Cの2 「ミッキーのお父さんってドブネズミなんだよね」
「おはよ」
そう言ったのは俺の妹だ。寝癖も直さず、寝間着のまま食卓についている彼女は熱心にトーストを齧っていた。
俺は人知れず安堵した。いつも通りの光景がそこにあった。彼女の隣に、しっかりと制服を着込んで座る幼馴染を除けば、ではあるが。
テーブルの空いた席には、俺の分と思われるトーストとカップに入ったコーヒーが鎮座している。湯気は立っていない。しばらく部屋でぼおとしていたので少し冷めてしまっているらしい。
「どういうことだ?」
椅子に座りつつ誰に問うでもなく言う。すぐに妹が答えてくれた。
「お父さんが出張でいないでしょ?」
「ああ」
母親は随分昔に死んだので、うちは妹、父、そして俺の3人暮らしということになっている。そして大黒柱たる父は昨日の夜に出張とやらでどこかへ旅立った。一週間は帰らないらしい。柱が抜けて我が家は大丈夫なのかと思われるかもしれないが、そこは妹がいる。家事は普段から彼女の領分となっている。彼女のおかげで何とか我が家はジェンガのように持ちこたえているのである。
「だから」妹はそう言うとコーヒーに口をつけた。
「……だから?」続く言葉を待ちきれず、俺は口を開いた。「理由になってないだろ、それ」
「まあ私もよくわからないけど」妹は幼馴染の方をちらりと見て言った。「まあそれが原因なのは間違いないよ。多分」
俺もつられて幼馴染の方へと目を向ける。幼馴染はトーストをくるくると回しては、耳だけを削るように食べていた。食パンを食べる時、最初に耳から食べるのは彼女の子供の頃からの癖だった。あまり行儀の良い癖ではない。咎めようかと思ったが、別に家の中だしいいかと思い直した。そんな俺の思いを知ってか知らずか、幼馴染は俺と目が合うとうんうんと頷いて、満を持してトーストの身に齧り付いた。
妹に視線を戻すと、彼女はテレビをぼんやりと眺めていた。やはりこれ以上話すつもりはないらしい。
今のところ俺には、この状況がどのような過程によって引き起こされたものなのか見当もつかなかった。父がいないということが、間接的に幼馴染の来訪をもたらした? 風量と桶屋の売上の相関のような話ではないか。その行間に押し込められた道のりが、そのプロセスの中で死んだ猫の悲哀が俺には分からない。
分からないことはあまり考えない方が、精神衛生上好ましい。あらゆることが推理可能だとは限らない。探偵小説じゃあるまいし。俺はカップに入ったコーヒーに口をつけた。ぬるい。こんな温度では目は覚めない。俺は一息にコーヒーを呷った。
「ねえ、むっちゃん」妹が幼馴染に呼びかける。むっちゃんというのは幼馴染のあだ名だ。「どうだった?」主語がない。
「勝ったよ」主語がない。
「ふーん」間投詞。
ところで(接続詞)、先の色々と省略された会話からもわかるように、妹と幼馴染はそれなりに仲がいい(会話の長さと仲の良さは反比例する)。幼馴染は妹にとっても幼馴染なのだ。この奇妙な状況も妹の手引きなのだろうか。いや、しかし妹は彼女が来た理由について「よく分からない」と言った。妹は関わっていないのか?
よく分からない。分からないことは、考えない。コーヒーを一口。うーん、ぬるい。
テレビでは誰とも知れぬ芸能人らしき人間がディズニーランドではしゃいでいる。何をそんなにはしゃいでいるのか分からないが、とにかくはしゃいでいる。
「ミッキーのお父さんってドブネズミなんだよね」
幼馴染が嘘なのか本当なのかよく分からないことを言った。へえと適当に頷きつつ妹の方に目をやると、彼女は熱心に画面を眺め見ていた。
妹と俺は数えられる程しか遊園地に行ったことがない。そしてその全ては母が生きていた頃だった。今彼女の胸の内には、懐古だとか哀悼だとかそういうものが渦巻いているのかもしれない。ただ夢の国に行きたいだけかもしれないけれど。他人の考えていることなど分からない。妹だけれど。
「なに?」
怪訝な顔をして妹が言った。どうやら俺はぼおと妹の顔を眺めていたらしい。「今日もかわいいなと思って」とか言ってやろうかと思ったが、幼馴染がいる事だし止めておいた。
「なんでもないよ」
俺はトーストに齧り付いた。ぬるい。