Cの1「このナマケモノめ」
夢から目覚めた朝はいつも虚無感に満ちている。お気に入りの本を読み切ってしまった時のような寂寥が冷たい空気となって肺を満たし、俺を現実へと引き戻しにかかった。
今やどんな夢を見たのだったかは忘れてしまっていた。先程まで脳に映されていたはずの光景は、ダムに村が沈むように、洪水のように押し寄せる現実のその水底へと飲み込まれてしまったのだった。
冷えた空気が生暖かい呼気となって部屋の空間に溶けていく。自分の中の何かが熱とともに奪われていくような気がした。俺は布団をできる限り引き上げた。何者にも俺の熱は奪わせまい。そう固く決意した時、ドアノブが勢いよく回る音がした。
「おはようございます」
誰かが言った。回らない頭でそれが誰の声であったかを思い出そうとする。その答えが出るのを待たず、俺は声の発生源へと目を向けた。
「……何しに来たんだ?」
その姿を認めると、いつの間にか俺はそう言っていた。それは決して「彼女」に対しての問いではなかった。あまりの困惑に、その意味のわからなさに、思わず口をついて出た言葉だった。
そこにいたのは俺の幼馴染だった。
彼女は幼馴染ではあるが、俺を起こしに来てくれるような殊勝な人間ではない。そもそもそんな幼馴染などこの世にいない。都市伝説だ。であるから彼女が俺を起こしに来るという状況は普通ではない。その妙な状況に俺はかなり狼狽えていたが、それを悟らせぬよう更に少し布団を引き上げた。
「起こしに来たの」
彼女が余りにもことも無さげに言うので、俺は当初それが何に対しての返答であったのか分からなかった。二秒程かけて、それが「何をしに来たのか」という問いに対しての答えであると俺は気が付いた。そこからさらに五秒かけて、情報を整理する。何も分からないということが分かった。
「……なぜ?」俺は素直に彼女に訊いた。
「そこに眠るあなたがいるから」芝居がかった調子で幼馴染が言う。
「俺起きてるけど」
「なんで起きてるの」
彼女が面白く無さそうに言ったのを無視して、俺は枕元の目覚まし時計に目を向ける。その時丁度、あまりにもタイミングよく、長針がてっぺんを指し示し時計はけたたましく鳴り始めた。俺がアラームを止めようと手を伸ばすと、その手が届くよりも先に幼馴染が時計の脳天をぶっ叩いた。
「勝った」彼女はそう言って満足げに口元を歪めた。
(勝ったとは、俺に、だろうか。それとも時計に?)
彼女の奇妙な言動について思考を巡らせていると、段々と血液が回り始め思考もハッキリとしてきた気がした。頭が回り出すにつれて、この状況の異常性を克明に感じ出す。なぜこいつがここにいる?
「ほんとに起きてる?」こちらをのぞき込むようにして幼馴染が言う。
「あと半年……」呻くように言ってみる。
「馬鹿な事言ってないで早く起きなよ」
そう言って彼女は俺の布団を剥ぎ取ろうと試みた。この酷寒の中では、それは殺人と肩を並べる悪行である。
「やめろ!」俺は全力で抵抗した。「寒いだろうが!」
「まあ寒いね」
「体温が! 体温が室温になる!」
「変温動物なの?」彼女は呆れた顔をして、布団から手を離した。「このナマケモノめ」
奇妙だ。自分の領域に慣れないものがあることが、ひどく落ち着かない。たった今そこで俺の本棚のラインナップを眺めては「漫画ばっかりじゃん」と手痛い指摘を投げかけてくる彼女の存在が、この部屋とあまりに似つかわしくない。こんな様子を表す慣用句は──
「……肥溜めに鶴」口をついて言葉が出た。
「掃き溜めに鶴ね」彼女は苦笑して言った。「それはあまりに自虐が過ぎる。そこまで汚い部屋じゃないよ」
(自分が鶴であることは否定しないのか)
彼女は満更でもなさそうに微笑む。寝起きにはひどく眩しい笑みだ。
「……それで、何の用なんだ」俺は彼女がはたを織る姿を想像しつつ言った。「恩返しなら間に合ってるぞ」
自分の毛を布に織り込む彼女の姿は、想像してみると半ばホラーだった。彼女も同じ光景を想像したのか、おかしそうに笑いながら肩くらいまで伸ばした髪を一撫でした。やがて彼女は笑いをシームレスに大きな溜息へと変えた。
「そっか、用か」幼馴染は長い息を吐き切ると言った。「用が無いと来ちゃだめなの?」
「だめとは言ってない」俺は少し布団を引きあげつつ言った。「ただお前がわざわざ肥溜めまで来た理由が、わからないから聞いているんだ」
「だから起こしに来たんだって」
「だからなんの為にだよ」
「幼馴染に起こされるってのもいいもんでしょう?」
「そもそも俺起こされてないけど」
「幼馴染が起こしに来てくれたというシチュエーション自体が、かけがえのないものなのである!」幼馴染は演説のように声を張って言うと、あははと投げやりに笑って俺に背を向けた。「まあ早く降りてきなよ」
そう言うと、小さく手を振りつつ彼女は部屋を出ていった。
結局彼女は俺を起こしに来たらしい。しかし自分が何の為に俺を起こしに来たのか、という点に関しては一切説明することなく去っていった。彼女は明らかに理由の説明を避けているように見えた。それはその理由が言いたくないものだからか──もしくは彼女自身もその理由がよく分かっていないのかもしれない。
(……今のは現実か?)
俺が起きてから起きた出来事に、あまりにも現実感がない。ただ部屋の空気の冷たさのみが、今のは現実だと俺に訴えかけている。現実の奔流の、その余りの鮮やかさに目が眩む。
(……腹が減った)
俺はおもむろにベッドから起き上がった。