5.痕跡(下)
「ユルゲンさん?」
見上げる視線の先には黒髪と青い瞳の男性。紀更と同じように、真っ黒な火事現場をどこか複雑な表情で見つめているユルゲンだった。
「一人で出歩くと、王黎とエリックに叱られるぞ」
ユルゲンは紀更を横目で見下ろすと、落ち着いた声で言った。
「まあ、一人になりたい時もあるんだろうけどよ」
一人になりたい時――それは、昨日のユルゲンさんのことですか。
紀更はそう尋ねたかったが、黙ってユルゲンを見上げるだけにとどめておいた。そんな風にユルゲンの行動を詮索する資格など、自分にはないのだから。
「それにしても、ひどいな」
火事現場に視線を戻し、ユルゲンは呟く。紀更も墨の塊にぼんやりと焦点を当てた。
「ひどい、ですよね……どうして、こんな」
「この火事もあいつらの仕業なのか。まあ、間違いないだろうな。陽動としては、一番手っ取り早い方法だ」
肯定するのは火事の犠牲者や被害者に申し訳ない気はしたが、同感だ。
「ローベルさんたちは街を、こうして破壊したいのでしょうか。レイトもラフーアも、ローベルさん個人の私怨なんかじゃなくて」
「どうだろうな。でもローベルが個人で動いていないことは確定した。ラフーアではあの三つ編みの男、馬龍。そして昨日はアンジャリと呼ばれた眼鏡の女もいた」
――教えてやる、我らは〝ピラーオルド〟。世界の柱のゆがみを憎み、新たな柱を望んで闇神様の下に集いし者。そして我が名は馬龍だ。
我ら、ということは、「ピラーオルド」は何か組織を指すのか。世界の柱のゆがみを憎むとはどういう意味なのか。それは街の破壊を行うということなのか。そして何よりも――。
「――闇神様って……」
それは闇の神様ヤオディミスのことだろうか。いや、それ以外に考えられない。
ヤオディミスのことをそんな風に呼ぶということは、馬龍はオリジーアの操言士ではなく他国の操言士――たとえばフォスニアの操言士なのだろうか。仮にそうだとしても、なぜ操言士がオリジーアの都市部を破壊したがるのだろう。火事まで起こして家屋や市民に被害を与えて、良心の呵責はないのだろうか。
「世界が大きく動く、か」
ふと、ユルゲンが呟く。
「え?」
「フォスニアの王子様からの手紙だ」
特別な操言士に宛てられた手紙。そこに書かれていたことはとても抽象的で、具体的なことはわからない。だがいまこうして目の前で起きている事象と結び付けてみると、何かつながりがある気がした。
「ローベルだとか馬龍だとか、ピラーオルドと名乗る誰かが、何かをしている。それが世界が動くということなのか。ちと大げさな表現の気もするが、まったく関係がないとも思えない」
「そう……ですね」
紀更は小さな声で頷いた。
ローベルたち、ピラーオルドと名乗る存在。彼らが関与している、都市部の怪魔襲撃事件。何か、不穏な世の中になってきている。フォスニアの優大は、オリジーアで起きるこれらの事件を予見していたのだろうか。
黙りこくった紀更をユルゲンはもう一度見下ろす。そして静かだがはっきりとした声音で尋ねた。
「王都に戻るのか」
「っ……」
紀更は目を見開き、ユルゲンを見上げた。ユルゲンは真剣な表情で続ける。
「レイト、ラフーア、始海の塔。そしてこのポーレンヌ。君の行く先には何か騒ぎが付きまとう。王黎も言っていただろう、王都に一度戻った方がいいと」
「それは……」
王都ベラックスディーオに戻る。それは物理的に戻るというだけではない。操言院に戻り、あの窮屈な空気の中でまた日々を過ごすということだ。
悪意の有無を問わない揶揄。「トクベツ」扱いへの嫉妬、蔑み。それらを隠しもしない見習い操言士たち、あるいは教師操言士たち。ただ暗記しろと、一方的に責め立てるだけのような授業。それらを思い出し、紀更の肩は重くなる。
一人前の操言士になりたい気持ちに嘘偽りはないが、操言院の中に閉じ込められるのはどうしても気が引ける。それほどまでに、操言院で過ごしたこの一年間はあまりいい思い出がない。
(それに……)
王都に戻ったら、この旅のメンバーはどうなるのだろう。師匠の王黎は引き続き、きめ細かく指導してくれるだろうか。それともまた、ある程度放置されるだろうか。
(エリックさん、ルーカスさん……最美さん、紅雷)
最美はきっと王黎の指示がないかぎり、紀更に関わることはないだろう。騎士のエリックとルーカスは、そもそも任務だから共にいてくれるだけだ。紀更が王都に戻れば紀更の護衛という任務は終了し、二人は次の任務に就くのだろう。紅雷は紀更の言従士なので何がなんでも紀更の傍にいてくれるだろうが、果たして操言院の中でも一緒にいていいのだろうか。もしもそれが許可されないならば、紀更が修了試験に合格して操言院を出るまで、紅雷には待っていてもらうしかない。そして――。
(――ユルゲンさんは?)
紀更たちとは無関係の目的を持って放浪していた傭兵のユルゲン。
彼の希望でここまで共にいたが、王都に戻ることになったら彼はどうするのだろう。王都までは一緒に来てくれるだろうか。でも、そのあとは? 彼の本来の目的である探し物を求めて王都を旅立ち、再び国内を放浪するのだろうか。それは二度と会えない決別を意味するのだろうか。
(……いや)
ふいに、胸が痛む。
自分の一部を失ったかのような、耐えがたい痛み。
この世界に自分一人しかいないという、錯覚的孤独感。
置いていかれるような、無視されるような。
誰も自分のことを気にかけないという、錯覚的疎外感。
――私はひとり……独りはいやなの。
心がきゅっと縮まる。隅から隅まで冷たい空気が入り込んで、寂しくなる。誰にも気付いてもらえないまま一人で真っ白になって、悲しくなる。あまりにも痛くてつらくて、もう、こらえきれない。
「っ……」
「え、おいっ!?」
なんの前触れもなく静かに、紀更の目からは涙がこぼれ、それが頬にきらりと光ったのでユルゲンは狼狽した。
「なんだよ、どうした!?」
泣き声も上げず、ほぼ無音のまま泣き出した紀更の肩にふれようとユルゲンは手を伸ばす。しかしふれてもいいのかどうか、最後の判断が下せない。
その手を情けなく空中で行ったり来たりさせた挙句すごすごと引き戻して、ユルゲンは困り顔で問いかけた。
「何か……昨日のことを思い出して怖くなったか」
「ち、ちがっ……すみ、ま……せん」
紀更は息を詰まらせ、途切れ途切れに謝る。細い指で涙を拭うが、しょっぱい雫はぽろぽろと溢れて止まらない。
「王都に戻るのが嫌なのか」
なおもユルゲンはゆっくりと問う。責めているような空気にならないように、努めて穏やかな口調で。
「いえ……」
紀更はふるふると首を横に振った。
気持ちが後ろ向きであることは確かだが、泣くほど嫌かと問われれば答えは否だ。祈聖石巡礼という目的とはまったく関係のない事象が立て続けに起こったので、王黎の言うとおり、操言士団へ直接報告する必要があるのは理解できる。それに、そもそも紀更自身は旅を続けたいと希望を言える立場ではない。なぜなら紀更はまだ見習い操言士の身分で、本来なら王都の操言院で勉強漬けになっていなければならない。見習いの状態で旅をする方が異例、それこそ「トクベツ」な待遇である。王都に戻ること、つまり操言院に戻ることは、今の紀更にとって本来あるべき姿なのだ。
「じゃあ、どうしたんだよ」
ユルゲンの声は穏やかさを通り越して弱々しくなる。
なぜ泣くのだろう。何が嫌なのだろう。昨夜のことが怖いわけでも、王都に戻るのが嫌なわけでもないのなら、何が紀更を泣かせているのだろう。
水の村レイトの時と同じように、涙する年下の少女にどう対応すべきなのかわからないユルゲンは、困惑のため息をついた。何か言葉をかけてあげたいが、王黎のようにぺらぺらと喋ることが得意なわけでもない無骨な自分では、気の利いた言葉のひとつも出てこない。
「ごめ、なさっ……」
そんな風にユルゲンが困っていることに気付いてはいるが、彼の問いに答えられない紀更はただ謝罪するだけだった。
こんなにも胸は痛いのに、その痛みが涙を呼んでいるのに、その理由を言葉で説明できない。ユルゲンが心配してくれているというのに自分の気持ちを表す言葉が見つからず、ただ彼を困らせてしまう。
(どうして、私……っ)
何がこんなにも胸の奥を痛ませるのだろう。
王都に戻ることと、ユルゲンという存在。
それらを考えているうちに、どうしてこんなにも孤独を感じ始めたのだろう。
「あの……ごめんなさい」
「いや、謝る必要は全然ないんだけどよ」
ユルゲンには紀更から謝られる謂れはないので、その謝罪を受け止めようにも受け止められない。ただ、はらはらと泣き続ける紀更が視界に入り、落ち着かない。
紀更は顔を伏せて、嗚咽をこらえながら泣き続ける。そんな彼女を、ユルゲンは無言で見下ろした。
(泣かないでくれ)
そんな風に泣いてほしくない。紀更が泣くと胸の奥、おそらく心と呼べる場所がぎゅっと締め付けられる。
「す、み……ません……っ」
紀更はなおも小声でユルゲンに謝った。泣きやもうとしているようだが、はらり、はらりとこぼれる涙は止まりそうにない。
静かに震えながら泣くのは声を我慢しているからか。それとも声も出せないほどのつらさを、その華奢な身体の中に閉じ込めているからか。
なぜ、そんな風に泣くのだろう。一人で……独りで、どうしてそんな風に我慢するのだろう。何を耐えているのだろう。
(紀更……)
泣かせたくない。独りにさせたくない。
「紀更」
ユルゲンは一息つくと腹をくくった。先ほどためらって引き戻した左手を紀更の背中に伸ばす。そして細く小さなその身体をぐいっと引き寄せると、自分の胸に押し当てるように片腕で抱き込んだ。