『狼娘は猫の夢を見るか』 第一話
東京、渋谷。23時12分。
陽が落ちてなお、よどむ熱気がこもるビルの隙間。
銀髪を後ろに流した、三つ揃えのスーツ姿にサングラスの男が、ビルの外壁に寄りかかっていた。
真っ青な顔色で呼吸も浅く、頬を汗が流れていく。
ビルに細く切り取られた夜空を見上げ、男は汗が吹出す額をスーツの袖で拭った。
「日本の夏は暑いとは聞いていたが、これほどとは」
スーツの内ポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出した。数回タップの後「先日、旅行中の安全契約を結んだシュタインだけど」と会話を始めた。
「どうされました?」
スマートフォンからは低音な男の声。
シュタインは安堵からか、肩から力を抜いた。
「ちょっと、気分が悪くなってしまってね」
「すぐに参ります」
「あいにくと、ここがどこだかわからなくって――あれ、切れた」
スマートフォンの向こうからの返事はなく、通話が終わってしまった。
シュタインは応答のないスマートフォンをひと睨みする。サングラスのブリッジを指で押し上げ「日本妖怪はせっかちだな」と呟き、スマートフォンを内ポケットにしまった。
「まぁ、ここは彼らの庭だし、見つける手立てもあるのだろう」
ヤレヤレとシュタインがビルの谷間の狭い夜空を仰いだ瞬間、彼が背を預けている外壁から、ぬっと黒い影が通り抜けてきた。
その黒い影はシュタインに並び、作務衣姿の男性に彩色された。
「お待たせいたしました」
壁から湧き出た男は仰々しく口を開いた。
「……おっと、びっくりしたな」
シュタインがニヤリと口もとを緩める。
「驚かれた様子はなさそうですが?」
「いやいや、心臓が飛び出るかと思ったよ」
「普段は良く冷えていてさぞかし触り心地が良いんでしょうが、日本の夏に浮かされているようで。これを」
作務衣の男は赤い液体が詰め込まれたパックを差し出した。廃棄と書かれたシールが貼られている。
「消費期限切れの輸血パックか、助かるよ」
「ストローです」
「あぁ」
返事ももどかしいのか、シュタインは輸血パックにストローを差し入れ、口をつけた。
ストローが朱に染まり、あっという間にパックは空になった。
「ふぅ、日本の輸血はうまいな」
ストローから口を離し、シュタインが満足げに呟いた。
「全血パックですし、日本人で構成されて雑味が少ないからかと」
「廃棄輸血をわが祖国へ輸出してくれないかな」
「違法脱法はご法度故ご勘弁を」
「それは残念」
シュタインが肩をすくめ、大げさに残念がった。
「実は祖国では蚊に悩まされていてね。栄養価も高くて病気もない吸血鬼の血は、蚊にとってご馳走さ。年中吸われまくっていてね、辟易しているんだ」
「沽券に関わりますな」
「まったくだ」
シュタインが自嘲気味に笑った。
「あぁ生き返った。旅行に保険をつけておくのは正解だね、助かったよ、えっと――」
「代行屋とお呼びいただければ」
作務衣の男はそう告げると、ニッと笑った。
代行屋が吸血鬼の救援に向かっていた同時刻。
とある都市の古い二階建て日本家屋、その一室で、赤いワンピースにおかっぱ頭の少女がパソコンのモニターとにらめっこしていた。
代行屋の相棒兼恋人を自称する近隣小学校在住の【トイレの花子】だ。
彼女が見つめるモニターの脇には携帯型タブレット置かれており、それがピコリンと鳴った。
「依頼完了お疲れ様ーーって、お、依頼メール一件確認。毎度ありがとうございまーす」
花子が見つめるモニターに、手紙のアイコンが左から右に流れていく。
「えーっと、どんな依頼かしら~」
鼻歌交じりでマウスを動かしていた花子の手が止まった。
「……まーたわけわからない依頼が来たわね……」
カクリと頭を垂れた彼女の背後の床から黒い影が湧き上がり、人の形へと集約されていく。
影は彩色され、雪駄を手に持った作務衣の代行屋となった。
背後の気配を感じ取った花子が勢い行く振り返る。
「あなた、お疲れ様! 食事にする、お風呂にする、それとも、あ・た・し?」
「客は無事だ」
「ちょっと全スルーとか酷くない? せめてあたしを選びなさいよ!」
花子がぶーっと頬を膨らませた。
「花子、新しい依頼が来てるだろう」
「いま来たばっかりなのになんで知ってるのよ!」
「社長から直々に連絡が来た。内容も言わず、任せたと言うだけ言って切れた」
男はぶーたれる花子の頭に手を乗せつつモニターを覗き込んだ。
「……猫カフェで猫にもてたいでござる? なんだこれは」
「イギリスから観光に来る予定のリリコス17歳狼人間でござる、だって」
「意味が分からん」
「あたしにも理解できないわよ」
男と花子は顔を見合わせた。