Cの8 「不公平だ」
「ヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤッフー」
画面の向こうでマリオが尻を階段に擦りつけつつ奇声をあげた。同時に彼は凄まじい速度で階段を駆け上っていく。彼はそのまま高速で扉へと突っ込んだ。次の瞬間には、赤いヒゲオヤジは扉の向こう側に立っていた。
「なにいまの」幼馴染が奇異なものを見る目で訊ねた。「なんでケツを階段に擦りつけたら加速するの?」
スーパーマリオ64はとても完成度の高いゲームである。64のローンチタイトルであるにも関わらず、3Dであることを活かしたマップ、スティックによる高い操作性など、3Dアクションに必須ともいえる要素がよく組み込まれており、後の3Dアクションに大きな影響を残した。
しかし幼少期、俺はあまりこのゲームが好きではなかった。怖かったのである。人の気配が全くしない大きなお城が、どこからともなく聞こえるクッパの笑い声が、能天気に流れる明るいBGMが、ひどく不気味に思えたのだ。
さらに不気味さに拍車をかけたのは、そのグラフィックだった。荒いポリゴンで描かれたキャラクターたちは、幼い俺には冷たく無機質なものに思えた。ゲーム内の城に人がいないように、ゲームから一切の人間味といったものを感じられなかったのである。
しかし最近になって、俺はマリオ64のある部分に人間の温かみというのを感じられるようになった。
マリオのケツである。
当作には(走り)幅跳びというアクションがある。その名の通り長距離をジャンプで飛び越えるという動きである。その際にマリオは大きく加速する。しかし着地前にその速度は大きく殺されてしまう。それは裏を返せば、マリオが跳んだ瞬間に着地できれば、速度は減ずることはないということだ。例えば坂道、階段ならば前方にジャンプした瞬間着地することが出来る。
さらに着地の瞬間に幅跳びを入力すれば、2回分の幅跳びの速度が加算されることになる。それをし続ければ凄まじい加速を得られるということだ。
ここまでは製作者側も把握していたのだろう。尋常なる方法で連続で幅跳びをしても、先に言ったような急激な加速は得られない。ならばどうするのか。
ケツである。
上り階段にケツを擦りつけるように、「後ろ方向に」幅跳びを繰り返すのである。任天堂のプログラマーたちも、プレイヤーがケツを階段に擦り付けるという行動は想定していなかった。
そんなプログラマーのミスに、人間特有のうっかりに、無機質な世界の中俺は人間性の片鱗を見出したのである。
見事ケツにより扉をすり抜けた俺は、そのまま作中最後の扉へと向かう。その先にあるのは、無限に続く階段だ。そう、階段だ。
「ヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤ」
もはや日は空の中ほどまで上がり、地上を燦々と照らしていた。そんな中俺はAボタンを爪で擦るように連打し、ケツを擦っている。素晴らしい休日の朝の過ごし方ではないか。
今日も今日とて特に予定は無い。もしかすると終日ケツを擦って過ごすことになるかもしれない。
俺の胸の中に将来に対するいささかの不安が首をもたげた時、俺の携帯が珍しく鳴動した。ここ最近は文字通り鳴りを潜めていたスマホが、である。珍しいことは連続して起こるもんだ、と俺は人知れず感心していた。
「電話鳴ってるよ」ソファの隣に座る幼馴染が言った。
「取ってくれ」俺はAボタンを擦りつつ言う。「今手が離せない」
「はいはい」
「誰からだ?」
「えーと……」幼馴染はディスプレイに表示された文字を読もうと目を細めた。「『ねん』」
「ねん?」
「ねん」幼馴染は小さく頷いて言った。「ネンショウの『ねん』」
頭の中で「ネンショウ」を辞書で引く。第一候補は「燃焼」だ。そして「年少」「年商」と続く。
「『燃える』か?」
「そう」
「ああなるほど」俺は幼馴染から携帯を受け取りつつ言う。「『もえ』だ」
ディスプレイに表れている「燃」の文字を確認すると、俺は電話に出た。
「もしもし」
『もし』スピーカーからソプラノの声が転がった。『いまひま?』
一瞬聞こえてきた言葉の意味が分からず、俺は当惑した。「もしいまひま」を分解してみる。「もし」「今」「暇」。いや文脈的に「もしもし」か。
もし(もし)、今、暇?
「暇じゃない」俺は堂々と言った。「今ケツを階段に擦り付けるのに忙しい」
『わかった』
そう言って電話の相手は通話を終了した。なんだったんだ。俺はスマホを傍らに置いてコントローラーを再び手にしようする。その時、幼馴染がこちらをじっと見つめていたことに気が付いた。
「誰?」なんだか底冷えするような声色で幼馴染が言った。「『燃』って」
「もえだよもえ」
「もえ?」
「日向」
「もえぎ?」幼馴染は驚いた様子で言った。
日向萌木は俺の幼馴染である。今俺の隣にいる人物も幼馴染だが、日向萌木もまた幼馴染である(当たり前だが異性の幼馴染は1人じゃないといけないなんて決まりはないのだ)。
俺と日向萌木と幼馴染は幼馴染である。つまり幼馴染にとっても日向萌木は幼馴染で──なんだかややこしいことになっている。隣に座る彼女の他にも幼馴染と呼ぶべき存在がいたことを失念していた。今となってはこいつのことを幼馴染と呼称するのには困難が生じる。
「むつみ」
俺が名前を呼ぶと、幼馴染の、もとい「むつみ」の肩がぴくんと跳ねた。
「な、何?」
「……呼んでみただけ」
図らずもカップルみたいな会話をしてしまった。むつみはぽかんと口を開けて俺を見ていた。口は開いているが、そこから言葉は出てこない。よく分からない沈黙が、俺たちの間に横たわる。
ぴんぽーん。
生ぬるい静寂を裂くように、玄関の呼び鈴が鳴った。
「はーい」
妹がぱたぱたと玄関へと小走りで向かっていく。しばらくして、妹は誰かを連れてリビングに戻ってきた。
「よっ」
日向萌木、「もえ」である。挨拶のフランクさとは裏腹に無表情だ。彼女はそういう人物なのである。
「……暇じゃないって言ったじゃん」
「もえぎ!」俺のぼやきをかき消して、幼馴染が言う。「どうしたのこんなとこに」
(こんなとこ?)
「暇だったから」
「電話してきてから全く間が空いてないんだけど」
「徒歩1分」もえは上着を脱ぎつつ言った。「走れば20秒」
世界を3分の1に縮めたせいか、もえの頬は少し紅潮していた。呼吸もやや荒い。
少し経って呼吸が落ち着くと、彼女は戸棚の方へ向かっていき、勝手にコップを取り出した。続いて冷蔵庫から勝手に麦茶を取り出し、勝手に注いで勝手に飲んだ。別に咎めるつもりはないが、なんとも図々しいやつである。
「……もえぎはよく来るの?」妹にむつみが訊ねた。「なんかものすごい馴染んでるけど」
「まあ、来るね」妹は即答し、少し温度の低い目で俺の方を見た。
「来る」それを受けて、俺は断定的に言う。「なんか知らんが勝手に来る」理由は断定できなかった。
それを聞いて、むつみはなぜか頭を抱えた。やがて、長いため息が聞こえてくる。
「不公平だ」
そう言うとむつみは勢いよく面を上げ、俺を睨みつけた。ここ2日で彼女に睨まれまくっている気がする。
「私は2年間放置されてたのに、もえぎはちゃんと構ってもらってたわけ?」
「しょうがないだろ。なんか勝手に来るんだから」
高校に入ってから、むつみは俺を避けているようだった。だからこそ俺も彼女に話しかけることは無く、これまでずっと疎遠になっていたのだ。
それに対し、もえとは特に関係が変わらなかった。なんか勝手に来るからだ。
「それに」むつみは不機嫌を隠さずに言った。「電話」
「電話?」
「そう」
「……電話がどうした?」
「私、あなたの電話番号もメアドもLINEも知らないんだけど」
「ああ……」
俺が携帯を親から与えられたのは、高校に入学してからだった。ゆえにそれから疎遠になった彼女とは連絡先を交換していない。
「言ってくれたら私が教えてあげたのに」妹が言った。
「それはちょっと違うでしょ」
いっしょに帰るうんぬん然り、彼女にはちょっとよく分からないこだわりがあるみたいだった。
その後、俺とむつみはスマホを「ふるふる」した。別に振らなくてもいいんだけれども律儀に振りまくった。ちょっと汗ばむくらいに。
「……なにやってるの?」
全力でスマホを振る俺たちを見て、もえが言った。
「友達になっている」俺は言った。「爽やかな汗によって、俺たちの友情は紡がれるのだ」
「なんかの宗教?」呆れたような声で、しかし顔は無表情のままでもえは言った。「ケツを階段に擦り付けるってのも儀式の一環?」
「ヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤヤッフー」
マリオの奇声が部屋にこだま(セルフエコー)した。