転生?したらしいです。
淡い色彩のカーテンからそっと夕陽が差し込み、部屋を照らしていた。
絵の具で塗りたくられた吸い込まれるかのような黒一色の空間は漏れ出したその光によって温かな色合いに塗り潰される。
光の差す道がそっと僅かにキラキラと輝いた。まるで風船のように天井へ昇って昇って、暗闇に吸い込まれていく。
その終始を私は返照のない虚ろな瞳で眺めていて。ゆっくりと、未発達の手を伸ばして輝きを掴もうとした。けれど、当然それは手の隙間から抜けて天へと昇っていく。周囲と同様に。私の与えたはずの影響をまるで無視して。
―それは驚きでも不安でもなかった。
ほんの一欠片の悲哀と落胆だった。
私、―百合園 心結はどうやら転生したらしい。
もし来世というものがあったのなら―。と考えた時もある。
けれど、その来世が幸せであるという保証は一切ない。
このまま、今世も死んで―。
...私は今、ベビーベッドに仰向けで宙を眺めている。
ただ眺めて、時間の経過に身を任せる。
左手から日が昇って右手に日が沈むまで。
満足に動かせない幼体で時折ベッドの柵を握ったりして。
もう、二日経った。
以前にもこのようなことが度々あったが、今回はもう駄目そうだ。
お腹の内側から縄で締め付けられるような感覚が漸近的に身を蝕んでいく。
喉がひりつく様に渇き、唾液すらもまともに出ない口内は旱魃さながらに乾いていた。
本来、ふっくらとした姿である必要がある幼児は手足が枯れ枝のように細くなっていた。
無駄に高価な布地から仕立てられたベビードレスから覗く皮膚が痛々しくその様相を映し出している。
つまるところ、私は育児放棄をされている。
産まれた瞬間から意識が明瞭である為、その過程の一部始終を目にしてきた。
産後、涙を流しながら私を離すまいと強く抱き締めていた母親が私を見殺しにするまでを。
何度思い返してみても理不尽で自分勝手で酷く残酷だった。
期待してなかったと言えば嘘になる。ただほんのりと、漠然とそこから幸せの形を薄ら思い描いていた。
多くは望まないけれど、ただ一人、たった一人に愛されて生きていきたいと。
そう、例えば…。
まだ体を満足に動かせない間はベッタリと甘えて世話を受け、私を笑顔にさせようと躍起になった彼女に赤子らしくふてぶてしい顔をして、そして気紛れに笑う。歩けるまでに成長してからは私の養育に躍起になっている彼女の肩を優しく揉んで、感謝の意を伝えよう。そうだ。肩たたき券なんてのも良いかもしれない。そして、学校なんてものがあるかは分からないが、もし入学するとなればそれはもう、盛大にお祝いをお願いしよう。帰り道に彼女の手を握り、ランランとスキップしながら下手くそな歌を歌ってみたい。その歌を聴いて一緒に笑い合うんだ。その後も誕生日を大切にしたりして。たまには喧嘩も良いかもしれない。でも、絶対すぐに仲直りするんだ。だって…私たちは母娘なんだから。
そんな妄想を懐い、ゆっくりと意識が薄れていく。
…刻々と過ぎる時間に比例するように、頭は酷く重く視界が微睡んでいく。
このまま寝てしまえばもう、目を覚ますことはない様な気がした。
そんな細やかな予感がそっと頭を過ぎる。
けれど、やけに瞳が重たくて耐えられなかった。
そして、身体中の力を抜こうとした時、頭に声が響いた。
(ミユッ!起きて下さいっ!)
それはとても綺麗な声で、清風が通り過ぎたかのように爽やかで。
ふっと宙へ浮かぶような浮遊感を感じた。
昔、向こうの世界でジェットコースターに乗った時のような。いや、それよりもずっと優しくて。
どす黒く濁った私を太陽のように照らして、重りのついた私を風のように押して。
(ミユ。…その、…久しぶりです。)
嗚呼。
何度も何度もその言葉を反芻して。
私は、目が覚める
(…アメリア…?)
そっと手探りで彼女を探すように、宙に手を伸ばした。
けれど、きっと触れることは出来ない。
(アメリア…。何処にいるの?)
(わたしは、よく分からないけれど…。けれど、あなたと同居しているのだと思います。)
私とアメリアは同じ身体にいるということ。
所謂二重人格ではない。本当に同居しているのだ。
今でもこの視界を二人で共有している。
(そんなことよりも…。不味いですね。)
アメリアによると事態は最悪であると言える。
誰が見ても、不味い状況だと言うのは分かるが…。
(…あの人、もう来ないつもりです。)
私はほんの少し、期待していたのかも知れない。
今までもここまでは酷くは無いものの、短期的な育児放棄を幾度も繰り返していた。
だから現実を認めず、希望に追い縋っていた。
最後まで、手を差し伸べられることを望んでいた。
その一方でアメリアは現実的だった。
もう、彼女が戻ってくることはないだろうと断定した。
(でも私、やっと寝返りが出来たくらいだし…。一人でどうにかするなんて…。)
結局はそうなのだ。
こんな乳児が出来ることなんてとても限定的で、母親の気を引くくらいしかないのだから。
けれどそれすらも出来なくなってしまって。
(ミユ。身体の力を抜いて下さい。…今からわたしがあなたの身体を乗っ取ります。)
身体を乗っ取る。
そんなことが可能なのだろうか。
もし可能だとすればアメリアはなぜ、今まで一切の存在を消していたのだろう。
分からない。けれど。
(そんなこと出来るの?)
(はい。可能だと思います。)
アメリアの言葉は真っ直ぐだった。
(でも、力を抜くのならさっきからやってるけど…。)
(…そうですか。)
少し考えるような言葉に私は更にゆったりとした体勢をとったのだが。
(やはり…。では、一瞬でいいので何も考えないで下さい。)
なるほど。身体の力を抜くということは、当然脳も休めなければ駄目なのだ。
しかし、何を行っても脳の消費エネルギーは一定だと聞く。
ならば、可能とする条件には消費エネルギー量は含まれない可能性がある。
(もしかして、精神的なものが作用するの?)
(はい。恐らくは。)
何事にもストレスは良くないということだ。
当然、何も考えないというのは私に限って言えばストレスの掛かる行為なのかも知れない。
―思い浮かべるのは過去の友人。
一緒にゲームをして刺激的で有りつつもゆったりとした時間が過ぎていく。
そんな包まれるような時間を思い出す。
その瞬間、ふわっと身体が浮かぶ。
今まで体感したことが無い感覚。
遊園地アトラクションのフリーフォールと呼ばれるもの。それらは落下中、負の重力が掛かり内臓が僅かに移動する。
そんなものではなくて、重力も含めての全てを放棄したような。
音が聞こえない。目が見えない、触れられない、何も感じない。一切の五感が消えて、何も無くなって。自分が誰であるかさえも忘れてしまう。
痛くない。痛くないけれど、それが怖くて。ただ、恐怖すらも時間と共に麻痺、いや、消えていく。
このまま自分が自分ではなくなっていく。それに対し、恐怖すら湧かないことによる違和感で憶えている感情の全てを忘れていって…。
(ミユ?)
あがぁっ。
空っぽの肺に空気を取り込むように。
死に体の私という存在を取り戻す。
(…ミユ?どうしたのですか?)
(な、なんでも…。)
ああ。
世の中にこれほどまでに恐ろしい事があるなんて。
自身の中身を丸ごとくり抜かれるような。
そしてそれに対し何も感じないことが。
…とても怖かった。
視界が開いていく。
それは今までの私の視界そのもので。
(何か変わった?)
(はい。わたしがミユの身体を動かしています。)
確かに、身体を動かそうとしても反応は無い。
迫力のある映画を観ているかのようで。
(でも、アメリア。ここからどうするの?)
(ミユ…。今から述べる呪文を唱えてください。)
…呪文?
聖女といい呪文といい、思わず肩透かし食らわせるのが上手い。
アメリアなりのジョークだろう。
その僅かにズレた言葉に失笑してしまう。
(ふふっ。それで何の呪文なの?)
恐らく直接おまじないを唱えてと言うのは気恥ずかしくなってそう言ったのだろう。
それならば、呪文を精一杯に諳んじよう。
(それでは…。【■■■■】・《■■■》)
あれ?
聴き取れない。
異なる言語を話されているのとはまた違う。
まるで雑音に掻き消されたかのような、外部の力が働いて聞こえないような。
(アメリア。ごめん、なんかよく分からなかった。)
(…そうですか。では、これはどうでしょう。【■■】・《■■■■》)
これも聴き取れない。
(駄目ですか…。素質はあるはずなのですが...。)
(なんか...、期待させてごめんね)
身体を引き継いだアメリアは申し訳なさそうな顔をした気がした。
しかし、次にアメリアは少し強ばった声で言う。
(今から、この柵を乗り越えて床に落ちようと思います。)
―無理だ。
第一に現状、私の身長程もある柵を乗り越える筋力がある訳もない。
そして、奇跡的に乗り越えたとしても、柵から床まで大の大人一人分の高さがある。...無事では済まないだろう。
...けれどアメリアは言った。
その言葉のニュアンス的には可能ではあるけど危険が伴うといった辺りの意味が含まれているだろう。
ならば、その可能とする手段とは...。
(【■■■■】・《■■■■■》)
またノイズだ。
そもそも、何故ノイズが発生するのか。
落雷が起きたわけでも無いのに有り得るのだろうか。
ノイズが発生するとなれば、特定のエネルギーにより音の波長が変化する必要があるが...。
もし、この世界が電気的信号の集合体で構成されているとなれば幾らでもこのノイズについて説明はついてしまうけれど、また同時にここが何かの創造物であるということを明示することになる。
そのようなことを言ってしまえば、ID論という所謂科学の皮を被ったかのように見える体のいい宗教と同じになる。
一切の証拠を提示しないが、根拠をあらゆる処からこじつける。
そんなものは認めない。私は許さない。
だから考える。その理由を。
私がそんなおかしなことを考えている間にアメリアが...発光した。
...驚いた。なんて言葉で済ませていいのだろうか。
文字通り、アメリアは光っていた。
光に照らされて...、ということでは無く。自らが。
蛍の光の様に僅かに白い光を発していた。
...何が起こっている?
人の皮膚に発光タンパク質なんて聞いたことがない。それに何がトリガーとなったのかも。
(では...、いきます。)
世界が急激に動き、視線が高くなった。
ぐらぐらとしつつも下がることは無い。
この赤子の身体をアメリアは動かした。
(なっ!)
ありえないっ...。
立てるほどの筋力がある筈ない。
けれど、なぜ立てたのか。
まさか...、この発光が関わっている?
恐らくアメリアは答えを知っているだろう。
(これってなに――)
視線と重なる柵上部。
それを力強く握り、跳躍した。
あまりにも目紛るしく変化する視野。
その異常に思わず閉口してしまう。
アメリアは柵を乗り越えた。
颯爽と風の流れのように。
そしてそのまま落ちていく。
理解の範疇外の連続で思考が途切れる。
訳が分からない。
先程の発光は急激に霧散する。
アメリアはそのまま床に落ちた。
「かひゅっ...」
硬い床に肺を圧迫され、空気が漏れる。
一瞬、視界がピカッと光った。
仰向けでぶつかり、お腹から胸、最後に額をぶつける。
とても強い衝撃だったようで額から血が流れた。
「かへっ...」
咳と共に血が吐き出された。
(...アメリア...まさか...。)
肺が損傷している。
先程の落下で恐らく折れた肋骨が肺に刺さって...。
駄目だこのままじゃ。
このままだと...死んでしまう。
(アメリア大丈夫なのっ!?)
僅かに間を置いて、赤子の手が動き出した。
地を這う亀のようにゆっくりと手で床を押して。...進んでいく。
両手を前に突き出して這う。
足は...、折れ曲がっていた。
跳躍時の体勢が悪かったのか膝関節から大きく右方向に曲がっていた。
その姿はとても歪で。
(...はい。痛みには慣れているので大丈夫です。)
本当に訳が分からない。
慣れているだとかそういう問題じゃない。
これは生死の問題なんだ。
どんどんと身体を引きづって進んでいく。
吐血に身体からの出血。それらに上品な白い服は赤く染められ、床に惨憺たる軌跡を残す。
僅かに開かれたドアを超え、延々と続く廊下を這っていく。
その姿は酷く痛々しく不気味だった。
(アメリア!このままじゃ死んじゃうって!)
アメリアに強い口調で責め立てるが返事は何も無かった。
返事はないがアメリアが宿る赤子の口から掠れた辿辿しい呼吸が漏れ出す。
歯が生えていない歯茎を噛み締めて少し、また少しと進んでいく。
...吐血は止まらない。
口から血が溢れ出て更に顔を歪めた。
止まらない。
安静にしていれば、という域を過ぎていた。
赤子の身体能力や痛み、苦しみなどを抱えながら、死の淵へ進んでいく。
青白くなった顔に血が塗りたくられ、歯茎は余りの力でぐにゃりと潰れていた。
もう...、直視出来る姿では無い。
刻々と命を繋ぐ糸が解れていって。
それでも先へ手を伸ばす。
「きゃぁぁあああぁああ」
その時、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
発声源に目を向けるとメイド服を着た女性が廊下の角に立っていた。
女性は数瞬もの間、石像のように固まっていたが我に返ったようで手に持つバケツとモップを放ち、こちらへ駆け寄った。
「お、お嬢様っ!」
焦点の定まらない目をしたアメリアを抱きかかえ、走り出した。