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トロンボーニスト

作者: 神田 シン

1


 今年は例年を上回る猛暑が続いていた。

こんな調子では蝉が夏バテするんじゃないか……とつまらない心配するほどに。

 俺は照りつける太陽に焼かれながら、マウンドの土をスパイクの底で数回ならす。

さほど大きくない市民球場に訪れた半分程度の観客が、選手達に熱い視線を注いでいる。

 思い返せば物心のついた時から野球が好きで、多くの少年達と同じようにプロ野球選手を夢見ていた。

いつしか夢は目標に変わり、その為の努力も積み重ねてきたと自負している。

そして白球を追いかける内に、中学最後の大会を迎えてしまった。

「ふぅ……」

 肩を軽く回し凝り固まった筋肉をほぐす。

中学最後といっても自分にとっては通過点の一つに過ぎない。

あくまでも夢はもっと先なのだから。

 顎の先に集まった汗が滴り落ちた。

水気を失ったマウンドが、小さいシミを瞬時に吸い込んだ。

空を見上げると、吸い込まれそうな青色が広がっている。

「まさに夏空……か」

砂埃が立たない程度の柔らかい風が通り抜け、火照る体を僅かに冷やした。

皮肉混じりの呟きが、天に届いたのかもしれない。

 相手チームの声援と楽器の演奏が、この試合一番の盛り上がりを見せる。

「かっとばせー! 杉内すぎうち!」

試合展開は9回の裏、2アウト、ランナー無し。

点差はこっちが一点リードしている。

相手打者からしたら是が非でも塁に出たい場面だろう。

 ベンチからチームメイトが声を張り上げる。

「抑えろー! 睦月むつきー!」

俺は既に強豪校から特待生として誘われている。

仮にここで負けても将来に影響はない。

しかし全国大会で名前を売って箔をつければ、後々役に立つ事もあるだろう。

それともう一つ理由がある……

負けるのは死ぬほど嫌いだ!

 熱気のこもった空気を肺いっぱいに吸い込み、左手にはめたグローブを入れ直す。

キャッチャーは細かな指のサインで、外角低めのカーブを要求する。

 俺は首を横に振りサインを拒否した。

確かに打者はバットを短く持ち、あからさまにストレートを待っている。

但し前の打席での振り遅れていた様子から、短く持ったところで俺の球を打てるとは到底思えない。

今回もそこを突くべきだ。

キャッチャーは即座に意を汲み、真ん中のストレートにサインは変更された。

 俺はボールの縫目に指を沿わせて頷くと、投球動作に移行した。

両腕を頭上まで振りかぶり、ゆっくりと左足を高く上げる。

そして大きく一歩を踏み出し、右足で地面をえぐるように強く蹴り上げた。

下半身から伝わる力を腰の捻りで倍加させる。

全ての力を腕の振りに集約し、更に手首のスナップを加えた。

仕上げに中指と人差し指でボールを弾く。

 ボールは銃口から発射されたような軌道を描き、18.44メートル先のミット目掛けて放たれた。

何十万回と繰り返した感触で確信する。

球速、コントロール共に最高の一球だと。

 だが直後に金属バットの甲高い音が球場に響いた。

会心の一球は力強く地面に叩き付けられたのだ。

ボールは不規則なバウンドで、俺に向かって襲い掛かる。

 打たれたのは仕方ないが打球の行方が悪過ぎる。

とてもじゃないが投球動作の終わった直後で捕球する余裕がない。

俺は何とかグローブに当てて止めようと試みた。


 それは一瞬の出来事だった。

「ツッ!」

予期せぬ方向にボールが跳ね上がり、むき出しの右手に直撃した。

鋭い痛みが指先を駆け、思わず眉をしかめる。

 幸いにも勢いを殺されたボールは、手を伸ばせば届く距離に落ちている。

何はともかく一塁に送球して試合を終わらせよう。

 俺はボールに手をかける——

「……ん?」

おかしいな?

どうしてボールが握れないんだ?

痛む右手を見ると中指の爪が手の甲に付くくらい、あらぬ方向に折れ曲がっていた。

 打者が一塁を踏むと同時に審判がゲー厶を止めた。

「おい! 大丈夫か!」

慌てて監督が駆け寄って来る。

俺は中指を動かそうとするもピクリとも動かない。

「そんなに痛みもありませんし、大丈夫です」

とりあえず見た目こそ酷いが、痛みは徐々に引いてきた。

そんなに重傷ではないだろう。

「睦月。ちょっと見せてみろ」

 監督は俺の手を掴むと深刻な顔をした。

「今すぐコーチと病院に行け」

肩を冷やすアイシングを持ったコーチが隣にしゃがみ込んだ。

「気休めだが冷やした方がいい」

アイシングの冷たさが痛みを和らげる。

このまま試合を見届けたいが、ここに残っても邪魔なだけだ。

俺はグランドに未練を残しながら病院に向かった。


 連れて来られたのは木造作りの古い接骨院だった。

コーチが看護師に事情を説明すると、直ぐに別室に呼ばれレントゲン撮影が行われた。

 写真が出来るまで硬めの椅子に座り待っていると、名前を呼ばれ診察室に入った。

 初老の医者が神妙な面持ちでレントゲン写真を睨みつけている。

「こりゃ時間が掛かるぞ。脱臼は元にもどるが、付け根の腱が切れとる。今後の治療は……」

予想をはるかに越えて、事態は深刻さを増してきた。

医者は写真を指差しながら説明しているが全く耳に入らない。

 俺は医者が説明を終えると同時に、口を開かずにいられなかった。

「どれくらいで野球が出来ますか?」

まくしたてるような口調の問い掛けに医者は黙り込む。

答えは決まっているが、どう伝えようか言葉を探しているように見えた。

「経過を観察しないとはっきりとは言えん。もしかすると後遺症が残る可能性もある」

後遺症という単語が飛び出し思わず絶句した。

自分でも気付かない内にしていた貧乏ゆすりが、体全体の震えに変わる。

 俺は深く息を吐き、気持ちを切り替えた。

こんな所で躓いていられない。

絶対に夢を掴んでやる。

「分かりました。治るんならどんな事でもやります。よろしくお願いします」

 診察室を出るとコーチが待っていた。

うかない表情から言いたい事が何となく伝わった。

「あれから延長戦にもつれ込んで奮闘したんだが、後一歩およばなかったよ。エースとして本当によく頑張ってくれた」

「……そうですか」

俺は無感情に応える。

試合結果を嘆く余裕は微塵も無かった。


 夏は駆け足で過ぎ去り、もう冬の背中が見えてきた。

俺は公園のベンチからどこか憂鬱な秋空を見上げる。

 ブランコと滑り台だけが設置してある小さい公園では、小学校低学年くらいの男子二人がキャッチボールをしている。

行ったり来たりしている山なりのボールを、ただぼんやりと見つめていた。

「あっ!」

一人が取りそこなったボールが足元に転がってきた。

「すいませーん」

俺は左手でボールを拾うと下投げで返す。

「ありがとうございまーす」

男子は頭を下げるとキャッチボールを再開した。

 俺は右手の中指を数回曲げ伸ばす。

日常生活を送るには特に支障はない。

しかしリハビリの甲斐もなく完治はしなかった。

結果として以前のような球威もコントロールも失った。

それは投手としての価値を無くしたのと同義だ。

当たり前の話しだが、特待生の話も立ち消えになったとさっき聞かされた。

 自分が積み上げてきた物が全て崩れ去った。

夢も希望も。

そして生きる目的も。

「ハハッ……やってらんねぇよ」

ぶつける先が分からない悔しさが、体の奥からこみ上げてくる。

あの時俺はどうしたら良かったのだろうか?

無理をして打球を追ったのが悪かったのか?

もっと真剣に練習していれば違った結末があったのか?

ああしたら良かった。

こうしたら良かった。

そんな事ばかりがいくらでも、腐るほど湧いてくる。

ただこれからどうするのか?

その答えだけはいくら探しても見つからなかった。


     2


 頭の薄い校長が挨拶を始めてから十分程が経過した。

「諸君らはぁー、本校生徒としてぇー」

やたら語尾をのばす話し方が耳にまとわりつく。

そんな不快極まりない状況のせいで、かれこれ一時間は立っているような錯覚に陥ってしまう。

おそらくこの場に居る全員の気持ちは一つになっているに違いない。

 俺は暇を持て余し横目で周囲を見渡した。

見た限りでは知らない顔が並んでいる。

どうやら同じ中学の出身者は居ないようだ。

いっそ自分の過去を知らない連中と過ごした方が、新たなスタートという意味では良いのかもしれない。

難点をあげれば自宅から少し遠いという事くらいか?

まぁ、体が鈍らない程度の運動と思って我慢しよう。

「……以上でぇー挨拶とさせて頂きますぅー」

 やっと長話から開放された生徒達は、統率も無く出入り口に殺到した。

俺は少し距離をとって様子を伺う。

どうせ急いで教室に戻っても話し相手すらいないんだ。

混雑が緩和したのを見計らい講堂を後にした。


 それぞれの教室から賑やかな声が廊下に響いている。

これからの高校生活は今までの青春を取り返す為に、緩い部活でも入って楽しくやろう。

放課後に気の合う仲間と遊びに行くも良いかもしれない。

 でもよくよく考えると野球漬けの日々のせいでテレビも観てなかったし、これといった趣味もない。

はたして皆と話が合うのだろうか?

もしも三年間一人ぼっちのままだったらさすがに堪えるな……

 俺は不安を抱えながらも自分の教室を見つける。

ドアを開けた途端に複数の視線を感じたが、素知らぬ顔をした。

そうして誰とも言葉を交わすことなく窓際の席に腰を下ろす。

満開の桜だけが自分を歓迎してくれている気がした。

 すると別に聞き耳を立てていた訳ではないが、女子の話し声が耳に入ってきた。

「ねえ、あの人どこかで見た事ない?」

俺はわざと聞こえてないフリをする。

「うーん……あ! 野球の有名人じゃない?」

「思い出した! 県内の注目選手でテレビにも出てたよね。でも、この学校って野球強かったっけ?」

「確か最後の大会で怪我をして野球が出来なくなったって聞いたけど」

「そうなんだ。何か可哀想だよね」

彼女達に悪気は無いのは分かっている。

だがどうにも居心地が悪くなり席を立った。


 しかし暇を潰そうと教室を出たものの、どこかに行くあてもない。

人気の無い場所を探してウロウロしていると、屋上に続く踊り場に辿り着いた。

外の空気を吸おうとドアノブを捻るも鍵が掛かっている。

誰もこんな所に来ないだろう。

俺はアルミ製の扉を背に座った。

「可哀想……か」

 他人から見れば目標を失った抜け殻にでも見えるのだろうか。

ただ的を得ているだけに反論は出来ないが。

 もちろん投手として再起出来なくても、野球を続けるという選択肢もあった。

ただそれでは夢に手は届かない。

そういえば野球から離れて気付いた事がある。

いつの間にか好きだとか楽しいという理由だけで、続けられなくなっていた心境の変化だ。

もし可能なら純粋な頃に戻りたかった。

つまらない理由で好きな事が出来なくなるのは心底苦しい。

 突如少し冷たい風が頬をかすめた。

「ん?」

隙間風かと振り返るが扉は閉め切られている。

おそらく気のせいだろう。

目線を元に戻すと目の前に、西瓜くらいの大きさの黒い塊が落ちていた。

さっき迄はこんな物は無かったはずだが……

俺は怪し気な物体をジッと見つめる。

「えっ」

 思わず声が出る。

今すぐ逃げ出したいが腰が抜けてしまい、その場から動けない。

——その黒い塊は……

——人間の後頭部だ。

首が隠れるほど伸びた髪から女性の物だろう。

「う……あ……」

俺は陸に上がった魚のように乾いた唇をパクパクさせた。

叫びたいが喉の所で声が詰まる。

 生首は音も立てずにゆっくりと回転する。

どう足掻いても目を背けられない。

何かに頭を鷲掴みにされているみたいだ。

そして回転は俺と向かい合う形になって止まった。

 彼女は瞼を閉じていて、彫刻のように人間味の無い表情をしている。

その無機質な白い肌に、鼻筋の通った顔は雪女を連想させた。

 閉じられていた瞼が徐々に持ち上がる。

俺の姿を瞳に写した生首はうっすらと微笑んだ。

「初めまして。新入生君」

穏やかな口調が逆に恐怖を倍増させる。

「はっ……はい」

頭が真っ白になっている俺は適当な相槌を打つ。

「驚かせて悪かったな」

 生首はそう言うと床から生えるように首、肩、腰、足と順番に姿を現した。

本校の制服を着ている彼女は、床にへたり込む俺を見下ろした。

おそらく彼女は学校に住む幽霊とかそんな類だろうか。

それにしても幽霊にしては生々しく、足だってハッキリと見えている。

 幽霊は真剣な表情で語りかける。

「突然だが君に頼みがあるんだ」

おそらく次に出る台詞は『お前の魂をよこせ!』とか言って襲い掛かってくるに違いない。

「何ですか?」

内心ビビリまくりだが強気を演じて聞き返す。

「それは——」

俺はせめてもの抵抗をしようと身構える。

「——吹奏楽部に入ってくれないか?」

「ふぅえん?」

あまりにも予想をかけ離れた言動に、つい変な声が漏れてしまった。

 彼女は一体何を言ってるんだ?

状況が飲み込めず呆気にとられる俺をそのままに、幽霊は話を続けた。

「アタシは吹奏楽部の部長をやっていたんだが、事故でこんな体になってしまってね。まあ、要は未練と悔いが残っている訳だ。そこで君の力を借りて、悲願である全国大会出場を達成したいってわけさ」

俺はもげそうなくらい首を振って即答した。

「絶対に嫌です! 無理です! 勘弁して下さい!」

 自分で言うのも何だが、俺はどちらかというと器用に物事をこなすタイプだと思う。

しかし音楽だけは唯一の苦手分野だった。

「えらく頭ごなしに断るじゃないか。やりたくない理由でもあるのか?」

脳裏にトラウマが蘇る。

「小学校でリコーダーを使ってクラス全員の発表会があったんですよ。でも俺はどうしても指を器用に動かせなくて、音を出さずに形だけ参加したんです。それからどうにも苦手意識があって……」

「そうか。残念だが仕方ない」

 意外と幽霊はあっさり引いた。

とにかくこれで怪奇現象から解放されると胸を撫で下ろす。

「あ! いっけね! そろそろ教室に戻らないと……」

俺は小芝居をはさみながら、半ば強引にその場を離れようとした。

「ところで本当に断るんだな? 後悔しても知らんぞ?」

念押しの台詞に足が止まる。

「……もし断ったらどうなるんですか?」

 幽霊の余裕の笑みからは引く気はさらさら無いと、明確な意志が込められていた。

「さあ、ね。君が想像した様な事が起こるかもしれんぞ?」

俺はやりたくもない吹奏楽と、幽霊の脅迫を天秤にかける。

「はぁ……分かりました。やればいいんでしょ。やれば」

悩んだが命より大事なものはない。

 嬉しそうに幽霊が俺の肩を叩くも、手が透けて感触は無かった。

「よっく決断してくれた! アタシは最高に嬉しいぞ!」

「でもどうして俺なんですか? 適任は他にいくらでもいるでしょ?」

幽霊は不満をもらす俺を指差した。

「先月事故でこんな体になってから、誰かに気付いてもらおうと色々試していたんだ。しかしアタシを認識出来る者は誰一人として居なかった。それでどうしようかと途方に暮れていた時に現れたのが君だ」

「自分が霊感の強い体質なんて初耳ですよ。そもそも知ったところで嬉しくもないですが」

「霊感うんぬんより、アタシと共通点があるから引き寄せられたのかもな」

 どこをどうひっくり返しても、幽霊との共通点なんて見つからない。

「一体どんな共通点があるんですか?」

「形は違えど不幸なアクシデントで夢を絶たれた者同士……アタシはもう手遅れだけど、君には腐らないで新たな道を歩んで欲しいんだ」

俺は眉間にシワを寄せて幽霊を見た。

「……最初から俺に目星をつけていたんですね?」

「その通りだ、睦月ショウマ君。ちなみにアタシの名前は如月きさらぎチアキ。チイ先輩と呼んでくれ」

 俺はチイ先輩に差し出された手を握るフリをした。

「……本当に期待しないで下さいよ」

「アタシがやっていた楽器なら、手先が不器用でも、極論譜面が読めなくても大丈夫だ」

「そんな都合のいい楽器があるんですか?」

「あるさ! その名はトロンボーンだ!」

チイ先輩はとびきりの笑顔で言い放った。


 衝撃的な出会いのせいで憂鬱な気分を引きずったまま、放課後になってしまった。

椅子から直ぐに立ち上がる気力もなく、一人深いため息をつく。

高校生活を謳歌する計画がこんなにも早く頓挫するとは。

せめてサッカーとかバスケならやる気も出るけど、よりによって吹奏楽って……

もう本気で勘弁してほしい。

 俺は重い足取りで音楽室に向かう。

あれからチイ先輩は教室までついてきた。

本人曰く『困った事にショウマから離れられなくなった』らしい。

まさか取り憑かれたのではと不安にかられる。

それにしても俺の周りをウロウロしているチイ先輩に誰も気付いていない。

どうやら本当に俺以外には見えないようだ。

 周囲に独り言を呟く危ない奴と勘違いされないよう、小声でチイ先輩に話し掛ける。

「本当に行かなきゃいけませんか? 出来れば考え直しては……」

チイ先輩は俺の肩を抱くフリをする。

「自らの手で扉をノックしないと、未来を切り開く事は出来ないぞ」

「まるで俺が望んで入部するみたいに言わないで下さい」

「経緯はどうあれ選んだのはショウマだろ? 男らしく責任をとれ」

「脅迫しといてよく言えますね」

「過ぎた事をネチネチいう男はモテないぞ」

「はい、はい」

 チイ先輩はどこか嬉しそうに俺の隣に並んだ。

「冗談はさておき諸注意があるんだ」

「はあ」

「ショウマはアタシの親戚という設定でいこう。その縁で吹奏楽に興味があったと言うんだ」

「わざわざそんなアリバイ工作が必要なんですか?」

「うーん、まあな。行けば分かる」

「行けば分かるって……」

 その無責任な言葉に一抹の不安を残しながら、音楽室に着いてしまった。

白い両開きの扉から様々な楽器の音が漏れている。

高校生活の分水嶺を前に俺は躊躇していた。

どことなく複雑なフレーズが聴こえる。

「よしっ」

気合を入れ手を伸ばすと突然扉が開いた。

「おっ!」

いきなり目標を失った体はバランスを崩し、俺は豪快に尻もちをつく。

腰をさする俺を女子生徒が無表情に見つめていた。

身長は俺より頭一つ低く、一見小学生に見えるくらい幼い顔つきをしている。

やたら長い前髪の隙間からは疑いの眼差しが覗いていた。

 俺は恥ずかしさから慌てて起き上がり、わざとらしく咳払いを一つした。

「あの、入部希望なんですけど……」

「そう……」

どうにも歓迎されていない空気を出しながら、小柄な彼女は俺の横をするりと通り抜けた。

「彼女は天才トランペット奏者と評される二年のたちばなサチコだ」

チイ先輩が横から口を出す。

「俺、嫌われる事しましたか?」

「さあ? ショウマが生理的に受け付けないタイプなんじゃないか?」

「そんな元も子もない……」

多少へこみながら音楽室に足を踏み入れた。


 木目のフローリングに薄緑の壁、天井は防音構造となっていて小さな穴が無数に空いている。

椅子は数ミリのズレもなく規則的に並べられており、設置した人の几帳面な性格を無言で表していた。

そこには様々な楽器を持つ生徒が座っている。

楽譜を穴が空くように見ている人がいれば、やたら同じフレーズだけを繰り返す人もいた。

共通するのはそこにいる誰もが真剣な表情をしている点だ。

 そしてもう一つの共通点が浮かび上がった。

「ああ、なるほど。そういう事ですか」

チイ先輩の『行けば分かる』の意味を理解した。

どれだけ注意深く観察しても男子の姿が一切無い。

「昔から続く伝統なんだ。正式に男子禁制の規則はないから心配するな」

「世の中暗黙の了解が一番厄介なんですよ」

チイ先輩に悪びれた様子は全くない。

「おい、見学者か?」

 背後から細身の女教師に声をかけられる。

年齢は四十代後半だろうか、腕を組んだまま横目で俺を見た。

「この人が顧問の沖浦おきうらミヤコ。鬼軍曹のようだが、意外にも結婚している。ぜひとも旦那の顔を見てみたい」

チイ先輩のどうでもいい情報を俺は右から左へ聞き流す。

ジャージ姿が板についている姿は音楽教師というか、さながら体育教師のようだ。

「はい。そうです」

威圧的な雰囲気に若干怯えながら返答する。

「そうか。これから合奏だ。窓際の席で見ていろ」

 俺は借りてきた猫のように隅の席に座った。

見学者は他に二十人程か。

誰もが熱い視線を先輩達に送っている。

「あれがショウマがやるトロンボーンだ」

チイ先輩が一番後ろの列を指差した。

金色輝く長細いラッパの様な楽器を肩に担いでいる。

どの楽器とも違うフォルムに、思わず目が釘付けになる。

「どうだ? 面白そうだろ?」

「何というか……独特ですね」

肩から手の先くらいの長さがあるU字の管が、出たり入ったりせわしなく動いている。

「あのスライドの出し入れで音程を決めている。だから指先が不器用なショウマに向いていると思うぞ」

 沖浦先生が壇上に上がりパンパンッと手を叩く。

「よし! やるぞ!」

騒然としていた音楽室は、一瞬で静寂に支配された。

そして沖浦先生は右手に指揮棒を持ちゆっくりと振り上げる。

「新入部員が見てるんだ。しっかり決めろよ」

一気に指揮棒を振り下ろした。

 大気が震える音の爆発が起こり、地面が小刻みに揺れた。

足元から頭の天辺まで順番に鳥肌が駆け巡る。

沖浦先生は左手をかざし音を掴むように握ると、再び静寂が訪れた。

「まあ、いいだろう。百点には程遠いがな」

何が始まったのか困惑している俺にチイ先輩が囁いた。

「こうやって合奏前に音を合わせるんだ。ちなみに個別ではチューニングはしてきているが、合わせてみないとバランスが分からない」

沖浦先生が見学者の方を向いた。

「これから演奏する曲目はバッハの『トッカータとフーガニ短調』だ。ピアノの有名曲だからほとんどの者は知っているだろう。今年はこれで全国を目指す!」

静寂に緊張が走り、より一層空気が引き締まる。

呼吸をする音さえもためらわれる雰囲気に、俺は息を凝らしたた。

部員全員の刺すような視線が沖浦先生に集まる。

 時が止まったような世界で指揮棒だけが動き出した。

これが音楽の力なのか。

波が押し寄せると、突然立ち塞がる壁が現れまた消える。

そして一つの美しい宝石が光ると、次々に全く別の色が重なり合う。

色は重なり合うと最後は黒くなるのが道理なのに、音はくすむ事なく更に輝きを増していく。

目には見えないがそこには巨大な質量を感じさせる何かが確実に存在していた。

 ……あれ? もう終わったのか?

俺は時計に目を向けた。

だいたい十分程が経過している。

迫力に圧倒され続けたせいで、時間の感覚すら忘れてしまっていた。

 新入部員達から自然と拍手が起こった。

「どうだ? 凄いだろ?」

チイ先輩は得意満面な笑みを浮かべる。

「力を貸せなんて言いましたけど、俺なんかが入る必要は無いんじゃないですか? とても素晴らしい演奏だと思いましたよ?」

それはやりたくないとか置いといて、本心から出た感想だった。

成り行きに流された自分のような動機の人間が、やすやすと踏み込んでいい領域ではない。

「そりゃ小中学からやってる連中の集まりだから上手いさ。しかし決定的にもう一歩が足りない。それが支部大会止まりの要因だ」

「支部大会って何ですか?」

「全国大会に出場するには地区大会と支部大会を突破しなくちゃいけないんだ。アタシ達の実力は支部大会には進めるが全国には届かない。それでもこの辺じゃ強豪校と呼ばれているがな」

「要は狭き門って事ですね」

「全国に行けるのは1パーセント以下。丁度ショウマが目指していた甲子園出場並の難易度だよ」

「だったら余計に俺なんか……」

 チイ先輩に全てを言い終える前に沖浦先生が壇上から下りる。

「さて新入部員共、壇上に上がって自己紹介をしろ。生半可な覚悟で来た奴は今すぐ去れ」

当然だが誰一人として出て行く気配は無い。

この中で立ち去りたいのは俺だけみたいだ。

最初の生徒が堂々とした様子で壇上に上がる。

順番からして最後になるな。

とりあえず皆がどう言うのか参考にさせてもらおう。

棚橋たなはしユリです。小三からフルートやっています。宜しくお願いします!」

次々と簡単な自己紹介が続いていく。

今のところ新入部員の全員が経験者ばかりだ。

ますます肩身が狭くなる。

「強豪校に『ちょっと興味があって入部します。テヘッ』なんてノリの奴は来るわけないだろ」

チイ先輩に思考を読まれる。

「ただ一人の男子で、更に唯一の未経験ってどんな罰ゲームですか」

 愚痴をこぼしていると、いかにも緊張している面持ちの女子が壇上に上がった。

丸顔で大きな瞳と忙しない動きが、小動物っぽさをかもし出している。

「あ、えっと……小森こもりコマチです。

その……中学からトロンボーン……です。宜しくお願いしまひゅ!」

噛んだな小森コマチ。

どんまい。

「にゃひゃん!」

今度は逃げる様に降りようとして躓いた。

綿菓子のようなゆるふわボブが揺れる。

微笑ましい光景に全員に優しい笑顔がこぼれた。

 そして待ちに待ってないが無情にも順番は回ってくる。

俺は半ばやけくそで壇上に上がる。

歓迎されていないムードを肌にひしひし感じながら腹を決めた。

「睦月ショウマといいます。吹奏楽は初めてです。如月チアキ先輩の親戚で、同じトロンボーン希望です。迷惑かけますが宜しくお願いします!」

チイ先輩の名前を出した途端、一瞬先輩達の顔色が変わった気がした。

それを知ってか知らずか沖浦先生が話をまとめる。

「これからパート練習に入る。パートリーダーは新入部員に色々教えてやってくれ。解散!」


 とりあえず一山乗りっきたと安堵していると、誰かに背中を叩かれた。

「睦月君に小森さん。トロンボーンのパートリーダー、西本にしもとカヨよ。宜しく!」

「宜しくお願いします、西本先輩」

「あの……お願いします!」

声が被ったのが気恥ずかしいのか、小森さんは髪をクルクルいじり始めた。

「これから同じパートの仲間だから、気楽にカヨさんでいいよ」

カヨさんは屈託のない笑顔を浮かべながら手をヒラヒラさせた。

ベリーショートの髪型のせいか、どことなく少年のような香りのする中性的な人だ。

何はともかく優しそうな人で良かった。

「さてっと、早速だけど付いてきてくれる? 渡したい物があるんだ」

 カヨさんに付いていくと音楽室隣の倉庫みたいな所に入った。

入り口上部には準備室と書かれている。

言われるがままに俺達も後を追う。

中に入ると準備室はゴミ一つ無く整理整頓が行き届いていた。

お世辞にも綺麗とは言えない運動部の部室しか知らない者からすれば、清潔を通り越して潔癖という印象さえ受けた。

 カヨさんは何やら探しながら、小森さんに話し掛ける。

「小森さんは自前の楽器かい?」

「いえ、学校の使ってました」

「そかそか。テナーバス? それともテナー?」

「テナーバスでお願いします。腕が短くてテナーはちょっと辛いので」

 カヨさんは楽器の箱を三つ並べた。

「この中から好きなやつを選んで。状態は一緒くらいだから」

「ありがとうございます」

小森さんは箱を全て開け、楽器を組み立て始めた。

なるほどトロンボーンはラッパみたいな部品と、さっきチイ先輩が言っていたスライドという部品を組み立てて使うのか。

それにしても専門用語が飛び交う中にいると、自分一人が別世界の住人になった気分になる。

 爆発物処理班のように入念に楽器を調べる小森さんを他所に、カヨさんが俺の所にやって来た。

「睦月君はコレだよ」

鉄で出来た用途不明の物体を渡される。

人差し指くらいの長さで、小さいロートの様な形状だ。

そういえばトロンボーンの口が当たる部分に、これが付いていたな。

「何ですかコレ?」

率直な疑問を投げかける。

「これはマウスピースと言って金管楽器の先端に付ける物なんだ。小型のトランペットには小さいマウスピース。大型のチューバには大きいマウスピースを使うの。まず初心者はこれで音階を吹く練習だよ」

俺はマウスピースをじっと見つめる。

「音階ってドレミファソラシドてヤツですよね。どうやって出すんですか?」

「百聞は一見にしかずだね。小森さん、ちょっと吹いてくれる?」

「はっ、はい」

楽器の試し吹きをしていた小森さんが、トロンボーンからマウスピースを外す。

「そんなに上手くないよ」

照れ気味の小森さんは俺に一言添えてからマウスピースを口に当てた。

 その音を例えるなら蜂の羽音だろうか?

自分のイメージする楽器の音とはどこか違う気もしたが、確かに音の階段を登っている。

「本人は謙遜しているがなかなか上手だ。参考にするといい」

チイ先輩は窓枠に腰を掛け、品定めをするように小森さんを眺めていた。

「さて、睦月君やってみよう。とりあえず口で『ぶー』て言いながら、唇を狭くしてみて」

「ぶー……」

言われた通り狭めると、音が消え息だけが漏れる。

「はい! そこで思いっきり息を吐く!」

唇が細かく振動する。

どうにもムズ痒い。

「この感じをマウスピースを口に当てながらやると音が出るんだ」

 早速マウスピースを口に当て試してみた。

金属の冷たさが唇の周りから伝わってくる。

俺は大きく息を吸い、さっきの感覚を思い出して息を吹く。

するとほんの少しだけ小森さんみたいな音が出た。

「唇の震え加減を調整すると音階になるんだ。ある程度出来る様にならないと楽器で音を出せないから、暫くマウスピースで頑張って」

「はい。やってみます」

「ちょっと小森さんとの話が長引くから好きに練習してて。私達は三年一組に居るし、集中したかったら準備室横の階段を登った屋上の踊り場があるよ」

どうやら屋上の踊り場とは不思議な縁があるみたいだ。

「とりあえず屋上で練習します。また後で教室に顔を出しますね」

「うん、分かった」

カヨさんに一礼し準備室を後にした。

 廊下に溢れる音を聴きながら屋上に向かう。

中学にも吹奏楽部はあったが、こんなにも興味を持って耳を傾けた事は無かった。

俺は忙しなく各教室を覗くチイ先輩に話し掛ける。

「よく聴くと同じ楽器でも人によって音が違いがあるんですね」

「お! なかなか良い耳してるじゃないか。奏者によって不思議と個性が出る。そこも吹奏楽の面白い所だ」

 チイ先輩に相槌を打とうとすると、誰かに呼び止められた気がした。

「ねえ……」

やはり後ろから声がする。

「はい?」

一応振り向くと、橘先輩が俺を見上げていた。

「あなた……チイ先輩の知り合い?」

「ええ、まあ」

橘先輩は一歩前に出た。

体が触れるんじゃないかと思うくらいの距離に少し緊張する。

「私の事……何か聞いてない? 何か言ってなかった?」

食いつくような視線に困り、当の本人に助けを求めた。

「うんにゃ。橘が何を知りたいのか心当たりもない」

チイ先輩は首を横に振った。

「いえ、特には」

「そう……ゴメン。変な事聞いて」

橘先輩は肩を落としながら去っていった。

 屋上の踊り場に着いてから、椅子を持ってきていない事に気が付いた。

慣れない場所で緊張しっぱなしだったから、余裕が無かったんだろう。

だが今更取りに行くのも面倒だ。

俺は壁にもたれ床に座った。

「そういえば合奏に橘先輩は参加していませんでしたよね?」

チイ先輩は階段を椅子替わりにしていた。

「ちょっと事情があって合奏には参加してないんだ。まあ色々……な」

深入りしてはいけない空気を察し、俺はマウスピースを取り出した。

「さてと、初心者は練習あるのみ」

「おやおや? 嫌々入部したわりには殊勝な心掛けじゃないか」

「理由はどうあれ手を抜くのは嫌いなんですよ」

不安定で今にも死にそうな蜂の羽音が屋上に響いた。


 練習開始から一時間弱が過ぎ、俺は産まれて初めての体験をしていた。

「唇が痛い……」

「力み過ぎだ。何でもかんでも思いっきり吹けばいいもんじゃない」

練習の邪魔をしないよう黙っていたのか、チイ先輩がやっと口を開いた。

「音がズレてて段差のある音階にしかならないですよ」

「残念だがセンスのある人間は最初から上手い。そうでなくとも努力すれば上手くなる」

返ってきたありきたりな答え。

「どうせ才能もセンスも無いですよ」

俺はふてくされ気味に答える。

だから吹奏楽なんてやりたくなかったんだと、心の中で愚痴った。

「心配するな、アタシの見立てではショウマは並だよ。血のにじむ様な練習をすれば直に経験者に追いつくさ」

「はいはい、精進致します」

おもむろにチイ先輩が立ち上がる。

「そろそろ挨拶に行くか。女の園に咲いた一輪の花が、どんな色なのか知りたがっているだろうし」

 俺はふざけ半分のチイ先輩に不満を漏らしながら階段を降りる。

「ところで三年一組ってどこですか?」

「全く。アタシが居ないと何も出来ないんだな」

「別に一生放っといてくれてもいいんですけど……」

チイ先輩の案内で三年一組に辿り着きドアを開けた。

「おー、睦月君。場所を言い忘れていたけど無事着いたんだね。さあ、入って入って」

教室の後ろの方ではカヨさんに小森さん、そしてもう一人が練習している。

「知ってるだろうけど我がパートの二人目の新入部員ですよ」

「宜しくお願いします!」

 個人練習をしていた先輩達と小森さんは楽器を床に置いた。

吉良きらミユキ。二年」

吉良先輩はぶっきらぼうに言い放つ。

気の強そうなツリ目が眼光鋭く一瞥した。

髪型は前髪ごとポニーテールでまとめられ額があらわになっている。

突きつけられた明確な敵対心に、思わず唾を飲み込んだ。

「まあまあ、ミユキ。そう嫌わなくても。睦月君が怯えてるじゃない」

どうも吉良先輩にはフォローが効いている様子はない。

「チイ先輩の身内か何かは知らねえけどな……」

吉良先輩は俺を睨んだまま仁王立ちで立ち塞がる。

「どうせ野球が出来なくなって、女でも漁りに来たんだろ? 吹奏楽をなめんじゃねえ!」

 吉良先輩は結構な勢いで机を蹴飛ばした。

壊れそうな勢いで倒れた反動で、教科書やらノートが周囲に飛び散る。

「今すぐ辞めろ! 分かったか!」

捨て台詞を残して吉良先輩は教室を出ていった。

怒涛の展開に唖然とする俺。

そして震える小森さん。

「あー……うん。睦月君みたいなのは珍しいから、色んな噂が独り歩きしてるんだよ」

カヨさんは困った顔で苦笑いを浮かべた。

ただでさえ男というだけで偏見の目で見られているのに、変な噂まで立っているとは。

 俺は重い空気を変えようと、カヨさんに別な話題を振った。

「ところでトロンボーンパートって、カヨさんと吉良先輩だけなんですか?」

「うん。正直人数が足りてないのよ。他のパートから引っ張ってくる事も出来るんだけど、皆自分の楽器を何年もやってるから来たがらないの。チイもあんな事になっちゃうし……」

チイ先輩はカヨさんの横で自慢気に頷いた。

「彼女のような天才的超絶完璧奏者が居なくなったのは大きな痛手だな」

俺は茶化すチイ先輩をあえて無視した。

「そうですか。とにかく俺は屋上で練習します。吉良先輩にもそう伝えて下さい」

「気を使わせてゴメンね。私からもよく言っておくから」

「それでは失礼します」

 波乱万丈の顔合わせを終え再び屋上の踊り場に戻った俺は、どうにも練習する気になれなかった。

「面倒くさい……」

つい本音がこぼれてしまう。

決して練習が面倒くさいのではない。

悩みの種は芳しくない人間関係だ。

「新たな挑戦をする時は何かしらの困難はあるものさ」

困難のキッカケを作った本人は平然としている。

「この先も吉良先輩と顔を合わすと思うと気が滅入りますよ」

「変に言い繕っても傷口を広げるはめになりそうだしな。誠実に接していればその内誤解も解けるさ」

「はぁ……」

かと言って考えてもこれといった解決策は見つからない。

俺は無心のままマウスピースを吹き始めた。

 しばらく続ける内にコツを掴み、若干低い音は出るようになった。

「チイ先輩。高音が出ないんですけど」

「唇を柔らかく使う事を意識するんだ。まぁ、カヨも言っていたがある程度でいいんだよ。楽器がスピーカで、マウスピースの音を大きくしている訳じゃ無いんだから」

アドバイスを実践しても、『プスゥ……』と風船から空気が抜ける様な音しかしない。

やはり前途多難な道のりになりそうだ。


 しだいに辺りが薄暗くなっていく。

練習を続けていると、誰かが上がってくる気配がした。

「睦月君、今日はもうお終いだって」

小森さんに言われ時計を見ると 、夕方の六時を少し過ぎた頃だった。

時間を忘れるほどに集中していたようだ。

「ああ、分かったよ……で、これから全員音楽室に集まるの?」

小森さんは左右に首を振る。

「ううん、時間が来たら自由解散って聞いてるよ」

「そっか、ありがとう。わざわざ呼びに来てくれて」

 俺と小森さんは一緒に準備室に向かった。

「下で聴かせてもらったけど、一日で大分上達したよね」

「小森先輩にそう言って貰えると光栄ですよ」

「何よ先輩って。コマチでいいよ」

「じゃあ、俺もショウマで」

彼女の柔らかい笑顔に、荒んだ俺の心が浄化されるようだ。

「それであれから吉良先輩は戻って来たの?」

「うん、直に戻ってきた。吉良先輩が怒った時は本当にびっくりしたよ」

「むしろ俺は小型犬みたいに震えるコマチにびっくりしたよ」

コマチはほっぺたを膨らませた。

「むぅ」

話していると数年来付き合いのある幼馴染みたいな錯覚に陥る。

これが彼女の魅力なのだろう。


 片付けを済ませ下駄箱で靴を履く。

俺はくすぶる火種のようにある疑問を抱えたままでいた。

聞けば分かる事なのだが答えを知る勇気がなく今に至る。

しかしどの道結論は変わらない。

腹を決めてチイ先輩を見た。

「ところでチイ先輩。これから……その……どうするおつもりですか?」

チイ先輩はきょとんとした表情だ。

「言ったじゃないか、離れられないって。だからショウマに着いていくしかないだろ」

「私めはこれから帰宅の途に就くのですが……」

「うん。だからアタシも一緒に帰る」

俺は予想通りの展開に落胆する。

「はぁ、やっぱり……」

ほとんどの生徒が下校したのか駐輪場に人気は無い。

俺が自転車を引っ張り出すとチイ先輩が当たり前のように後ろに座った。

いつか愛しい人とやってみたかったシュチュエーションをまさか幽霊とするとは……

夢と現実のギャップを実感しながらペダルを踏む。

 一人分の重さを乗せて自転車は走り出した。

「吹奏楽部の初日はどうだった?」

チイ先輩の顔こそ見えないが上機嫌なのは声で感じた。

「それ、答え分かってて聞きます?」

俺はありったけの嫌味をこめる。

「意外とショウマに合ってると思うぞ」

チイ先輩は俺の気持ちを無視して応える。

「適当な事を言わないで下さい。どこをどう見てそんな風に思えるんですか……」

「先見の明はあるはずなんだがなぁ」

「残念ながら今回は外れましたね」

「そうかなー……」

どこか納得してない様子でチイ先輩はボヤいた。


 家に到着すると、もう日が落ちていた。

少し肌寒い春の夜風に晒されながら、玄関先に自転車を停める。

「ここがショウマの家かー」

チイ先輩は同じような家が並ぶ新興住宅地の一軒家を、やけに楽しそうに見上げた。

「どこにでもある庶民の一軒家ですよ」

俺は真逆のテンションでドアノブを捻る。

「ただいま」

「あら遅かったわね」 

家に入ると夕飯の支度をしていた母親がキッチンから顔を出した。

「部活だよ、部活」

「決めるの早いわね。で、何にしたの?」

俺は一瞬喉をつまらせる。

「……吹奏楽部」

 奥から耳障りな笑い声が聴こえてきた。

「あっはは! 運動しか取り柄の無いショウが吹奏楽って似合わねー! どういう風の吹き回しだよ!」

タンクトップ姿の姉貴が涙を浮かべ大爆笑しながら現れた。

風呂上がりなのかバスタオルをターバンみたいに巻いている。

「うっせーよ!」

俺が怒鳴ったところで姉貴はしれっとしている。

「野球が駄目んなって頭がおかしくなったか? ん?」

「コラ! ミツハ! 言い過ぎでしょ!」

母は姉貴の頭をオタマで叩く。

「いってーな! 頭が悪くなんだろ! 大学中退して就職出来なくなったらどう責任とってくれるんだよ!」

「それが親に対していう台詞!」

 もうこうなっては収集がつかない。

俺は罵り合う二人を横目に、二階の自室に向かった。

「仲の良い家族だな」

「毎日騒がしくて嫌になりますよ」

「ショウマは腫れ物を触るように扱われたいのか?」

「そうじゃなくて、姉貴はただ俺をからかいたいだけなんです」

俺より三歳年上の姉貴には、子供の頃からよく虐められてきた。

そもそもアイツは弟を都合の良い奴隷程度にしか思っていない。

すっかり身長も逆転したが、あいにく立場は昔のままだ。

「私は一人っ子だから、あんな楽しそうな姉には憧れるけどな」

「どうぞ、どうぞ。いつでも貰って下さい」

 自室に入ると電気もつけずにベッドに直行した。

立ち上がれない程の疲労感が体を包む。

これはいつの間にか寝てしまうパターンだ。

最後の気力を振り絞り目覚まし時計をセットする。

これで現世に心残りはない。

夢の世界に旅立つべく瞼を閉じた。


 ここは……どこだ?

真っ白な空間が永遠と続いている。

しかしどこか圧迫感があり、とてつもなく大きい箱の中に閉じ込められているようだ。

ああ、そうか。

夢を見ているのか。

変な体験をした後は、変な夢を見るのかもしれない。

 俺は大の字に寝転がり純白の空を仰いだ。

夢の中くらい久しぶりの一人を堪能しよう。

「あれ? どうしてここに居るんだ?」

当のチイ先輩が俺を見下ろしている。

「せめて夢の中では一人にして下さい」

ゴロンとうつ伏せになり目線を外した。

「失敬な。ここは私の夢の中だぞ」

耳を疑う言葉が発せられる。

「へ?」

というか幽霊も夢を見るのだろうか?

そんな疑問が浮かんだが聞いてもしょうがないだろう。

「ふむふむ、なるほど。そういう事か」

チイ先輩は不思議な現象の答えを先に得たようだ。

「一人で納得しないで下さいよ」

「ショウマから離れられないという制約は、夢の中でさえも有効なんじゃないか?」

「いやいや、またまた冗談ばっかり」

例え当たっていてもそんな最悪の仮説を認めたくはない。

 チイ先輩の瞳は輝きを増す。

「これはもしかして……」

これはろくでもない事になりそうだ。

俺は冷たい視線を投げかけた。

それを知ってか知らずかチイ先輩は、オニギリを握るように両手を合わる。

「んー、むむむ……は!」

気合いとともに手を広げると、見慣れた銀色の物体が現れた。

「マウスピース?」

「予想通りだ! ほらほら、ショウマもやってみろ!」

半信半疑でチイ先輩の真似をすると見事にマウスピースが現れた。

「何でこんな……」

「夢の途中で自分が夢を見ていると気付いて、好き勝手した経験は無いか? その時こうして念じれば欲しい物が出て来る事があったんだ」

「……と言う事は?」

チイ先輩は俺の肩を結構な勢いで叩く。

普段はすり抜けるのに夢の中では感覚があり、逆に不自然に思えた。

「これは大きなチャンスだ! 今夜から徹底的に鍛えて一人前のトロンボーン奏者に育成してやる! 言っただろ? 凡人は血のにじむ様な練習をしないと経験者に追いつけないぞ?」

ああ、今夜は寝れないな。

いや、寝てるからそれは違うか……


     3


 目覚ましがけたたましい音を立てる。

藁をもつかむように手を伸ばし騒音を止めた。

「やっと終わった……」

夢の中で幾度となくマウスピースを吹き、たまには自分の思い通りの音が出る事もあった。

しかしどうして上手く行ったのか、理由がサッパリ分からない。

それに終わりの見えない練習は、想像以上に精神的疲労度が大きい。

まるで先の見えない砂漠をひたすら歩く旅人にでもなった気分だった。

 夢で疲れた体を無理矢理起き上がらせる。

「おはよう、ショウマ」

対照的にチイ先輩は元気そうだ。

きっと幽霊は疲れないのだろう。

「……おはようございます」

俺は目を擦りながら応えた。

「おや? えらく早起きじゃないか?」

時計の針は午前五時を指している。

「自分でもこんなに早く起きて馬鹿だと思います」

 首を傾げるチイ先輩をよそに、俺は浴室に向かう。

いつものように服を脱ごうとして、シャツに手をかけた。

「あの……シャワー浴びるんで出て行ってくれますか?」

「いや、アタシは気にしないが……」

チイ先輩と俺は無言でしばらく見つめ合う。

「……怒りますよ」

「ちぇっ。ケチだなぁ、見て減るもんじゃあるまいし」

「そういう問題じゃありません」

チイ先輩は小声でブツブツいいながら浴室の壁をすり抜けた。

 手早くシャワーを済まし、リビングで朝食の菓子パンを頬張りながらジャージに着替える。

不思議と昨晩食事を抜いているわりに腹は空いていなかった。

「何やってんだ?」

朝のニュース番組を寝転がりながら見ていたチイ先輩が聞いてきた。

「登校準備です」

老齢のベテランキャスターが淡々とニュースを読み上げている。

ほのぼのとした内容が続いている。

昨日俺に起こった出来事の方がよっぽど大ニュースだな。

使い古したリュックサックに制服を詰め込むと、廊下に放り出している姉貴の服を蹴飛ばし、音を立てないように玄関を出る。

 空はまだ薄暗くうっすらと月が残っていた。

早朝の空気はまだ肌寒い。

ここ最近体を動かしていない事もあり、入念にストレッチを行い走り出す。

「まさかとは思うが、走って学校に行くつもりなのか?」

「ええ。二時間もあれば着くと思います」

「昨日は自転車通学だったじゃないか?」

「そりゃ昨日は吹奏楽部に入部するつもりなんて、微塵も無かったですからね」

 軽快に飛ばす俺の横をチイ先輩は黙って浮きながら付いてくる。

「そうか! 走って肺活量アップを狙っているのか!」

沈黙をチイ先輩が破った。

「どれだけ効果があるか分かりませんけど」

「そりゃ、確かに効果はあるっちゃあるが……」

明らかに呆れた表情で俺を見る。

「やれる事は全部やっておきたいんですよ」

チイ先輩は目を細めた。

「……どうにもショウマは自分を追い込んでる様に見えるな」

「何かに没頭している時は余計な事を考えなくていいですから」

「いつかその理由が変わる時が来るのを祈っておくよ」

「あれ? もっと否定的な意見を言われるかと思いましたよ」

「例えばどんな?」

「音楽を逃げ道にするな! とか」

並走していたチイ先輩は前に出た。

「逃げる事は悪くないさ。誰でもそんな時もある」

「じゃあ吹奏楽から逃げてもいいですか?」

「ソレはソレ。コレはコレ」

残念ながら提案は即座に却下された。


 月は完全に姿を消し、太陽が顔を出した。

学校まで後三十分くらいの地点で、赤い自転車に跨がる女子生徒に颯爽と追い抜かれた。

すると少し先で自転車は停車し、女子生徒は俺の方を振り返る。

「げっ」

思わず心の声が漏れる。

あのポニーテールは吉良先輩だ。

「おはようございます」

苦手だろうが先輩は先輩だ。

俺は先に挨拶をする。

「無駄に走って露骨に頑張ってますアピールでもしてるつもりなのか?」

「いや、そんなつもりは……」

「いくらパートの人数が少ないからって、簡単にレギュラーになれると思うなよ」

挨拶も返さない吉良先輩は走り去った。

「完全に嫌われたな」

それは世界中で俺が一番身を持って知っている。

 予想通りの時間に到着し校門をくぐると、懐かしい金属音が聞こえてきた。

どうやらグラウンドでは野球部が朝練をしているようだ。

なんの気無しに練習風景を見ると、たまたま一人の選手と目があった。

 忘れようと頭の奥に押し込んでいた、夏の記憶が鮮明に蘇る。

その選手は俺が最後に対戦した打者で間違いない。

向こうも俺に気付いたようでこっちを見ていた。

怪我の件は試合中の事故だ。

まして故意にやった事では無い。

しかし納得は出来ても仲良くなりたいとは思わないし、むしろ言葉を交わしたくもない。

俺は交錯する視線を自分から外した。

まさか同じ高校だったなんて。

世の中の狭さと、自分の運命を呪った。


 まだ教室には誰もいないと思っていたのに、数人の女子生徒が談笑していた。

さすがにここで着替えるのはバツが悪い。

俺は仕方なく屋上の踊り場で着替える事にした。

 寒さに震えながら手早く制服に着替える。

そして教室に戻ろうと階段を降りると、準備室に入る人影が見えた。

「チイ先輩。吹奏楽部って朝練は出来るんですか?」

「いや。近隣住民との約束で早朝の音出しは禁止されているぞ」

「さっき誰かが準備室に入ったみたいなんですが……」

チイ先輩は深刻な表情を浮かべた。

「もしかしたら良からぬ事を企む不審者かもしれないな。ちょっと見て来てくれ」

俺はジッとチイ先輩を見る。

「この世で一番偵察に向いている人が、ここに居るじゃないですか?」

「デリカシーの無い男だな。か弱い乙女を行かせる気か?」

「はい、はい。行けばいいんでしょ」

 俺は渋々扉の前に屈み込む。

そして音を立てないように数センチ扉をずらした。

その隙間からはポニーテールの後ろ姿が見える。

「ミユキは毎日早めに登校して自分の楽器を磨いているんだ」

「……人が悪いですよ」

上手いこと掌で踊らされ少し腹立たしい。

「実は中学が一緒でな。当時のミユキは本当にうざかった。毎日毎日『どうしたら上手くなれますか?』って聞いてくるもんだから鬱陶しいったらありゃしない」

嬉しそうに話す様子から、本当はどう思っていたのか伝わってくる。

「ミユキは純粋に音楽が好きなんだ。だからこそショウマへの風当たりがきつい所もあるんだろう。アタシとしてはお互い仲良くして欲しいけどな」

 丁寧に楽器を磨いた吉良先輩は、ゆっくりと楽器を置く。

「おい、変態。覗きとは良い趣味をしているな」

バレていたのか……

俺は肩を落としながら扉を開けた。

「すいません。悪気はなかったんです」

「はっ、どうだか」

吉良先輩は別のトロンボーンの箱を開けた。

「ちょっとこっちに来い」

俺が近寄ると吉良先輩はマウスピースを取り出し突きつけた。

「吹いてみろ」

「早朝の音出しは禁止だって……」

「馬鹿か。マウスピースの小さい音が外に聴こえるはずねえだろ」

 こうなってはやるしかない。

俺は夢の感覚を思い出しながら音階を吹いた。

「あの……どうでした?」

吉良先輩は横目で俺を睨む。

「なぁ、お前。未経験者だって嘘付いてないか?」

「いえ。マウスピースという単語も昨日初めて知ったくらいですから……」

「ちっ、面白くねえな。きちんと片付けておけよ」

感想を求める俺を置いて、吉良先輩は出ていった。


 クラスに戻り自分の席に腰を下ろす。

頭をからっぽにして窓越しの登校風景を見ていると、誰かが俺の横で立ち止まった。

「おい、睦月」

聞き覚えの無い男の声だ。

俺は座ったまま顔を見上げる。

いかにも運動部といった短髪に、よく日焼けした肌。

細身だが引き締まった体のコイツを俺は知っていた。

今朝登校中に目があった野球部員だ。

「何か用か?」

わざとぶっきらぼうに返事をする。

「俺は杉内ってんだ。その……お前に話があるんだが……」

「こっちには話なんて無い。あの事故は俺の実力不足が招いた結果だ。心配しなくてもちっとも恨んじゃいないさ」

歯切れの悪い杉内に謝られるのではないかと先手を打った。

もし頭を下げられても自分が惨めなだけだ。

「そうか。悪かったな」

それだけ言うと杉内は教室を出ていった。

最後の台詞は俺の手間を取らせた件に対してか。

それとも過去の事故に対してかは本人のみぞ知るところだろう。

険悪な雰囲気にクラス中の注目が集まる。

俺は机に突っ伏して授業のチャイムを待った。


 放課後になりチイ先輩は猫が背中を伸ばすように両手を突き出し大きく伸びをした。

「分かりきった授業を受けるのがこんなに退屈だとは思わなかった」

「ずっと寝てたくせに何我慢してたように言っているんですか」

授業が始まった途端に日当たりの良い場所で寝転んでいたのはどこの誰だ。

「日向ぼっこをしても暖かさは感じないが、気持ちは暖かくなるもんだ」

「幽霊あるあるですか、それ」

そんな事を言いながら部活に向かう。

「そうだ! 一回カヨに進歩の程を見て貰え」

突然の提案に俺は戸惑った。

「えっ。早くないですか? 昨日の今日ですよ?」

「ミユキの前で吹いたようにやけば問題無い。アタシが保証する」

 チイ先輩に押し切られ、内心乗り気ではないまま準備室に入る。

たまたまそこには同級生と談笑するカヨさんの姿があった。

割って入り辛い雰囲気にどうしようか迷ってしまう。

「あら睦月君。ちょっとは慣れた?」

カヨさんはこっちを見ると渡りに船の話題を振ってくれた。

「まぁ、ほんのちょっとですけど……ところで音階を見てもらっていいですか?」

「うん、いいよ吹いてみて」

 早々とマウスピースを準備すると、深呼吸で心を落ち着かせる。

「それでは行きます」

俺は唇に全神経を集中し、一音一音を丁寧に出していく。

今朝ピリピリした雰囲気の吉良先輩の前で吹いたおかげもあってか、リラックスして吹けたと思う。

 音階をやりきりマウスピースを口から離し、合否を聞こうとカヨさんの方を向いた。

「バッチリだよ、睦月君! 予想以上でビックリしちゃった!」

カヨさんは目を丸くして褒めてくれた。

「アタシが教えたんだから出来て当然だ」

チイ先輩も親指を立てた。

俺も背中越しに親指を立てる。

「それにしても昨日の感じと全然違うけど、誰かに教えて貰ったの?」

カヨさんの問い掛けに正直に答える訳にはいかない。

「えっ、えーと……少し自宅で練習したんです」

「ふーん、そかそか。やる気満々だねぇ」

 ホッとしたのもつかの間カヨさんはいそいそと楽器の箱を二つ並べた。

「ちょっと待っててね」

そう言うと二種類のトロンボーンを組み立てた。

二つの違いは明らかで、片方は見るからにシンプルな作り。

もう一方は幾重にも管が渦巻いていて、複雑な作りになっている。

どうして同じ楽器でこうも違うのかと疑問が湧いた。

「トロンボーンと言っても色々種類があってね。そしてこの学校にあるのはテナーとテナーバスの二つ。音の違いはないけれどオススメはテナーバスだよ」

カヨさんは複雑な方を指差した。

「一体どう違うんですか?」

カヨさんはテナーバスと呼んでいたトロンボーンを構えた。

「トロンボーンはスライドの伸び縮みと口で音程を合わす楽器なんだ。左手の親指の所にレバーが付いているでしょ?Fエフ管って名前だけど、これが有るか無いかが大きな違いね。とにかく百聞は一見にしかずよ」

するとスライドを目一杯伸ばして音を出した。

「次はこの音」

今度は全く伸ばさない位置でF管のレバーを倒し音を出す。

俺は2つの音がどう違うのか聴き比べた。

「んー……全く同じ音に聴こえました」

「大正解! 遠いポジションだとスライドの操作が難しくなったり、最悪手が届かない場合もあるから、F管のある方が演奏しやすと思うわ」

「ちなみにさっきのポジションが一番遠いんですか?」

「今のポジションは一番遠い第7ポジションの一個前の第6よ。第7はあんまし使わないけどね」

「と言うことはF管の無いテナーは手が短いと駄目なんですか?」

「要は届けばいいの。私はテナーの第7が届かないからどうするかというと……」

カヨさんはスライドの持ち手と、自分の指を紐で結んだ。

「ぴったり第7で止まる位置に紐を調整して、必要な時は手を離すの」

実際に手を離すとスライドは紐がピンッと張った位置で止まった。

「ね? これで届かなくても問題解決よ……ただし演奏するにはちょっとコツがいるけど」

「何か苦肉の策って感じですね」

「ふふっ。創意工夫と言って欲しいわね」

カヨさんは無邪気に笑った。

 俺は兄弟のように並んだトロンボーンを見つめる。

そしてテナーの方を手に取ってみた。

俺は見様見真似で構えるとスライドを目一杯に伸ばす。

スライドは予想以上に滑らかに伸び、勢い余って手から離れそうになった。

「カヨさん。第7ポジションってこれくらいですか?」

「うーん、もうちょっと先かな? 上半身を捻ってみて」

右肩を前に出す感じで上半身を捻る。

すると拳一つ分くらいスライドが伸びた。

「これが目一杯ですね」

「多分届いてると思うけど、一回吹いてみて」

 マウスピースに口を当て適当に吹く。

トロンボーンからまるで心を写したように、どこか自信無さ気な音が出た。

決して良い音ではない事は初心者の俺でも分かる。

しかし自分が出した音は新鮮で心が踊った。

「うん、大丈夫。だいたい音程も合ってるよ」

カヨさんとチイ先輩は同じタイミングで頷いた。

「すいません。テナーバスを勧めてもらっていて悪いですけど、このテナーを使いたいと思います」

「長い付き合いになるから自分の気に入った楽器を使うのが一番だよ」

カヨさんは良いように解釈してくれたが、テナーを選んだのには別の理由があった。

「ショウマの不器用アレルギーも相当だな」

気に入ったというよりF管のレバーに嫌悪感を抱いたのが理由だと、チイ先輩には見抜かれていた。

「さてと色々渡さなきゃね……」

カヨさんは黒い表紙のクリアファイルに何枚かの紙を入れていく。

「えーと、コレとコレと……」

「カヨー。悪いけど手伝ってー」

廊下から呼ぶ声がする。

「じゃあ、後は頑張ってね」

 クリアファイルを渡されると、何の説明も無しにカヨさんは行ってしまった。

一体これから何をどう頑張るのか?

軽い放心状態の俺はとりあえずクリアファイルを開いてみた。

中身は数枚の譜面だ。

最初のページには音符が階段状に並んでいて、音符の下に1から6の数字がランダムに書かれている。

「何だこりゃ?」

おそらく音階を表しているのだろうが、数字が何を表しているのか分からない。

「あれ? 楽器もらったの? 早いねー」

入って来たコマチに俺は希望の光を見出す。

「ちょうど良かった! 悪いけど基本を教えてくれないか? 途中でカヨさんが居なくなって困ってたんだ」

「うん、いいよー。まっかせなさい!」

張り切った様子でコマチは胸を叩いた。

 屋上の踊り場に俺とコマチは向かった。

椅子に座る俺の横で、コマチ腰に手を当てている。

「それでは始めますか」

「お願いします。コマチ先生」

「おっほん。それではまず……」

コマチはまんざらでもない顔でクリアファイルを開く。

音符が階段状に並び下にランダムな数字が書いてあるページだ。

「これは音階の表だね。音階には変ロ長調とハ長調の……」

「ストップ! ストップ!」

「ん?」

コマチは俺が止めた理由が全然分かっていないようだ。

「ごめん、コマチ。教えてもらって悪いんだけど、本気で音楽はさっぱり分からないんだ。言ってる事が呪文か暗号にしか聞こえないよ」

「あー、それなら細かい事は置いとこっか」

 コマチは譜面の一部を丸で囲んだ。

「1、6、4、3、1、4、2、1?」

俺は囲まれた数字を順に読む。

「これがトロンボーンのドレミファソラシドだよ。数字がポジションを表してるの。マウスピースの音階とスライドのポジションを合わせて音を出すの。とりあえず一回吹いてみるね」

コマチは一音一音づつ間を開けながら音階を吹く。

なるほど、大体の要領は分かった。

ポジションとはスライドの伸ばし具合の事なのか。

1が全く伸ばさくて、数字が上がるにつれ伸びていくって仕組だな。

 しかし腑に落ちない点もある。

それをコマチに投げかけた。

「当たり前だけどポジションって決まってるんだよな?」

「うん。少しでもズレると音が変わっちゃうよ」

「じゃあ目印も無いのに、どうやって正確なポジションが分かるんだ?」

「んー……」

コマチは首を傾げて斜め上を見つめる。

鳥のさえずりが聴こえるような、のどかな時間が流れた。

「感覚かな?」

どうやら上手く説明出来ないようだ。

「あ……そう」

「ま……まあ、最初はこの音階からやるといいよ」

俺はコマチに頭を下げる。

「コマチ先生、有難うございました。ぼちぼち練習してみるよ」

「うむ。また分からなくなったら聞きたまえ」

コマチは自分の練習に戻った。

 チイ先輩は嬉々として俺の顔を覗き込む。

「な! アタシの言う通りだろ?」

「何がですか! どこがですか! どうしてですか!」

俺はまくし立てるように言った。

「最初にトロンボーンは手先が不器用でも、楽譜が読めなくても出来るって説明したじゃないか」

「ぐっ……」

確かに嘘はついていない。

口とスライドの出し入れで音程を調整するトロンボーンに手先は関係ないからだ。

「でっ……でも譜面が読めないのは大問題じゃないですか!」

「音符がどうとか、記号がどうとか関係ない。これから同じ曲を何千何万回と反復練習する内に体が覚えるさ。おまけにポジションもたった7種類しかないんだぞ? リコーダーよりよっぽど少ないじゃないか」

要は体に叩き込むしか道は無いわけだ。

「やればいいんでしょ。やれば」

同じ台詞を出会った時にも言ったな。

 いいように煙に巻かれた気もするが、愚痴や文句を言っても始まらない。

俺は諦めて音階の練習を開始した。

チイ先輩がスライドの真横に立つ。

「最初はアタシがポジションを指示しよう。その方が分かり易い」

「はい、やってみます」

背筋を正してトロンボーンを構えた。


 チイ先輩とマンツーマンの練習が続いた。

相変わらずチイ先輩は音を出す度に指摘を繰り返している。

「短すぎる。全く違う音になっているぞ」

こんな調子がかれこれ一時間は続いていた。

「今度は1センチ長い」

マウスピースだけでも手こずったのに、楽器を付けた途端に難易度が跳ね上がった。

想像以上に茨の道は険しく、もう俺の心は折れかけていた。

「申し訳ないですけど、少しだけ休憩していいですか?」

「ちょっと熱が入り過ぎていたか。スマン、スマン」

 トロンボーンを音が立たないくらい慎重に置いた。

「……チイ先輩?」

俺はチイ先輩を見つめた。

「何だ?」

「……辞めてもいいですか?」

「ダメだ」

食い気味のタイミングで返答が来る。

「人間には得手不得手がありまして……」

「じゃあショウマは辞めて何をしたいんだ?」

自分で自分に問い掛けるも、これといって答えも出てこない。

「そりゃ俺も健全な男子ですから、女子とキャッキャしたいですよ」

「それならこの前ミユキとキャッキャしてたじゃないか?」

「……あれはキャッキャじゃなくて、ギャーギャーっていうんです」

 不毛なやり取りをしても仕方ない。

どの道チイ先輩が諦めてくれるはずはないのだ。

俺は再びトロンボーンを手にする。

とにかく問題なのはポジションが正解なのか分からない点だ。

厄介な事にズレていてもそれっぽい音が出てしまう。

今夜はその辺を重点的に覚えよう。

そんな事を考えながら練習を続けた。

チイ先輩もさっきは口を出しすぎたと反省したのか、細かい事は言わなくなった。

 しばらく練習していると、誰かがこっちに上がってくる足音がした。

「全体的にスライドを出しすぎだ。ベルの先端を目安にして距離感をしっかり掴め。そもそも適当に吹いてるからそうなるんだ。やる気がないなら今すぐ辞めろ」

厳しい指摘が飛んできた方を見ると、吉良先輩が腕組をして立っていた。

俺は一気に血の気が引くのを感じる。

吉良先輩はそんな俺の顔を見て不機嫌そうに言った。

「あ? 文句でもあんのか?」

「いえ……何も……」

吉良先輩はため息を一つ挟んだ。

「これから合奏だけど来なくていいぞ。下手くそは練習してろ」

俺は軽く頭を下げる。

「すいません。わざわざ言いに来てもらって」

「カヨさんに頼まれて仕方なく来ただけだ。そうじゃなかったら誰がお前の所なんか……」

やけに『仕方なく』を強調した吉良先輩は舌打ちを残して去った。

「はぁ」

チイ先輩は仲良くして欲しいと言ったが、俺と吉良先輩の関係は永遠に平行線を辿りそうだ。

 重い空気を引きずったまま練習を再開すると、音楽室から合奏の音が聴こえてきた。

しかしその波は直に収まる。

「おい、ユーフォ! 入りのタイミングが一瞬遅れたぞ! きちんと練習してんのか!」

沖浦先生の怒号が音楽室を飛び越えて、校舎全域に駆け巡った。

つられて俺まで体が強ばる。

「クラリネットの一年! 邪魔だ! 見学してろ!」

怒号は一年にも容赦無く降り注ぐ。

「あれ? 昨日今日入部した一年も合奏に参加するんですね」

「新入部員といっても、あえて強豪校を選ぶ連中だからな。それなりに演奏するだけなら出来て当たり前だ」

「ホルン! アクセントが弱い! もっとメリハリをつけろ!」

合奏にまさる迫力で怒鳴り声が続く。

「……しかしそれなりの演奏では沖浦先生は満足しない」

チイ先輩は遠い目をしている。

きっと思い出したくない過去でもあるのだろう。

今はどこか他人事に思えるが、いつか猛獣の檻に足を踏み入れる時が来るのは間違い無い。

戦々恐々の思いを抱きながら自主練習に取り組んだ。


 窓から射し込む光が夕焼け色に変わる頃に、階下からの音と怒号も止んだ。

もう少しで今日の練習も終わりだろう。

「うぃーす……」

フラついた足元でやって来たコマチは、疲労困憊といった様子だ。

「おう。合奏大変みたいだな」

「マジぱねえっす」

全く似合わないギャル語を言い放ち壁にもたれ掛かる。

「何か用事があったんじゃないのか?」

俺の問い掛けにコマチは虚ろな目で沈黙する。

「あ!」

いきなり大声をあげられ、俺は椅子から落ちそうになった。

「沖浦先生にショウマを呼んでこいって言われてたんだ! 早く、早く!」

突然手を掴まれ階段を駆け下りる。

女子と手を繋いで少し胸が締め付けられたのは秘密にしておこう。

 音楽室には一年だけが勢揃いで、軍隊よろしく直立不動で並んでいる。

だが肝心の沖浦先生は居ない。

とりあえず俺もコマチの横に並んだ。

沈黙の中しばらく待っていると、どこかで見覚えのある人が入って来た。

確かマウスピースのテスト前、カヨさんと親しげに話していた先輩だ。

 先輩は俺達に目もくれず、そのまま壇上に上がる。

「全員揃ったかしら?」

身長が高くモデルのような体型に、腰まで伸びた少し栗色がかった髪がよく似合っている。

思わず通りすがりの人が足を止めてしまいそうな顔つきは、彫りが深くハーフかクォーターなのかもしれない。

「副部長のいぬいレイカです。沖浦先生が急用で席を外しているので、私の方から説明します」

乾先輩は俺達を見回すと軽く会釈をした。

動作の一つ一つに品があり育ちの良さがにじみ出ている。

そのせいか別世界の住人みたいな近寄り難さも醸し出していた。

「新入部員の恒例行事として、七月上旬に開催される野球部の応援があります。応援曲は例年校歌のアレンジなので詳しくは各パートリーダーに聞いて下さい。くれぐれも吹奏楽部の代表として恥ずかしくない演奏をするように」

釘を刺した最後の一言で明らかに全体の雰囲気が変わった。

淡々とした物言いだが静かな迫力がある。

「もちろん七月下旬には地区大会が控えています。先輩後輩関係なく実力でレギュラーを決めるので頑張って下さい」

 要点だけを簡潔に説明すると乾先輩は早々に退室した。

扉が閉まった途端に、所々で止めていた息を吐き出す音がした。

「乾先輩ってすっごく美人だけど、ぶっちゃけ怖いよね」

コマチも俺と同意見のようだ。

「そもそも吹奏楽部の女性って、怖い人が多い気がするよ」

つい沖浦先生と吉良先輩が思い浮かぶ。

「女子の世界も修羅なのですよ」

世界で一番修羅とは縁のないコマチは偉そうに語った。


 三年一組に入るとカヨさんは真剣な表情で練習に没頭していた。

吉良先輩は俺と目が合うや苦虫を噛み潰した顔をする。

教室全体に流れた不穏な空気を察して、カヨさんはようやく俺に気付いた。

「ゴメン、ゴメン。校歌の譜面渡すの忘れてた」

受け取った譜面はさほど音符が多くないので難易度は低そうだ。

「そうだ睦月君。ちょっと譜面貸して」

 譜面を再びカヨさんに渡すと、次々に丸字でポジション番号を書いていった。

「有難うございます。助かりました」

「今度から自分でやってね。慣れたら番号を書かなくても分かるようになるよ。今回は初心者だからサービスって事で。曲はこんな感じだから」

カヨさんは譜面も見ずにサラッと校歌を演奏する。

俺は必死で音符を追った。

しかし途中でどこを吹いているのか分からなくなる所が何箇所かあった。

「心配しなくてもアタシが徹底的に仕込んでやるさ」

自信満々なチイ先輩がやけに心強く見えた。

 吹き終えたカヨさんは、トロンボーンから口を離す。

「まぁ、こんな感じだから。分かんなかったら聞きに来て」

「はい。何とかやってみます」

俺は頭を下げる。

「そろそろ今日は終わりにしようか。睦月君も片付けたら帰っていいよ」


 片付けを終えた俺は自分の教室に戻りジャージに着替える。

玄関を出るとグラウンドから野球部の掛け声が聞こえてきた。

「さあ、こぉーい!」

日の沈みかけた空に一際大きな声がこだまする。

「お? あれは杉内じゃないか?」

チイ先輩の指差す先には、人一倍泥まみれの部員がいた。

「……そうみたいですね」

杉内はがむしゃらにボールを追い掛けていた。

砂塵を巻き上げ飛びつくも一歩足らず、ボールは転々と後ろに逸れていく。

「もういっちょー!」

そして懲りずに起き上がり汚れたユニホームで汗を拭い、枯れかけた声を張り上げる。

その姿は懐かしくもあり、少しだけ羨ましくもあった。

「青春って感じだねー」

チイ先輩は俺の方を見ながら意見を求めてくる。

「最初の一歩が遅すぎるから捕れないんですよ。どこに飛ぶのか瞬時に判断すれば、あれくらいの打球は飛びつかなくても処理出来ます」

「野球に対しては手厳しいな」

「そんなチイ先輩も吹奏楽に対しては手厳しいじゃないですか」

こんな事を考えても仕方が無いのは百も承知だが、やはり野球部の応援は気が進まなかった。

心に潜むモヤモヤした物を振り払うように俺は走り出した。


 チイ先輩はすこぶる上機嫌で俺を出迎える。

「さあ! 楽しいレッスンの始まりだ!」

もう俺の夢と不思議な白い世界は直結しているようだ。

ベッドに潜り込み瞼を閉じた途端に飛ばされた気がする。

「はぁ……そうッスね」

半ばやけくそで返事をした。

目の前にはテナートロンボーンが二つ準備してあった。

本当に何でもありなんだなと関心する。

「あれ? チイ先輩もテナー使っていたんですか?」

「ショウマに合わしただけだよ。その方が教えやすい」

チイ先輩はトロンボーンを手に取るとおもむろに音階を奏でた。

 その音色は力強さに溢れていた。

まるで音が『私を聴け!』と主張しているようだ。

まさにチイ先輩らしい音だと納得してしまう。

「チイ先輩の音は迷いが無い真っ直ぐな感じがしますね。どうも俺が吹くとぼやけて曇った感じになるんですよ」

「タンギングを上手く使って音のメリハリをつけようか」

「タンギング?」

「前歯に舌を当てて音に区切りをつけるんだ。でもただ当てればいいわけでも無い。強弱や場所によって色んな表現が可能になる」

俺は前歯の裏に舌を当てる。

「もう舌がつりそうですよ」

「言葉で『トゥ』と言うと自然とタンギングの動きになるから、最初はそこを意識すればいい」

確かに『トゥ』を意識すると軽く前歯に当たるのが実感出来た。

 試しにタンギングを使って音階を吹いてみる。

すると前よりも小気味良い感じになった。

「とにかくショウマには基礎を中心にやってもらう。その合間に校歌の練習だな。校歌が十分に出来るようになったら、大会の自由曲と課題曲に取り掛かる」

「えっ? 大会って二曲も演奏するんですか?」

「そういえば説明してなかったな。自由曲は学校毎に自由に決められる曲だ。これが最初に聴いた『トッカータとフーガニ短調』だ。そして課題曲といって限りある選択肢から選ぶ物もある。カヨから貰ったファイルに『春の道を歩こう』っていうのがあっただろ?」

俺は黒いファイルにあった譜面を思い浮かべる。

「あったような、無かったような……」

「まあ、その二曲を大会で演奏するんだ。ちなみに合わせて十二分の制限時間もあるぞ。超過すると問答無用で失格だ」

「失格って厳しいですね。減点とかじゃないんですね」

「そんなに制限時間の事は気にしないでいい。そこらへんは沖浦先生がしっかり指揮してくれるさ」

基礎に、校歌に、課題曲に、自由曲……

闇雲にやるよりは目標が明確になり多少やる気も出てきた。

「分かりました。指導お願いします」

「任せておけ。アタシの全てを伝授してやろう。耐え抜いたら一人前になっているさ」

チイ先輩の不敵な笑みに鳥肌が立った。


 現実時間に換算すると、どれほどの時間だろうか?

吹くのを辞めてもトロンボーンの耳鳴りがしていた。

「何か昨日より長くないですか?」

自分の物差しが狂っているのかチイ先輩に確認する。

「そうだな。昨日の十倍はやってんじゃないか?」

「やっぱり……」

チイ先輩の見解を聞いて、軽い目眩が押し寄せた。

「おかげでポジションは安定してきた。そろそろ校歌にとりかかろう」

俺は上目遣いでチイ先輩に視線を送る。

「それでは区切りもいいので、今日はこの辺に……」

「おいおい、これからがいい所なんだぞ?」

やっぱりこの人には言うだけ無断だ。

 チイ先輩はトロンボーンを構える。

「アタシが先行して演奏するから付いてこい」

「え? 譜面もないのにどうやって……」

チイ先輩は真顔で言った。

「それは譜面が読めるヤツが言う台詞だ」

「確かにそうですけど」

「アタシも昔は読めなかったが、何とかなるもんだぞ?」

「チイ先輩にもそんな時期があったんですね」

「父親の趣味がジャズ演奏で家にトロンボーンがあったんだ。それで耳コピばかりで色んな曲を吹いている内に、それが当たり前になってしまってな」

てっきり譜面が苦手とか可愛らしい理由を予想していたが、全く別次元の答えだった。

 俺も不本意そうな空気を出しながらトロンボーンを構える。

しかし内心はそう悪くない気分だった。

音楽を奏でる新鮮味や、単純な上達の喜びが、苦手意識を払拭しているのだろう。

そんな心境の変化を見抜いているかはさておき、チイ先輩が歩み始める。

俺は足をバタつかせながら、必死で後を追った。


     4


 トロンボーンを手に取ってからもう一週間になる。

チイ先輩のレッスンは毎晩欠かさず行われ、まさに文字通り寝ても覚めても音楽漬けの日々を送っていた。

そんないつもと代わり映えの無い放課後。

ケースから楽器を出していると、珍しく沖浦先生が準備室に入って来た。

誰かを探している様子だったが、俺を見るや真っ直ぐに向かって来る。

「睦月。どうだ少しは慣れたか?」

「はい。まだ戸惑う事ばかりですけど」

「西本が上達が早いと関心していたぞ」

「そんなの買いかぶりすぎです」

 雑談を交わすと沖浦先生は近くの椅子に足を組んで座った。

「で、どれくらい出来るんだ?」

「校歌なら一応最後までやれますけど、自由曲と課題曲はさわりだけです」

「そうか。今日は一年だけで校歌の仕上がり具合を確認するから、用意して音楽室に来い」

沖浦先生はさっさと準備室を出て行った。

「ついにお披露目だな。一丁前に緊張なんてしなくていいぞ。誰も期待していないから」

わざわざそんな事をチイ先輩に言われなくても自覚している。

「たっぷり絞られて来ますよ」

沖浦先生の怒号が脳内で鮮明に再生された。

 準備を済ませ音楽室に一歩踏み入れようとして足が止まる。

それ程に空気は張り詰めていた。

「ショウマ。こっちこっち」

小声でコマチは俺を手招きした。

「いつもこんな雰囲気なのか?」

俺はコマチの横に着席する。

「こんな雰囲気って?」

「やけに重苦しい気がするんだけど」

「皆遊びでやってるんじゃないから仕方ないよ」

コマチの笑顔にはどこか含みがあった。

一見ほんわかしてる彼女も、そっち側の人間なのだ。

 俺が譜面を広げると同時に沖浦先生が入室する。

「全員揃っているか?」

そして一人一人の顔を見渡す。

不意に沖浦先生と目が合い、つい背筋が伸びた。

「時間が無いからさっさと始めるぞ」

壇上に上がった沖浦先生を注視する。

ゆっくり動き出す指揮棒が開始の合図を告げた。

 心拍数が一気に跳ね上がる。

荒れ狂う音の渦に巻き込まれ、俺の船は瞬く間に転覆した。

溺れないように足掻いても、自分の音なんてさっぱり聴こえない。

ここまで来て焦っても仕方ない。

せめて全力を尽くそう。

気を取り直して挑むも、微力な音は渦に吸収されてしまう。

途中でコマチの音が存在感を増した。

きっと不甲斐ない俺をカバーしてくれているのだろう。

 とりあえず最後まで吹けたが、改めて自分の無力さを痛感する結果に終わった。

「全体的に屋外で吹く意識が足りていない。それではボリューム不足で選手まで届かんぞ。それに睦月……」

「はい!」

どんなに厳しい言葉も受け止めよう。

自分の立ち位置を知るのも、成長には大切な事だ。

「レベルが低すぎて話にならん。全てが及第点に達していないのは自覚しているだろうが、しっかり指揮者を見る癖をつけろ。分かったな?」

 返事をする前に再び指揮棒が動き出す。

今度は指摘された通り指揮者に意識を集中した。

なるほど、沖浦先生が伝えたい事はコレだったのか。

今まで指揮者というのはただ曲の速さやテンポを調整しているだけの役割と思っていた。

だがそんな単純な事ではない。

体全体の動きで大きな曲の流れを導いていたんだ。

同じ轍をを踏むわけにはいかない。

俺はとにかく大きな音を出した。

 演奏が終わり沖浦先生は指揮棒を下ろす。

「今年はやる気のない奴ばかりでハズレ年だな。今のお前らの中で大会に出れる奴は一人も居ない。たとえ人手不足のパートでも容赦なく外すからな」

重い空気が全体を包むなか、沖浦先生は退室した。

 沈黙のまま片付けが始まるとコマチが話し掛けてきた。

「なんか見透かされちゃった気がするよ」

「どういう意味だ?」

俺は椅子を抱えたまま聞き返す。

「実はたかが野球部の応援って気持ちで吹いてたんだ。自分達の大会だから真剣に吹く、他人の応援だから手を抜く。そんな事で良い演奏は出来ないよね……」

「そうか? 肝心なのは大会だからそこに力を注ぐのは仕方無いだろ」

「ショウマは手を抜いてた?」

俺は胸を張って言った。

「そもそも手抜きする余裕がない。偉そうに言っても全力を尽くして散々な結果だから、余計に目も当てられないけどな」

「きっと沖浦先生がショウマにだけアドバイスしたのは真剣に取り組んでるのがショウマだけだったからだよ」

「考え過ぎだろ。きっと酷すぎて見てられなかっただけじゃないのか?」

「んー。そっかなー……」

コマチは珍しく落ち込んだ様子で俺のそばから離れた。


 音楽室を出ると、やけに廊下が喧騒としている。

少し先には黒山の人だかりが出来ていた。

「二人共やめなさい!」

奥から仲裁する乾先輩の声がした。

「副部長は黙ってて下さい!」

しかも吉良先輩が一枚噛んでるようだ。

「おい! ショウマ!」

「分かってますって!」

チイ先輩に急かされ、俺は人混みをかき分けて現場に向かった。

 中心では吉良先輩が橘先輩と向かい合って、一触即発の様相を呈している。

「橘! テメェが悪いんだろうが!」

吉良先輩が橘先輩の胸ぐらを掴んだ。

「私だってあんな事になるなんて思わなかった!」

橘先輩も涙目になりながら掴み返す。

「お前のせいでチイ先輩は……」

吉良先輩は今にも殴りかからんとしている。

とにかく暴力沙汰は不味い。

俺は無理矢理二人の間に体をねじ込んだ。

「やめて下さい二人共!」

吉良先輩は結構な力で俺の肩を掴む。

「関係ないヤツは引っ込んでろ!」

「どきません! 問題起こしたら出場停止になりますよ!」

「……くそっ!」

吉良先輩は思いっきり壁を蹴るとどこかに行ってしまった。

橘先輩もうつむいたまま走り去った。

「ありがとう、睦月君。助かったわ」

乾先輩も胸を撫で下ろしたようだ。

「一体何があったんですか?」

「私が来た時はもうあんな状態だったから詳しくは知らないけれど、些細な言い合いがエスカレートしたらしいの」

「」



 乾先輩が野次馬を解散させ騒ぎも落ち着いた。

俺は吉良先輩の言葉がどうにも引っ掛かっていた。

前にチイ先輩が言っていた先月の事故と、橘先輩は関係しているのだろうか?

ネズミの回し車みたいに余計な考えがグルグル回る。

しかし結論の出ない事で悩んでも仕方無い。

もやもやした物を胸の内にしまい込み屋上に向かった。

 階段を上がる途中で人の気配を感じた。

またコマチでも来ているのだろうか?

そう思い屋上を覗き込むと吉良先輩がハンカチを顔全体に被せて座っていた。

「どうしたんですか?」

一瞬声をかけていいものか迷ったが、ここに居るという事は俺が来ると分かっている筈だ。

「反省しているんだ。睦月の言う通り軽率な行動だった」

口元のハンカチが上下する。

「十分に反省して下さい。止める方も怖かったんですから。こっちが殴られるかと思いましたよ」

「よく分かったな? さすがに女を叩くわけにはいかないから、腹いせに睦月を殴ろうと思ってたんだ」

「顔は止めて下さいよ。彼女を探す為に部活してるんですから」

「心配するな。多少顔が腫れた方が男前になるぞ」

抑揚のない声に現実味が増す。

「ところで吉良先輩?」

「何だ?」

「やっと名前で呼んでくれましたね」

テンポよく話していた吉良先輩が停止する。

「ふん。この一週間観察して、人畜無害なただのバカだと分かったからな」

こうして普通に話してみると意外と好感が持てた。

男勝りな性格が気を使わないでいいからだろう。

「良ければ何があったのか教えてくれませんか?」

 吉良先輩はハンカチを取った。

「トランペットのヤツから橘が地区大会に出るつもりが無いらしいと聞いたんだ。それで問いただす内にイライラしてつい……な」

「喧嘩っ早過ぎですよ、全く」

呆れる俺に吉良先輩はバツが悪そうにしている。

「チイ先輩は全国大会に行きたいって口癖みたいに言ってたんだ。私は世話になった後輩として代わりに夢を叶えてあげたい。不本意だがその為には橘の力が必要なんだ」

吉良先輩が本当にチイ先輩を慕っている事はよく分かった。

それゆえに行き過ぎた行動をとってしまったのだろう。

「さてと、油を売っている暇もないし戻るとするか。悪かったな、この前は教室から追い出すような真似をして」

「住めば都ですかね。何だか居心地が良くなったんで個人練習はここでします」

それに人目につかない方がチイ先輩と話もしやすい。

「そうか。好きにしてくれ」

 吉良先輩が戻り俺は練習を始めた。

「アタシに聞きたい事があるんじゃないのか?」

チイ先輩が真横に立つ。

「バレてましたか」

「音がブレていたからな」

「なんか超能力者みたいですね」

俺は思い切って疑問をぶつける事にした。

「橘先輩はチイ先輩の事故と関係があるんですか?」

直球の質問にチイ先輩は困惑した顔で前髪をかき上げる。

「確かに関係はある。しかし橘には何の罪も無い。事故に合う寸前の橘をアタシが庇ったんだ」

おそらくチイ先輩の説明は大事な部分を端折っている。

気になるがこの先は踏み込んではいけない気がした。

「変な事聞いてすいません」

俺は気持ちを切り替えて練習を再開する。

普段は何かとアドバイスしてくるチイ先輩も、別の事を考えているのか口を閉ざしたままだった。


 小一時間経ち少し休もうと楽器を下ろすと、それまで何も言わなかったチイ先輩が不意に口を開いた。

「橘は入部してすぐ頭角を現し、花形ポジションであるトランペットのソロに抜擢されてな。実力から考えると妥当だが、同じパートだった前部長は納得出来なかった」

「どこでも似たような事はよくあるじゃないですか。陸上みたいに記録がはっきりと出る競技ならまだしも、音楽はその辺曖昧ですし」

「そこで前部長は全部員による多数決を提案したんだ。沖浦先生も事が収まるならと承諾した。実力からいって橘が選ばれるのは、火を見るよりも明らかだったからな」

「……自分から提案したって事は、どこかに勝算があったんですね」

「ショウマの予想通り前部長は裏で手を回してめでたくソロを勝ち取った。橘はそんな吹奏楽部に嫌気が差し、距離をとるようになったんだ。それから一度足りとも合奏に参加しなくなった」

「それが合奏に参加しない理由ですか」

チイ先輩は天を仰ぐ。

「何とかしようと、アタシも繰り返し説得をしていたんだ。しかし今年の新入部員が入る前の三月頃、退部したいとアタシに言った。前部長の行為に加担した部員が多く残る中で音楽をしたくないという理由だった」

チイ先輩は深く息を吐き出すと再び語り始めた。

「本心を知りたかったアタシは、本当に辞めたいのかと問い詰めた。すると橘は逃げるように走り出した。そして追いかけるアタシを振り切ろうと、校門の外に出た時、たまたま車が通りかかって……という経緯なわけだ」

俺は頭の中で順を追って状況を整理してみる。

しかし様々な角度から考えても行き着くのは一つの結論だった。

「それって橘先輩は悪くないですよね?」

「もちろんだ。むしろ悪いのはアタシも含めた全員だよ。強制されたとはいえ加担した連中も、反対しても前部長を止められなかった連中も同罪だ」

 いつも真っ直ぐで前向きなチイ先輩の、寂しげな表情に胸を締め付けられる。

そんな姿にいても立ってもいられなくなった。

「ちょっと橘先輩の所に行ってきます」

「何だいきなり……っておい!」

俺は二段飛ばしで階段を駆け下り、トランペットパートの練習場所へと急いだ。

すると途中でトランペットパートの一年を見つけた。

「なあ、橘先輩いる?」

余り面識のない俺の問い掛けに女子部員は戸惑った表情を見せた。

「えっ、ああ、橘先輩なら中庭に居ると思うけど……」

「そっか。ありがとう」

俺は再び中庭目指して走り出す。


 昼休みには人で溢れかえる中庭も、放課後は静まり返っていた。

俺は橘先輩の姿を探し歩く。

すると一際大きな木の下に人影があった。

近付くとその人影は、空の向こう側を見ながら座っている橘先輩だった。

どこか儚くも物憂げな表情が、不思議と絵になっていた。

「橘先……」

声を掛けるのと同時に橘先輩は楽器を構える。

 言葉にするのは難しいが、圧倒的という表現が一番近いと思う。

でたらめなフレーズのウォーミングアップに意識を持って行かれる。

全てが高い次元のシンプルな音が耳から伝わり、心を鷲掴みにして離さない。

永遠に聴いていたい麻薬性すらありそうな音色には、人を支配する力があった。

もしかしたら前部長は橘先輩が怖かったのだろうか?

突如降り注いだ天災に恐怖し、為す術もなく強引な手段に走った。

なぜかそんな気がした。

 橘先輩はゆっくりと口元からトランペットを離す。

「……何?」

楽器に反射した光が目に飛び込み、呆然としていた俺は我に返った。

「橘先輩にお願いがあって来ました」

「どんな?」

「大会に出て下さい」

「嫌」

キッパリ言い切られ取り付く島もない。

「大会に出ないのに吹奏楽部に残るのは何故ですか? チイ先輩への罪滅ぼしですか?」

橘先輩は突然不躾な質問をした俺を座ったまま見上げる。

少し離れた所でチイ先輩は成り行きを見守っていた。

「誰から聞いたのかは知らないけど、事故にあったのは私のせいよ。だから後ろ指をさされても、チイ先輩の希望通り吹奏楽に残っているの」

もっと怒るかと思っていたが、意外にも橘先輩は冷静だ。

「橘先輩は嘘つきですね」

「……どういう意味?」

俺の一言で明らかに不穏な空気が流れる。

「チイ先輩をダシにしないで下さい」

「分かったような口聞かないで」

普段のか細い声に怒りが混じる。

「本当に辞めたいんなら前部長の件があった時点で即決していますよ」

「ほっといて」

 橘先輩は立ち上がり、俺の反対方向に歩き出す。

俺は声を張って話し続けた。

「それでも続けるのは、吹奏楽が好きだからじゃないんですか!」

振り返った橘先輩の顔色が怒りに染まっていた。

「アンタなんかに――」

「橘先輩の気持ちなんて分かりませんよ! でも大切な物を失った気持ちは誰よりも知っています!」

まだ橘先輩に止まる様子は無い。

「チイ先輩は橘先輩の事を後悔していました! でも俺はそれが間違っていなかったと証明したいんです!」

 ようやく橘先輩は立ち止まった。

俺は少しの間その後ろ姿を見つめる。

「本当に無茶苦茶ね……アンタも……チイ先輩も……」

橘先輩は振り返ると、目をつむり息を吐いた。

「私には睦月君が理解出来ないわ。別に吹奏楽が好きとか、特別な思い入れがあるとかじゃないでしょ? どうしてそんなに食い下がるの?」

感情の高ぶりを息と共に吐き出したのか、橘先輩は落ち着いた様子だ。

「チイ先輩を全国大会に連れて行くと約束したからです」

真実とはいえ馬鹿な事を言ってると自覚している。

しかし嘘で取り繕うより、誠実な気持ちでぶつかりたかった。

「全国大会って……それ本気で言ってるの?」

「自分でも頭がおかしいと思いますけど……本気です」

 呆れ顔の橘先輩は太い幹の木を見上げた。

「本当にチイ先輩は性格悪いよね。居なくなってからも私を縛り付けるんだから。まるで呪いみたい」

「分かります。俺も呪われていますから」

俺と橘先輩は同じタイミングで吹き出した。

すると笑っている橘先輩から突然涙がこぼれた。

「あれ? おかしいな……何で……」

うろたえる橘先輩にチイ先輩が寄り添った。

「ごめん。もっと色々話し合えば良かったな。どうやらアタシも自分の気持ちを押し付け過ぎてたようだ……ごめん……」

チイ先輩は橘先輩をそっと抱きしめながら何度も謝った。


 しばらくして橘先輩は顔を上げた。

前髪の隙間から真っ赤な瞳がチラリと覗く。

「睦月君は嘘つきだね」

ついさっき自分が言った覚えがある台詞をそのまんま返される。

「どういう意味ですか?」

質問は同じだが立場が逆になってしまった。

「チイ先輩から私の事を何も聞いてないって言ったくせに」

真っ当な指摘に自身の思慮の浅さを思い知る。

「あー……あの時は忘れてたというか何というか……」

どうにも場を切り抜けるいい訳が見つからず俺は戸惑った。

「それと怒らせて本音を探ろうなんて最低ね」

言葉とは裏腹に橘先輩は笑みを浮かべている。

「すいません。もう致しません」

 橘先輩はスッと立ち上がる。

「さてと。そろそろ合奏の時間ね」

「え?」

「今まで皆にも迷惑かけたもの。挽回しないと」

これが女心と秋の空というのだろうか。

突然の心変わりについて行けず俺は立ち尽くす。

橘先輩は穏やかな表情をしていた。

身にまとっていた人を寄せ付けない雰囲気はもう無い。

去って行く軽やかな後ろ姿は、どこか吹っ切れたようだった。

チイ先輩は感慨深い様子で俺の横に立つ。

「ありがとう。橘を救ってくれて」

「救うだなんて大袈裟ですよ。言いたい事言って、たまたま良い方向に転がっただけですよ」

「それとアタシも救ってくれてありがとう……かな」

「何ですかそれ」

俺は照れくさくなり言葉をはぐらかした。


 いつものように合奏が終わりコマチは屋上に現れる。

最近は他愛のない話をしてから個人練習に戻るのが、コマチの習慣になっていた。

「今日さ、橘先輩が来てビックリしちゃったよ!」

「あぁ、知ってる」

興奮気味のコマチは続ける。

「えげつないねー! 橘先輩は! 格の違いってのを突きつけられたよ!」

「えげつないって褒めてんのかよ……」

「そりゃ最上級に褒めてますとも。凄い人とは聞いてたけど本当だったんだね」

コマチは大袈裟に数回頷いた。

「それで他の先輩達はどんな反応だったんだ?」

他人事とはいえ参加するよう仕向けた本人としては、周りの反応は気になった。

「最初は全員ギクシャクしてたけど、一回音を合わしたら直ぐに溶け込んだよ」

「それは良かった」

 胸を撫で下ろした俺をコマチは興味津々な顔で見つめる。

「物珍しく見てるけど、俺はパンダじゃないぞ?」

「橘先輩が言ってたんだ。生意気な後輩のお陰で気持ちの整理がついたって」

「誰かは知らないが生意気な後輩も良い事するじゃないか。そいつは相当な男前に違いない」

俺は大きく頷いた。

「きっとそういう態度が生意気に見えるんだよ。黙ってたら美談で終わるのに」

「自分に嘘はつきたくないんだ」

「もう!」

こりない態度にコマチは頬を膨らませた。

 

     5


 窓を壊さんばかりに叩きつけられる雨音が、梅雨の到来を告げている。

「なかなかの荒れ具合だな」

トロンボーンを組み立てる俺の側で、チイ先輩は空模様を観察していた。

「まるで俺の心境をそっくりそのまま表してるようですよ」

俺もため息混じりに外を確認する。

木が今にも折れそうな様子で弓なりにしなっていた。

「いつか来る日が来ただけじゃないか」

「そりゃ、そうですけど……」

先日カヨさんから合奏に参加するよう告げられた。

校歌の合奏とはまた違った重圧が肩にのしかかる。

 胃が痛くなりながら音楽室に向かう途中で、橘先輩とすれ違う。

「確か今日が初めての合奏だったかしら?」

「そうです。迷惑かけると思いますが……」

「心配しなくても大丈夫だよ。迷惑はかからないから」

「え?」

「すぐに分かるよ」

橘先輩は意味不明な台詞を残して去っていった。

 いつもより重たく感じる音楽室の扉を開ける。

中では沖浦先生が大股で歩きながら、部員達を指導していた。

欠点を簡潔に指摘して、解決策を的確に指示する。

間違いなく指導者としては優秀なのだが、荒っぽい言い方が玉にキズだ。

「おやおや? いい顔してるねぇ」

コマチはやけに嬉しそうだ。

「悲壮感が顔にじみ出てたかな」

俺は横に座ると、注意書きだらけのカラフルな譜面を広げる。

 そして合奏前の音合わせが始まった。

俺は慎重に音を出す。

「ダメだ! ダメだ!」

沖浦先生は壇上から降りて、わざわざ俺の前で立ち止まった。

「睦月、真っ直ぐ吹け。そんな波打った音ではチューニングにならん」

「はい。すいません」

自分なりには気を付けて吹いたが、まだまだという事だろう。

「もう一回だ」

俺は再度意識して音を出す。

しかしまた直ぐに音合わせは中断する。

「睦月、邪魔にしかならんから吹くな」

「……はい」

 短い初舞台だった。

はっきりと戦力外通告を言い渡される。

最初から合奏に参加出来ないと分かっていて、橘先輩は心配ないと言ったのか。

確かに何もしない人間は迷惑のかけようもない。

「ただ動きの確認は怠るなよ。いいか、全ては勉強だ。お前に落ち込んでる暇なんて一秒たりともないんだぞ」

俺を置いて合奏は始まった。

確かに今は沖浦先生の言葉通りヘコんでいる場合じゃない。

この機会を少しでも活かすために、必死で指揮と譜面を睨みながらスライドを動かした。

 そうして外が暗くなるまで何度も合奏は繰り返された。

沖浦先生は横目で時計を確認する。

「最後に課題曲と自由曲を通しでやって終わりだ。睦月、参加しろ」

俺の返事を待たずに指揮棒を振り上げる。

心の準備もそこそこに慌てて楽器を構えた。

……ダメだ。

ダメだ、ダメだ、ダメだ。

これまでパート練習や音源を使って、合奏に向けての準備はしたつもりだった。

しかし蓋を開けてみると、いかに『つもり』にだったか思い知らされる。

最低限として譜面通りには吹けたと思う。

そんな事より問題はもっと根本的な所にある気がした。

 結局初めての合奏はただ苦い経験しか残らなかった。

「各自課題をクリアしろ。このままじゃ全国どころか地区大会で終わりだ」

沖浦先生は厳しい言葉を残して音楽室を出た。


 昨日あった合奏の反省が頭から離れない。

今日は自分と経験者の違いを探そうと、教室で練習する事にした。

しかし解決策は見当たらず、苛立ちと焦りばかりが募っていった。

「睦月君。ちょっと休憩したら?」

そんな雰囲気を察してかカヨさんが声を掛けてくる。

「……少し休憩してきます」

 俺は無意識の内に吹奏楽部の練習が聴こえない場所を探していた。

そうして日の当たらない校舎の裏手に逃げ込んだ。

ここなら静かで落ち着ける。

「らしくないな」

チイ先輩の言いたい事は分かる。

「こんな短期間で結果を出そうなんて虫のいい話とは思うんですけどね」

それでも結果を出せない自分が腹立たしかった。

「そりゃそうだろ」

チイ先輩は友人と挨拶するように軽く応える。

「分からないんですよ。自分の何が悪いのか」

「確かに課題は山ほどあるが、何が一番問題だと思ってるんだ?」

「音……ですね」

 俺は壁に手を付き、まだらに雑草の生えた地面を見る。

シンプルなのに何故か出来ない。

それがまた苛立ちを煽らせた。

良い音を出すのに必要なのは、息の入れ方と唇の振動具合が肝になる。

ただそれだけなのに俺の音は先輩達とは明らかに違う。

音そのものにハリがなく、地に足が着いてない感じがする。

もちろん至らない所はまだまだある。

スライドの動きや、タンギングの技術も向上が必要だ。

しかし音に関しては練習を重ねても改善するとは到底思えなかった。

 チイ先輩も頭を抱える。

「音の悩みは難しいな……」

「珍しいですね。チイ先輩がそんな顔するなんて」

「ほら、アタシって超絶天才だからその手の悩みは専門外なんだよ」

「……はぁ」

俺は適当な相槌を打つ。

「そうだ! うってつけのヤツが居るじゃないか!」

「誰ですかそれ?」

「ミユキだよ、ミユキ! アイツもショウマと同じ悩みを抱えていたからな」

「……断固拒否します」

「虎穴に入らずんば虎子を得ずだ!」

 チイ先輩におされ、俺は否応なしに教室へ連れて行かれた。

「あの……吉良先輩。ちょっといいですか」

練習中だった吉良先輩は目玉だけ動かして俺を見る。

「何だ」

声のトーンからご機嫌斜めらしい。

「どうしたら良い音が出るんですか?」

今度は呆れきった様子で俺を見る。

「お前は馬鹿か」

「ですよねー……」

「しょうもない事で悩んでる暇があったら練習しろ」

「仰るとおりです」

やっぱりこうなると思った。

「むしろ良い音の出し方なんてあったら私が知りたいわ」

「いやぁ、吉良先輩なら何か良い助言があるかなー……て思ったんですけど」

「助言って言われてもなぁ。目標にしている人の真似をするとか……」

「あっ。だから吉良先輩の音はチイ先輩に似てるんですね」

「何で睦月にそんな事が分かるんだ?」

吉良先輩の素朴な疑問に言葉が詰まる。

「昔聴いたチイ先輩の音が耳に残ってたんですよ。ハハッ……」

俺は乾いた笑いを残して席に着いた。

 練習を再開すると直ぐにカヨさんが近付いてきた。

「つまるところ音楽はテクニックだと思うんだ。感情を込めろとか言う人もたくさん居るけど、そんなんで上手く吹けたら練習なんていらないよね」

どうやら吉良先輩とのやりとりを聞かれていたようだ。

「カヨさんから現実的な意見が出るなんて意外ですよ。逆にもっと心を込めてとか言われると思いました」

「こう見えて私はリアリストなのだよ」

カヨさんは片方の眉毛をクイッと上げた。

「それなら良い音を出すテクニックがあるんですか?」

「そもそも睦月君にとっての良い音とはどんな音だい?」

質問を質問で返されて少し考える。

「そうですね……橘先輩みたいな心の琴線に触れるような音だと思います」

カヨさんは首を横に振る。

「トロンボーンはハーモニーの楽器だと思うんだ。そんな自己主張の強い音は逆に扱いにくいよ」

「そういう物ですかねぇ……」

「もちろん答えは人それぞれだし、睦月君を否定なんてしないよ。あくまで私は楽曲全体のバランスが取れる音が良いと思うだけ。最後のパズルピースがはまるような、ね」

「そういう考えは全く無かったですよ」

カヨさんの言う事も一理ある。

自分の視野がいかに狭かったか気付かされた。

「ゴールが見えないのに練習しても方向性が分からないから、自分の理想をハッキリさせる事だね。でも悩んで見えないならとにかく走るのも大事だよ。道は一本しかないんだから」

「分かりました。頑張ってみます」

 不意にカヨさんは俺の両肩を掴んだ。

「でも睦月君が悩んでいるなんて正直意外だな。成長速度で考えたら間違いなく天才の部類に入るのに」

「やめて下さいよ。天才だったらもっと上手く吹いてますよ」

「睦月の変な所はそこなんだよ。一見とても才能があるとは思えないんだよな……」

吉良先輩が会話に入ってきた。

「ミユキも感じてたんだ。睦月君ってどこか違和感があるんだよね……」

カヨさんと吉良先輩は互いに言葉を探して黙り込んだ。

 そしてカヨさんはパンっと手を叩く。

「分かった! 才能がある子って階段を一足飛びで進むけど、睦月君にはそれが無いんだ!」

「あー、そんな感じです。睦月は一段一段不器用に這い上がってるんですよね」

褒められてるのか、けなされているのか複雑な心境だ。

「でも、悩むって事は君が一生懸命な証拠だよ。私はそれが嬉しいな」

「そうですか? 何の役にも立ってないですけど」

カヨさんは数回首を振る。

「蝶が羽ばたいて竜巻が起こるバタフライ効果というと大袈裟だけど、自分の思いもよらぬ所で影響を及ぼす事も世の中あるものだよ」

「はぁ」

カヨさんの台詞には根拠があるのかもしれないが、思い当たる節は皆無だった。


 夢の世界なのに体が重たいのは気のせいだろうか。

仰向けに倒れたまま、真っ白な空をボンヤリと眺める。

いっそこのまま楽になりたいと目を閉じた。

体が溶けて地面と一体になるような感覚に陥る。

「いや。そんなんじゃダメだ」

俺は自分で自分を奮い立たせた。

「少しは答えを掴めたか?」

チイ先輩に率直な意見を伝える。

「まだ全然見えてきません。改めて練習あるのみですかね」

「一番大事な事を再確認出来たじゃないか」

 雑談もそこそこに練習を始める。

いつもは横から口を出すチイ先輩がやけに静かだ。

「黙ってて気持ち悪いですよ」

「相変わらずよく頑張るなーって思ってな」

「相変わらずじゃないですよ。俺も少しは変わってます」

「ほうほう。どの辺が?」

「昔は自分が後悔したくない一心でした。でも今は……何でもないです忘れて下さい」

「なんだよー、もったいつけんなよー」

チイ先輩を全国大会に連れて行く為です。

その台詞を口にする資格はまだ遠い。


      6


 梅雨が開けた七月初旬はうだるような暑さが続いていた。

そんな中、俺は連日連夜の特訓のお陰で合奏に参加出来るようにはなっていた。

とは言うもの相変わらず沖浦先生に怒鳴られてばかりの現状から考えて、まだまだ満足なレベルに達してはいないのだろう……

 練習しているいつもの教室も例に漏れず熱気が包み込んでいた。

既に窓は全開だが気休めにもならない。

「おい! 睦月! 暑いから何とかしろ!」

不機嫌マックスの吉良先輩が無理難題をふっかける。

野球部の応援と地区大会が近い事もあり、俺も教室で練習するようにしていた。

カヨさん曰く『一緒の時間を共有する事で絆が強くなる』そうだ。

自分でリアリストとか言いいながら、絆とか持ち出すカヨさんはやはり掴み所が無い。

「聞こえてんのか! この野郎!」

「大声出さなくても聞こえてます! 暑いからって当たり散らさないで下さいよ!」

喚き散らす吉良先輩を見て目が点になる。

豪快に両足を机に放り上げ、胸元を大きくはだかせながら下敷きで扇いでいた。

「ちょっと、ミユキ……はしたない格好しないでよ」

カヨさんが引きつった声で訴える。

「ちぇ。だから男が居ると面倒くせえんだよ」

不満顔な吉良先輩は足を下ろした。

 確か今日は沖浦先生が野球部応援の仕上がりを確認するって言ってたな。

わざわざクソ暑いグラウンドで……

頭では本番環境に近い状態にする為と分かってはいるが、体が素直に動かない。

「ショウマ。そろそろ行こっか」

渋々根を張った腰を上げようとした時、丁度コマチに声を掛けられる。

「そうだな」

俺は教室を出ようとドアに手を掛けた。

「睦月! 帰りにイチゴミルクを買って来てくれ」

吉良先輩は結構な勢いで百円玉を投げる。

俺は不意の飛来物に驚きながらキャッチした。

「さすが元野球部」

吉良先輩は親指を立てた。


 俺達吹奏楽部一年生は炎天下のグラウンドに集まった。

うだるような暑さで、全員の顔は等しく死んでいた。

「今日は一段と暑いな」

チイ先輩が目を細める。

「幽霊も暑いとかあるんですね」

俺は小声で突っ込んだ。

「写真のご馳走を見て美味しそうと思うのと一緒さ。あー暑い、暑い」

ボヤきながらチイ先輩は日陰に避難した。

「全員揃ったか!」

頭にタオルを巻いた姿の沖浦先生が前に立つ。

『はい!』

軍隊のように一糸乱れぬ返事が大空に響いた。

「いよいよ明日が野球部の予選だ! 連中に恥ずかしくない演奏を聴かせてやれ!」

 言葉も早々に灼熱の空気を指揮棒が裂く。

演奏も着々とレベルアップしている。

当初と比べるとメリハリがあり応援らしさが際立った。

抜けるような青空に真っ直ぐな音が吸い込まれる。

まだまだコマチには遠く及ばないものの、自分自身としては練習の成果を発揮出来たと思う。

 沖浦先生は数回頷きながら指揮棒を下ろした。

「こんなものだろう。戻って練習を続けていいぞ」

そう告げると踵を返し校舎に戻った。

「あれ? 何にも無かったね……」

確かにコマチが疑問に思うのも無理はない。

沖浦先生は合奏の度に必ずダメ出しをしていたからだ。

他の部員も呆気にとられた表情をしている。

「気にする事はない。指摘する点が無かっただけだ。それとも怒られたかったのか?」

チイ先輩はふざけ半分で言った。

「そんなアブノーマルな趣味はありません」

俺は冷静に否定すると立ち尽くすコマチに声を掛けた。

「とにかく俺達も戻ろうぜ。立ってるだけで倒れそうだよ」

「イチゴミルク買って帰るの覚えてる? 忘れたら吉良先輩また怒っちゃうよ」

「わざと怒らせるのも面白いかもな」

「もう。そんな事ばかり言って……」

俺とコマチは太陽から逃げるようにその場を後にした。


 いつもは練習が終わるとクタクタで直ぐ眠れるのに、今夜は目が冴えていた。

「眠れないのか?」

チイ先輩は雲一つない夜空の月を見上げている。

「まあ、そんな所ですね」

俺は眠るのを諦めベッドに腰掛けた。

硬めのスプリングがミシッと音を立てる。

「らしくないな。神経が図太いのが売りなクセに」

月光に照らされるチイ先輩の大人っぽいシルエットに、つい見惚れてしまう。

「気が弱いからチイ先輩に押し切られたんですよ」

「気が弱くなくても幽霊から脅されたら誰だって怖いさ」

「もし入部を断っていても、何もする気は無かったんでしょ?」

「正解。でも吹奏楽も楽しいだろ?」

俺はこれまでの経緯を思い返す。

「まあまあ……ですかね」

「まあまあ、か。一番良い答えだ」

「チイ先輩からしたら『最高です!』とか言って欲しかったんじゃないんですか?」

「結果を求める以上は良い事ばかりじゃないだろう。それも全部呑み込んで向かい合うのが大事だ」

「それって諦めが肝心ってヤツですか?」

 チイ先輩は闇が混じる髪をかき上げた。

「ショウマは本当に頑張ってくれたよ。アタシも鼻が高い」

「何ですかいきなり……気持ち悪いですよ」

俺は顔を見られまいと毛布を被った。

「今日はよく休むといい」

数ヶ月振りに練習も無く眠れるのか。

不思議と物足りなさを感じながら、まどろみに落ちていった。


 ついに野球部の大会当日を迎えた。

球場では野球部員達がウォーミングアップを開始している。

準備を済ませた俺は応援席からその様子を眺めていた。

なかなかの盛況ぶりで席もほとんど埋まっている。

「おっ。杉内も出るみたいだな」

チイ先輩はノックを受ける杉内を見つけた。

どうやらレギュラーで出るらしい。

「そうですね」

素っ気ない返事をしたが動きをつい目で追ってしまう。

足運びの具合から杉内の調子は悪くないようだ。

「ウチの野球部勝てるといいね」

コマチが花柄タオルで汗を拭いながら言った。

「どうせ応援するんなら勝ってほしいさ。客観的に実力は五分五分だろうけど」

知らずの内に分析してしまう自分が少し嫌になる。

 プレイボールのサイレンが蝉の声をかき消す。

序盤は両投手も立ち上がりよく、点が入らない展開が続いていた。

両校応援に熱も入り演奏が声に負けるんじゃないかと思える程だ。

そして試合の転機は中盤に訪れた。

杉内に簡単なフライが上がる。

それを一度はミットに収めるも、ポロリと落球してしまい相手に点を与えてしまう。

応援席から大きなため息が広がった。

「応援してる側がため息ついてどうすんだよ! 選手は一生懸命やってんだ!」

俺はつい腹が立って大声を出してしまった。

 その後もチャンスはあったが両校活かしきれず最終回を迎えた。

点差はわずか一点。

この回で点を取らないと終わってしまう。

後攻で守りについた杉内の顔には焦りの色が濃く出ていた。

自分のエラーで取られた一点の重みがのしかかっているのだろう。

 もしも運命の神様が居るのなら、よほど性格が悪いに違いない。

先程落球したフライと同じような打球が杉内に上がった。

緊張で体が固まるかと思ったが、そつがない動きで補球体勢に入る。

「よしっ!」

杉内は危なげ無く捕球し、攻守が交代した。

 一人で9回を投げきった相手投手も、さすがに疲労がピークに達している。

攻めるこちらもあと一歩をものに出来ないまま2アウトを迎えてしまった。

しかしランナーは3塁まで進塁している。

ここでヒットが出れば、同点で延長戦にもつれ込む。

ウグイス嬢が打者の名前を告げる。

『7番。ショート。杉内君』

微かな望みをつなぐべく杉内は打席に入ると、ゆったりとした動作でバットを構えた。

 一球一球に歓声が湧き起こる。

相手投手も絶対に打たれてはいけない場面だ。

死力を尽くした投球で、着々と杉内を追い詰めていく。

攻防は続き両者譲らぬままフルカウントを迎えた。

杉内も何とかファールで粘っているがいかんせんボールが前に飛ばない。

緊迫した空気の中で杉内はバットを振り抜く。

「ちょっと不味いんじゃないか?」

ボールの下部を擦った打球は、俺のいる方向に飛んでくる。

チイ先輩の言う通り誰かに当たっては一大事だ。

俺は素早く落下点に急ぎ両手で捕球した。

「ほんっとにアイツは……」

 自分を抑えきれなくなった俺は、一番前に全速力で走りフェンスに手を掛ける!

「おい、杉内! 俺のストレート打っといて、そんな球に手こずってんじゃねえ! お前なら絶対打てる! 絶対だ!」

一瞬驚いた顔をした杉内は俺に応えるかのようにヘルメットのツバを摘んだ。

 そして相手投手が渾身の一球を投げ込む。

杉内のバットが一閃した。

短い金属音と共にボールが大空に舞う。

俺は息を止めて行方に焦点を合わせた。

球場全体が無音の空間になる。

様々な想いを載せたボールは、ギリギリのところでスタンドに入った。

審判が右手を高く挙げ、上空に円を描く。

サヨナラホームラン!

まさかの結末に否が応でも応援席は盛り上がった。

『わああああ!』

地鳴りの様な歓声に球場が揺れた。

塁を回りホームベースを踏んだ杉内はチームメイトに揉みくちゃにされる。

「たかが一回勝っただけで優勝したみたいに喜びやがって……」

俺は力が抜けて応援席にもたれ掛かった。

 野球部員が応援席の前に整列し、号令と共に頭を下げる。

『ありがとうございました!』

俺達はそれに拍手で応えた。

「睦月!」

拍手にまじって杉内は大声で俺を呼んだ。

目があった杉内は、めいっぱいに息を吸い込んで続けた。

「ありがとう!」

大きく手を振る杉内の姿に俺も全身で応える。

「ああ! 次もしっかりやれよ!」

やっと自分自身も一区切りついた。

そんな清々しい気分だった。


 学校に戻ると全部員は音楽室に集められた。

壇上に沖浦先生が上がる。

「地区大会のレギュラーを伝える。とりあえず三年二年は全員で、一年は名前を呼んだ奴だけだ。もちろん次の支部大会もあるから、選ばれなくても腐っている暇は無いぞ」

俺以外の一年全員に緊張が走る。

 沖浦先生はパート毎に次々と名前を呼んでいる。

俺は呼ばれる筈も無いと、半ば他人事のように立っていた。

「トロンボーン。小森コマチ」

「はひゅい!」

コマチが噛みながら答える。

「睦月ショウマ」

思い返せば自己紹介でも噛んでたよな。

「睦月ショウマ!」

「……え? 何か悪い事しました?」

 沖浦先生は俺を睨みつける。

「ついさっき名前を呼ばれた奴が地区大会のレギュラーだと説明しただろ!」

降って湧いた話に俺は唖然とする。

「……俺がレギュラー?」

自分で自分を指差す。

「そうだ何度も言わせるな!」

「……何かの間違いじゃないですか?」

「そんなに不満があるなら辞退するか? 私は一向に構わんぞ」

沖浦先生の意地悪そうな口角を上げた笑みは、既に俺の答えを見透かしているからだろう。

「ま……まさか、不満なんて。正直まだまだ力不足と思っていたので驚いただけです」

「お前は確かに力不足だ。だがそれでも一緒にやりたいと申し出があってな」

「そんな事を誰が……」

「後は乾に聞け」

 乾先輩は立ち上がり、一呼吸おいて話し始めた。

「部員全員の総意です。ただそれだけよ」

「他人事みたいに言うなよ。イヌチンが言い出したクセに」

カヨさんがチャチャを入れる。

「ちょっと! 余計な事言わないでよ!」

普段は冷静沈着な乾先輩の少し頬を赤める姿に、所々で失笑が漏れた。

一旦空気が静まるのを待って乾先輩は再び口を開く。

「当初私は睦月君に退部を勧めるつもりでした。それは初心者が入部しても大会に出ることは不可能だと考えていたからです。辛い練習を重ねても日の目を見ないのであれば、早目に見切りをつけるのも本人の為と思っていました」

一見残酷な台詞だが、裏に隠れた乾先輩なりの優しさも伝わった。

「しかし必死で練習に取り組む睦月君を見て考えは変わりました。また君の姿は私に問い掛けているようだったの。『自分は全力を尽くしているのか』と……恥ずかしながら私は尽くしていなかったわ。今が自分の限界だと決め付けていたのよ」

乾先輩の微笑は自分自身を嘲笑っているみたいだった。

「皆の前でその事を話すと、全部員が睦月君に影響を受けていると分かったの。負けたくないとか、情けないとか、悔しいとか……個々人の理由は様々だけど、結果として睦月君は吹奏楽部のレベルアップに大きく貢献してくれたのよ。だからその貢献度と今後の成長に期待して沖浦先生に推薦したの」

今まで自分は吹奏楽部のお荷物だと思っていた。

だから乾先輩の言葉は意外だった。

それと同時に心底嬉しかった。

 沖浦先生は手を叩き注目を集めた。

「この吹奏楽部は長年大きな問題を抱えていた。それなりに良い成績で満足してしまう体質だ。口先では全国大会に出場したいと言うが、心の底では立ちはだかる壁に挑む前から諦める。それは愚かな選択だと私は思う」

沖浦先生は壇上から下りると俺の肩を力強く叩いた。

「睦月は演奏もぎこちないし音の質も悪い。はっきり言って使い物にならん! しかしこの吹奏楽部は他でもないお前達の物だ。コイツを連れて行くなら好きにすればいい!」

そして次々と肩を叩いて歩く。

「だが連れて行くなら責任持って全国に連れて行け! 分かったか!」

『はい!』

沖浦先生の激励に全員が応えた。

俺はようやく吹奏楽部の一員になれた気がした。


 日が落ちかけた赤く染まった空に、絵の具を水に落とした様な帯状の雲が広がっていた。

家路を急ぐ俺の隣でチイ先輩はぼんやりと遠くを見ている。

「嬉しいけど寂しいな」

チイ先輩は注意していないと聞き逃すような声で言葉を漏らした。

「トンチかなぞなぞみたいな事を言ってどうしたんですか?」

俺に向けられた顔はどこか儚げに映った。

「ショウマが上達するのは嬉しいが、いつかアタシの手から飛び立つ日が来ると思うと寂しいって思ったんだ」

「気が早いですよ。毎晩怒られているのに。そもそも俺は覚えが悪いですから飛び立てないかもしれませんよ?」

「心配しなくても皆がついている。アタシが居なくても大丈夫だ」

「やけに感傷的ですね。どうしたんですか?」

「いや……何でもないさ」

歯切れの悪いチイ先輩は口をつぐんだ。

俺は黙って足を進めた。

 家までもう少しの所でようやくチイ先輩は語り始める。

「ショウマと出会った時の事を憶えているか?」

「あんな強烈な出会い忘れたくても忘れませんよ。目指せ全国大会出場!」

俺は空高く拳を掲げる。

うっすらと浮かぶ星に手が届きそうだ。

「――願いが叶ったらアタシはどうなるんだろうな?」

そんな事は考えてもみなかった。

……いや、違う。

考える事から逃げていた。

口にしてしまうと真実になってしまいそうだから。

「そんなの次は日本一。その次は世界一ですよ!」

俺は不安を振り払うようにわざと明るく振る舞う。

「吹奏楽の世界一なんて意味が分からんがそうする事にしよう!」

俺にしか聞こえないチイ先輩の笑い声が夕焼けに溶けた。

しかしどこか無理のある感じがしたのは、考え過ぎなのかもしれない。


     7


 いよいよ地方大会まで片手で数えられる日まで近付いた。

今日は地元のホールを借りて練習だ。

やる事は一緒だが、初めての環境というのは心なしかそわそわしてしまう。

 あらかじめ学校で多少のリハーサルを済ませると、コマチが耳元で囁いた。

「皆でお出かけなんて遠足みたいだね」

「この状況を楽しめるコマチは大したもんだよ」

緊張で胃が痛い俺は、呑気な隣人が羨ましかった。

 乾先輩が陣頭指揮をとり準備が進む。

「大会も同じ流れで出発します。一年は楽器をトラックに積み込む手順等よく確認して下さい」

そして滞りなく楽器は積み込まれ、俺達はバスでホールに向かった。

 移動中も乾先輩は忙しなく到着してからの説明をしている。

「本当に乾は真面目だよな」

チイ先輩が感心しながら呟いた。

「真面目というか優しいんだと思いますよ」

「おやおや。意外と他人の事をよく見ているじゃないか? ひょっとしてショウマはああいうのがタイプか?」

チイ先輩は口に手を当てニヤケ顔だ。

「茶化さないで下さい。優しくなかったら、あんなに懇切丁寧な説明しませんって」

「確かにアタシだったら『行けばどうにかなるだろう』で済ましてしまうもんな」

「……乾先輩の苦労が伝わってきますよ」

 現地に着いて思い出したが、茶色い長方形の古い市民ホールには見覚えがあった。

もう題名も忘れたが小学生の時に、アニメの出張映画みたいなのをここに見に来た記憶がある。

「ボケっとすんな、早く降ろせ!」

吉良先輩に急かされトラックから楽器を下ろす。

 くすんだ色の廊下には様々な演劇やら催し物のポスターがびっしりと貼られている。

それらに目移りしながら進むと、金属で縁取られた重厚な扉に辿り着いた。

俺は体重をかけ扉を押した。

 ひっそりと静まり返ったホールは中身の無いモナカのような虚しさが漂っていた。

ボンヤリと舞台だけにスポットライトが当たっている。

俺は足を踏み外さないよう舞台に上がると、無人の観客席に目を向けた。

そして自分の演奏を観客に聴いてほしいと……ほんの少しだけ思った。

 手早く準備を済ませ全員が席につく。

沖浦先生が壇上に立った。

「早速だが本番と同じように通しで行くぞ」

その発言に耳を疑う。

ホールで音出しもしてないのに、いきなり合奏だって?

不意をつかれたが時は止まらない。

俺は腹を決め唇を湿らせた。

 音楽室でやる合奏とは迫力が段違いだ。

最初の一音でそう感じた。

だからといって臨機応変な対応が出来る技術は俺には無い。

やって来た事をやるだけだ。

 駆け足のように課題曲と自由曲が終わった。

一切の余力もなく自分の全てを出し切った。

演奏直後、沖浦先生の顔つきが一気に曇る。

「そんな演奏しか出来んのなら、今年は地方大会ダメ金で終わりだ!」

俺は肩をこわばらせる。

ダメ金という単語はチイ先輩から教えてもらった事がある。

吹奏楽は金銀銅の三種類で評価される。

最初に聞いたときは金銀銅は一位二位三位だと勘違いしていたが、吹奏楽界隈は違うらしい。

要は金賞に選ばれた数校の中から、支部大会に進める学校が選出される。

そしてダメ金とは選ばれなかった金賞の事だ。

「私が審査員ならこう評価する『直ぐに持ち直したが、出足が致命的に悪過ぎる。また来年頑張りましょう』とな。その理由が分かる者がいるか?」

沖浦先生の問い掛けに答える者はいない。

 重苦しい沈黙のせいで、少し重力が強くなった気がした。

「それは探りながら演奏してるからだ。ホールの響き具合を読もうと、故意的に普段と違う演奏をしたヤツがいる」

直ぐに数名の先輩達が手を上げる。

驚く事にそのほとんどが三年生だった。

「はっきり言って出来る人間の手を抜いた音は、雑音以上に不愉快だ!」

沖浦先生は何か吐き出すように深呼吸をした。

「晴れ舞台を自分で汚す馬鹿な真似はするな……もう一回だ」

 それから何度も合奏を繰り返した。

沖浦先生が怒ったのは最初の一回だけで、後は何も言わなかった。


 重苦しい空気を引きずったまま、沈黙のバスは走り出す。

俺の横にチイ先輩が座った。

「本番に向けて全体を引き締めたってとこだな」

「引き締めすぎて全員凹んでますよ」

「ぶっちゃけ最初の演奏は悪くなかった。沖浦先生は手抜きと言ったが十分許容範囲だ」

「だったら何であんな厳しい言葉を投げたんですか?」

「悔いのない演奏をしてほしいからだよ。レベルが高過ぎると余裕を持ち過ぎる事が稀に起こってしまう。それが原因で足元をすくわれた経験がアタシにもある」

「敵は己の中にありですか」

「あれは中学最後の大会だったかな。ハッっと気がついたら終わってたもんだから、ビックリしたのなんの。わけが分からなくて涙も出なかったよ」

おそらくチイ先輩も色んな失敗を積み重ねてきたのだろう。

それを本人に伝えても否定されるのは目に見えているから、ここは黙っておこう。


 どうして時間は欲しい時にかぎって、駆け足で過ぎ去るのだろう?

結局納得のいく演奏が出来ないまま決戦前夜を迎えてしまった。

まあ俺の性格からして納得なんてするわけないのだが。

臆病で小心者で器の小さい男が本当の自分なんだと思い知らされる。

 いつのも夢の中で絞りきった雑巾になるまで、トロンボーンを吹きまくった。

精魂尽き果て倒れ込むと、チイ先輩が微笑みながら横に座った。

「気が済んだか?」

俺は白い床に置かれたトロンボーンを見つめる。

「済んでませんが、体が言う事を聞きません」

もう指一本だって動かす力はなかった。

「アタシはショウマとの約束を果たせたかな?」

俺は記憶をなぞりチイ先輩とのやりとりを思い返す。

「果たせてないですね。だって一人前のトロンボーン奏者になれませんでしたから」

 チイ先輩は目一杯の笑顔でおもむろに立ち上がり、俺の使っていたトロンボーンを手に取った。

「卒業証書! 睦月ショウマ殿! 貴方はたゆまぬ努力を重ね、一人前のトロンボーン奏者となったことを証する!」

そしてトロンボーンを俺に差し出した。

まだ自信なんてこれっぽっちも無い。

でも俺は背筋を伸ばして立ち上がった。

「ありがとうございます!」

深く頭を下げトロンボーンを受け取る。

「これで一人前のトロンボーン奏者だ。現状に満足せず精進するように」

チイ先輩は俺の背中を叩いた。

言葉にしなかったが『頼むぞ』と言われた気がした。


 本番当日が訪れる。

俺は早朝だか深夜だかどっちつかずの時間に、リビングで朝食の菓子パンをかじっていた。

突然物音がして振り向くと姉貴が入って来た。

「おはよう、ショウ。えらく早起きじゃんか」

姉貴は目をこすりながらソファーにもたれ掛かる。

「姉貴こそ珍しい。普段は起こしても起きないくせに」

「ああ。これ渡そうと思ってな」

姉貴が差し出したのは赤いお守りだった。

金糸で合格祈願と書かれている。

「これって……」

「ズバリこれってのが無くて適当に見繕ってきたんだ。恋愛成就の方が良かったか?」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

茶化す姉貴は恥じらいの欠片もなく大あくびをした。

「今日が吹奏楽の大会なんだろ。まぁ、頑張れや」

「どういう風の吹き回しだよ? 柄にもない事して」

 姉貴は壊れた機械を点検するように俺を見る。

「野球やってた頃はカッコつけだったよな。裏では死ぬほど努力してんのに天才ぶってみたり」

「男には色々あるんだよ」

小っ恥ずかしくなり姉貴から目を逸らす。

「格好いい弟ってのも悪くなかったけど、今の一生懸命な感じも良いと思うぞ」

俺は姉貴からお守りを受取った。

「なんだよ知ったふうな口聞いて」

姉貴はソファーから立ち上がると、再び大あくびをする。

「さてと。二度寝するかな」

俺は後ろ姿に声をかける。

「その……ありがとう」

姉貴は片手を軽く上げ応えた。


 いつもと同じ様にジャージに着替えて走り出した。

早朝とはいえ夏の朝は暑い。

「いよいよだな」

チイ先輩は真っ直ぐ先を見据えている。

「ついに来たというより、もう来たのかって感じですよ」

口では冷静を装いながら俺は少し緊張していた。

走るペースが少し速くなっている。

「心配ない胸を張れ。もうショウマは十分なレベルに達している」

「チイ先輩に言ってもらうと心強いですよ」

俺は疲労で不安を紛らわすようにペースを上げた。

 学校まであと少しの所で、見馴れた赤い自転車が俺を追い越して止まった。

「はよっす。睦月」

「おはようございます」

吉良先輩はいつもと変わらない様子だ。

「こんな日にも走って登校なんて、やっぱ睦月は馬鹿だな」

「こんな日だからこそ、いつもと同じにするんですよ。吉良先輩は普段通りって感じですね」

「私はあまり緊張しないタイプなんだ。それとはまた別の悩みはあるけどな」

「へえ。何ですか悩みって?」

吉良先輩は苦々しい顔をする。

「今年は橘が出るって他校の吹奏楽部員の間でちょっとした話題になってんだよ。心底いけ好かない女だ」

「本当に残念ね。吉良がトランペットなら格の違いがもっと分かりやすいのに」

話題の中心である橘先輩が後ろで腕を組んでいた。

「橘先輩、おはようございます」

橘先輩は横目で俺を見る。

「睦月君、おはよう。吉良と話しているとガサツが伝染るわよ?」

「なんだテメェ? 有名人気取りで調子に乗ってんじゃねぇのか?」

吉良はやたら巻き舌で橘先輩にガンを飛ばす。

「その安いチンピラみたいな台詞がガサツって言ってるの」

橘先輩はニコニコしながら吉良先輩と額を突き合わす。

二人は火花を散らしながら先に行った。

 そんな肩をぶつけ合いながら進む二人の背中を、チイ先輩が穏やかな目で見守っている。

「相変わらず先輩達は仲が良いですね」

母親のような顔をしているチイ先輩に話し掛ける。

「二人がいれば次の世代は安泰だろう。口は悪いがリーダーシップのあるミユキと、冷静に物事を捉えられる橘。いいコンビだと思うぞ」

チイ先輩が褒めた二人は、遠くで掴み合いの喧嘩になっていた。

「だがそれには仲を取り持つ存在が必要不可欠だがな。だろ? ショウマ?」

楽しそうなチイ先輩に促され、俺は二人を止めるべく再び走り出した。


 大会の会場に運ぶ為、ひとしきり楽器を玄関に運び終えた。

一段落ついた俺は階段に腰を下ろす。

男らしく重量のあるパーカッションをメインで運んだが、身体的疲労よりも傷付けないよう気を使った疲れが増していた。

気配を感じ横を見ると、コマチがうなだれている。

「気持ち悪い……」

「どうした? 体調悪いのか?」

コマチは顔を上げると虚ろな瞳で言った。

「ううん。緊張だよ、緊張」

「おいおい、そんなんで大丈夫かよ」

「もちろん大丈夫だよ。つい三年生はこれで最後の大会だと思うとプレッシャー感じちゃって」

「そうだな。先輩達の為にも精一杯やらないと――」

 談笑の途中で現れた乾先輩は、まるで世界の終わりが訪れたような雰囲気を纏っていた。

ただならぬ様子に全員が息を呑んで注目する。

そんな中で乾先輩はしばらく黙っていたが、意を決したように口を開いた。

「私達の楽器を運ぶトラックが車両トラブルで来れないと連絡がありました……今は先生方が手を尽くして代替のトラックを探しているところです」

全員の頭に『棄権』という二文字が過ぎっただろう。

もちろん俺だってこんな形で終わるなんて絶対に嫌だ。

どうにかならないか考えるも俺に出来る事は何一つなかった。


 無情にも時を刻む歩みは止まらない。

既に出発予定時間は過ぎていた。

祈るしかない俺達の前にスーツ姿の沖浦先生が駆け足で向かって来る。

「トラックの手配はまだ付かない。時間の制限もあるから、とにかく体だけでもバスに乗って会場に向かうぞ」

もうダメかと諦めかけた時に、校舎に一台のトラックが入って来た。

車体には大きく『魚』と書いてある。

 そのトラックは玄関に横付けで停車した。

「沖浦先生ー! トラック手配出来ましたー!」

野球部の水崎みずさき監督と部員達が駆け寄って来る。

「本当ですか水崎先生! それでトラックと言うのは……」

沖浦先生の質問に水崎監督は魚と書かれたトラックを指差した。

「杉内の家が魚屋でトラックを仕事に使うと聞きまして。それで無理を言って来てもらったんです」

運転席から魚のイラストが描かれた前掛けをした、ガタイの良い中年男性が降りてきた。

「なぁに、いつも息子が応援してもらってんだ! これくらいお安い御用さ!」

頭のねじり鉢巻を締め直す。

「本当に、本当に有難うございます!」

沖浦先生は何度も頭を下げる。

「ガハハ! ちょっと魚臭くなるのは勘弁してくれよな!」

杉内の父親は豪快に笑った。

そして沖浦先生は早々に指示を出す。

「さて、時間がない! 野球部員も手伝うから早く積んでしまおう!」

 野球部員の協力もあって積み込みに時間は掛からなかった。

しかし予定時間は大幅に過ぎている。

俺は急いでバスに乗り込もうとした。

「おい! 睦月!」

呼ばれた声に振り返ると杉内が立っている。

「頑張ってこいよ!」

「おう!」

俺は握りこぶしを杉内に突き出した。


 会場に向かうバスの中は、思わぬアクシデントを乗り越えたせいか高揚感に満ちていた。

横の空いている席にチイ先輩が座る。

俺は窓の外に流れる風景をジッと見つめていた。

「何か面白い物でも見つけたか?」

チイ先輩の問い掛けに外を見たまま答える。

「暇つぶしに見てるフリをしてるだけですよ。正直このまま寝てしまって夢の中で練習したいんですけどね。どうにも目が冴えて」

「物事には足掻いて良い時と悪い時がある。例えばテスト前の休み時間にテキストを開くのは良い。最善の結果を求めて出来る限りの努力をするのは素晴らしい事だ」

「悪い時は?」

「出来る限りの努力をした後だ。そういう時は心を落ち着かせて自信を持って取り組めばいい。昔の人も言ってただろ『人事を尽くして天命を待つ』ってな」

「で、俺はどっちですか?」

「天命を待てばいいさ」


 定刻より遅れて会場に到着した。

バスから降りた俺は円柱型でねずみ色の建物を見上げる。

いよいよこの日が来たと改めて気を引き締める。

「お上りさんみたいだぞ」

チイ先輩もコンサートホールを見上げていた。

自分が演奏するはずだった場所に、違う形で立つのはどんな気持ちなのだろうか。

「その通りですから隠す気もないですよ」

吹奏楽ファンも結構いるのか、予想以上に人が多い。

 そこに現れた魚屋のトラックに全員の視線が集中した。

「さあ、時間が無いよ! パーカッションは舞台側の保管場所へ。他の楽器は控え室に運んで」

カヨさんが指示を飛ばし、テキパキと楽器が運びだされる。

こういう時は先輩方がいつも以上に頼もしかった。

 楽器を運び終えると、間髪入れずに控え室で待機となった。

「楽器を組み立てて準備だけしておけ。音を出すのはチューニング室に入ってから、その後リハーサル室で最終調整してから本番だ」

チイ先輩の言う通り一つ一つ部品を確認しながらトロンボーンを組み立てる。

 そうしていると肩で息をする沖浦先生が控え室に入って来た。

「やれやれ間に合った。全く肝を冷やしたぞ」

沖浦先生はパイプ椅子に背中を預ける。

「前の学校が今チューニング中だから準備しておけ」

組み立て終えた俺は心の中で楽器に話し掛ける。

「不甲斐ない演奏者で悪いけど、今日は力を貸してくれよ」

あらかじめ磨き上げていたトロンボーンは太陽の光を反射させて応えた。

 沖浦先生の言う通り俺達は直ぐに呼ばれチューニング室に入った。

何も無いこじんまりした部屋に整列する。

「各自でチューニング。その後全員で音合わせだ」

普段は数回やり直すチューニングが一発で合う。

緊張しているがコンディションは上々だ。

「各自終わったか。全員でやってみるぞ」

沖浦先生は指揮棒を持たずに右手で合図をする。

部屋中を調和のとれた音が満たした。

その心地良い音色が緊張を解きほぐす。

「よし、いいだろう。後五分でリハーサルだ。残り時間の使い方は個人に任せる」

俺は入念に基礎練習を繰り返しウォーミングアップをした。


 リハーサル室に向かう途中で演奏を終えた他校の集団とすれ違う。

その表情は千差万別で、緊張から解き放たれ安堵する者もいれば、実力を発揮出来ずに涙する者もいた。

全てが終わった時に俺はどんな顔をしているだろう?

取り留めのない疑問が頭を過ぎった。

 学校の音楽室とよく似た作りのリハーサル室に足を踏み入れる。

沖浦先生がゆっくりとした動作で前に立った。

「課題曲と自由曲を通しでやるぞ」

通し練習は淡々と終わり、指揮棒を置くカタッと軽い音だけが響く。

沖浦先生は一人一人と目を合わせた。

無言の瞳は覚悟を問いかけてくる。

俺は自分にしか分からないくらい小さく頷いた。

「素晴らしい演奏だ」

沖浦先生が発した激励の言葉は、たった一言だけだった。

しかしその重みは部員全員が理解していた。

係員から順番が回って来たと告げられる。

いよいよ俺達は舞台袖へと向かった。


 薄暗い舞台袖から既に会場の雰囲気が伝わる。

リハーサル室でさえ余裕がありそうだった先輩達も、さすがに表情が固まっていた。

司会進行役が学校名と曲目の紹介、そして指揮者の名前を告げる。

俺はつばを飲み込み、震える足で一歩を踏み出した。

 ライトに照らされた舞台は金色に輝いて別世界のようだ。

俺達が準備を終えると、迎えた拍手は示し合わせたように止まり静寂に包まれる。

最前列の空席にはチイ先輩が座っていた。

俺の視線に気付いたのかチイ先輩はとびきりの笑顔で頷く。

俺も笑顔で頷き返した。

皆の為、自分の為、この舞台に上がった理由は一つでは無い。

でも今はチイ先輩の為に最高の演奏を届けよう。

 俺は姿勢を正して楽器を構える。

指揮棒が空間を割くように激しく動き出す。

『春の道を歩こう』は典型的な行進曲として知られている。

チイ先輩からも自分が気持ち良く行進するようなイメージが大切だと教えられてきた。

俺は甲子園の開幕式を思い描きながらテンポよく吹き続ける。

ホール全体に活気溢れる音が駆け巡った。

無難に吹くのではなく、実力を惜しみなく出しきる演奏を心掛けた。

 課題曲が終了し深いため息をつく。

まず第一関門を無事に乗り切ったぞ。

「ショウマ! いいぞ、その調子だ!」

俺にしか聞こえないのをいい事に、チイ先輩は声援を飛ばした。

 再度沖浦先生はゆっくりと指揮棒を振り上げる。

明暗を分ける自由曲の幕が上がった。

『トッカータとフーガ二短調』はクラシックの代表曲のような位置付けゆえに、多くの学校が演奏してきた。

しかし有名曲だからこそレベルの差が一目瞭然になる面もある。

だからこそ沖浦先生は教え子の力を信じて、この選曲にしたのだろう。

初めて音楽の力を知った感動が鮮明に蘇る。

まさか自分が感動を伝える側になるなんて夢にも思わなかった。

演奏中もチイ先輩と過ごした日々が次々と思い浮かんでくる。

――吹奏楽に出会えて良かった。

――チイ先輩に出会えて良かった。

ただただ感謝の気持ちを音に込めた。

 全てが終わり余韻がホールに拡散した。

どんな結果が待っていても悔いはない。

そう思えるほどの持てる力を全て出し切った演奏が出来た。

沖浦先生が指揮台から降りて頭を下げる。

沈黙を挟んで拍手が沸き起こった。

……アレ?

観客と同じように拍手をするチイ先輩がどこかおかしい。

座っている椅子が薄っすら透けて見える。

チイ先輩も異変に気付き、体を見回している。

一瞬驚いた表情を見せたが、直ぐに穏やかな顔になった。

そして慌てる事も戸惑う事もなく俺の方を向いた。

「最高の演奏だったぞ! ショウマ!」

一体何が起ころうとしているのか?

俺の目から唐突に涙が流れてきた。

「なんで……」

チイ先輩は普段と変わらない様子で応える。

「……世界一の演奏だって思ってしまったんだ。だから夢の時間が終わったのかもな」

もう椅子がくっきり見える程に、チイ先輩の体は薄くなっていた。

「まだまだですよ……だから……もっと……」

「本当に有難う。ショウマのお陰で未練は無く――」

言葉の途中で霧が晴れるように姿が消えた。

 一向に拍手は鳴り止まない。

俺は頭の中がグシャグシャになりながら舞台袖に戻る。

まだ認めるわけにはいかない……

納得なんてしていない!

俺はコマチに楽器を押し付けた。

「ゴメン! コマチ!」

「え? ええ?」

困惑するコマチを置いて、俺はチイ先輩を探しに走った。

きっと何処かにいる筈だ。

そう信じて。


     8


 いつからだろうか?

側にいるのが当たり前になっていたのは。

結果発表が終わるまで会場中のありとあらゆる場所を探し回ったが、チイ先輩の姿はどこにも無かった。

四六時中視界に入っていた物が急に無くなると、見馴れた景色がえらく殺風景に映る。

 もう走り過ぎて足が動かない。

疲れ果てた俺は会場外の階段に腰掛けた。

もしかしてチイ先輩はこの世に居ないんじゃないか?

諦めかける自分をはりぼての気概で否定した。

葛藤する俺の頬を少し冷たい風が撫でる。

「もう、探したよ。急にどっか行っちゃうんだもん」

コマチの声に俺はうつむいたまま応えた。

「ゴメン。迷惑かけて」

「ううん、別にいいよ。それより大丈夫?」

「ちょっと色々あって……ね」

「そうそう、結果は金賞で支部大会出場決定だよ! 吉良先輩なんて喜び過ぎて椅子から転げ落ちたんだから!」

 これ以上ウジウジしては元気づけようと明るく振る舞うコマチに悪い。

俺はズボンのホコリを払い立ち上がった。

「そっか! 次も頑張らなきゃ」

コマチは目を細めてジッと俺の顔を覗き込む。

「酷い顔。とりあえず顔洗ってきなよ」

「ははっ……恥ずかしいトコ見られたな」

俺は袖で乱暴に顔を拭う。

「いいよ。何だか知んないけど黙っといたげる」

コマチは自分のハンカチを俺の胸ポケットにねじ込んだ。

「皆待ってるから、早くバスに来てね」

礼を言う前にコマチは走り去った。

 

 帰りのバスは所々寝息が聞こえる有様だった。

全員が事切れた人形のように、バスの揺れになすがままになっていた。

俺は行きと同じ席に座り風景を見つめる。

強がりはしたものの心に空いた穴は当分埋まりそうもない。

でも心境は野球を失った時とは全く違った。

これからは頑張ってチイ先輩との約束を果たそう。

それが自分に唯一出来る恩返しだから。


 どこか遠くから声がする。

まるで水平線の彼方から聴こえる汽笛のように朧気な響きだ。

「……ウマ。ショウマったら!」

目を開けるとコマチが体を揺さぶっていた。

「あれ? コマチ?」

「もう! 何寝ぼけてんの。学校着いたよ」

いつの間にか寝てしまったようだ。

もう外は暗くなっている。

人気の無い学校には先に楽器を運んだトラックが停まっていた。

そのトラックには魚の文字は無い。

本当に杉内の親父さんには感謝してもしきれない。

 寝起きでぼんやりしたまま楽器を運んでいると、賑やかな声が飛んできた。

「みんなー! 大ニュースだよ! 大ニュースー!」

ハイテンションのカヨさんが全速力で掛けてくる。

「チイが……チイが目を覚ましたって!」

……え?

一体何を言ってるんだ?

「ついさっき親御さんから学校に連絡があったみたいなの!」

皆は歓喜の声を上げる中で、俺は取り残されたように突っ立っていた。

死人が甦ったにしては明らかに様子がおかしい……

「睦月! 本当に良かったな!」

吉良先輩が俺の頭を叩く。

「一体どういう……」

「何をボーとしてんだよ! 事故の後チイ先輩は意識不明で入院してたじゃないか!」

 俺はこれまでの出来事を順を追って思い返す。

そうして自分の大きな勘違いに気が付いた!

誰一人としてチイ先輩が死んだとは言っていない!

「病院はどこですか!」

俺は吉良先輩に詰め寄った。

「どこって中央病院の213号室だろ? 身内ならよく知って――」

 俺はたじろく吉良先輩が全てを言い終える前に飛び出していた。

様々な感情がグチャグチャに混ざって自分でもよく分からない。

ただもう一度会いたいという気持ちが体を突き動かした。


 あたりがすっかり暗くなった頃、町中にある中央病院に辿り着く。

俺は息を整えると中に入った。

案内板を確認し受付に向かう。

「すいません。213号室の如月チアキさんに面会したいのですが」

電話片手の女性はバインダーを指差す。

「ここに必要事項を書いて下さい」

記入が終わると女性は内容を確認する。

「病室は左奥のエレベーターで二階に上がって直ぐ右ですから」

俺は軽く会釈をして病室に向かった。

 教えられた先の白い扉には『如月チアキ』と書かれたプレートが付いている。

俺はゆっくり息を整えようとしたが、心臓の大きな鼓動は止まらない。

意を決して扉を二回ノックした。

「どうぞ」

聞き慣れた声が返ってくる。

「失礼します」

白い扉が音も無く滑るように開いた。

 部屋では薄青色の患者服に身を包んだ女性が、窓枠に手をかけ空を眺めていた。

「初めまして、如月先輩。今年からトロンボーンパートに入った睦月ショウマです」

彼女は空を眺め続けこちらには目もくれない。

「如月チアキだ。ところで睦月君はどうしてトロンボーンをしようと思ったんだ?」

彼女は幼子をあやすような優しい口調で問い掛けてくる。

「信じ難い話しですがキッカケは幽霊との出会いです。それまで自分が音楽をするなんて想像した事もありませんでした」

純白の病室がチイ先輩と過ごした空間と重なる。

「にわかには信じ難い話しだが、不思議な事もあると思うよ。アタシも似たような経験をしたからね」

「良ければどんな経験か教えてくれませんか?」

「その世界では自分が幽霊になっていて、出会った初心者の男子生徒にトロンボーンを教えるんだ。巻き込んだ彼には悪いが、本当に夢のような楽しい時間だった」

「きっと男子生徒も感謝していますよ。確かに最初は嫌々だったと思いますけど。それに……」

「それに?」

俺も彼女と同じ空を見上げた。

雲一つない星の綺麗な夜空が広がっている。

「地区大会は突破しました。まだ夢は終わっていませんよ」

 彼女は口を閉ざしてしまった。

恒久とも感じられる時間が流れる。

「……散々自分勝手に振り回したアタシを許してくれるのか?」

それは心の底から絞り出すような声だった。

俺は胸いっぱいに息を吸う。

「もちろんですよ! だから一緒に全国大会に行きましょう!」

彼女の肩が小刻みに震えていた。

「……アタシの指導は厳しいぞ?」

つられそうになった俺は込み上げる物を押さえ込む。

「よく知ってますよ――チイ先輩」

チイ先輩は振り返った。

「ありがとう――ショウマ」

その顔を俺は一生忘れない。


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