しさにもどんどん気付いていった。


「そっか」


 紀更はぽつりと呟いた。紅雷の尻尾が一度だけ、大きく左右に振れる。

 祈聖石巡礼の旅を終わらせると決め、これまでの時間を惜しむこともなくあっさりと切り替えた王黎に失望して――いや、拗ねて客室を出てきたのだが、自分のその考え方が違っていたことに気付く。


「どこでどうやって誰と学ぶにとしても、そこに私の意志があれば……自ら学ぶつもりでいれば終わらないんだわ」


 国内の各地に配置されている祈聖石を巡り、祈聖石の保守をしながら操言士として修行を積む祈聖石巡礼の旅。それはあくまでも手段であって目的ではない。旅をすること以外にも、一人前の操言士になるための修行方法はある。あまりいい思い出のない操言院という場所での学びだとしても、そこで大事なのは自分自身の意志と姿勢だ。やり方や場所は関係ない。

 紀更になでられ続けて気持ちがいいのか、紅雷の呼吸は規則正しく落ち着いている。

 そういえば、彼女と初めて会った数日前にも同じことを考えた。


――戸惑って怖気づいてる暇なんてない。不測の事態も予期しない出会いも、全部肥やしにしていかなくちゃ。


 旅は永遠に続くものではないのだ。

 自分が本当に続けるべきものは操言士としての自分の人生、自分の道。あの重苦しい空気のただよう操言院に缶詰めになろうが修了試験に合格して操言院を出ようが、あらゆる経験と知見のすべてを、自分を育てる肥やしにしていかなければ。それが操言士として生きるということなのだから。


――自分の意志で進み、選び取ることをやめないかぎり自分のうしろに道はできる。大丈夫だ。

――大丈夫だ、紀更。


 ふと、ユルゲンの言葉も思い出される。

 折に触れて紀更を励まし、勇気付けてくれたユルゲン。

 思えば水の村レイトで出会ってから、彼には何度も支えてもらった。助けてくれて、笑わせてくれて、励ましてくれた。この旅を通して得たかけがえのない関係のひとつだ。


「操言院に戻っても、そこにいるのはもう、前の私じゃない」


 紀更は膝の上の紅雷の頭部を見下ろした。そこをなでながら紅雷に語りかけるように、だが実際には自分の気持ちを声に出して確かめるように独り言ちる。


「見習いを卒業して一人前の操言士になる。そのためにはとにかく操言院で修了試験に合格しないといけないのよね」


 操言院に閉じこもるのが嫌なら早く修了試験に合格して卒業すればいい。そうすれば、少なくとも操言院からは出られる。そうしてまた師匠の王黎と祈聖石巡礼の旅を始めればいい。エリックとルーカスが護衛についてくれるかはわからない。ユルゲンもまた一緒に旅ができるかどうかは不明だ。でも少なくとも紅雷はこうして一緒にいてくれるだろう。

 終わってしまっても、またそうして始めればいいのだ。拗ねている場合ではない。自分の目の前に道はない。とにかく前に進まなければ道はできないのだ。


「紅雷、ありがとうね」


 紅雷は返事をしない。けれど彼女は寝ているわけでも紀更を無視しているわけでもない。一人になりたかった――でも、きっと心の奥底では一人になりたくなかった。そんな紀更の心情をよく理解してくれているのだ。

 紅雷がこうして傍で黙って独り言を聞いてくれていなかったら。太ももに感じるこのぬくもりがなかったら。紀更はまた見えない泥にへばりつかれて、ゆっくりと沈んでいっただろう。


「祈聖石巡礼の旅は()()()()終わりね。私は王都の操言院に戻ってまた勉強漬けの日々。でも一日でも早く修了試験に合格して、一人前の操言士のスタートに立つ。それが私の望む私の道だから」


 喋れるだろうに、紅雷はあえて言葉は発さずにふさふさの尻尾をこれでもかとはちきれんばかりに振った。応援しているよ、頑張って――そう言ってくれているようだ。

 紅雷の無言の気遣いに、紀更はとてもあたたかな気持ちでほほ笑んだ。



     ◆◇◆◇◆

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