Cの15「俺の前世はウミウシだった……」
「ファミレスの方にはないってさ」
俺は耳に当てていた携帯を力なく降ろしつつ言った。もしかすると落し物として保管されているかもしれないと思ったが、あてが外れた。
「それで」妹はこちらを恨みがましく睨んで言った。「どうすんの」
「……どうしよう」
冷たい風が電線をひゅうと鳴らす。その音が一層寒さと不安感を掻き立てた。
「予備の鍵とか置いてなかったっけ? 鉢植えの裏とかに……」
「お兄ちゃんがこの前鍵なくした時に使ってた」妹は呆れたように言った。「そんで今なくした鍵がその予備の鍵」
そうだった。この前俺が自分の鍵をなくしたから、予備の鍵を自分の鍵に昇進させて使っていたのだった。その鍵はいまや名誉の戦死で二階級特進してしまった。
「……お前の鍵は?」
「学校のカバンの中」
俺は悪あがきにインターホンのボタンを押してみる。ぴんぽーんという音が虚しく鳴った。
「……今夜はネカフェかな」
「ていうか明日学校なんだけど」
「……手ぶらで行けばいい」
「制服がない」
妹の声の温度が下がっていくのを感じた。俺は妹に向き直る。
「ごめんなさい!」
「……仕方ないよ。誰にでもミスはある」妹は大きくため息をついた。「お兄ちゃんに鍵の管理を任せた私が悪かった」
「その通りだ。反省しろ」
「ごめんなさい。もうしません」
ともかく今日はネカフェに泊まることになりそうだ。俺は財布の中身を確認する。まあ2人が1泊するくらいには十分に入っていた。
「あ」
妹が声をあげた。
「私財布持ってない」
「俺が十分持ってるから別に大丈夫だよ」
「そうじゃなくて、身分証」妹は言った。「会員登録するのに必要なんじゃないの?」
それもそうだった。
ため息が白くなって冬の空気に融けていく。今日は散々だ。鍵はなくすし、出先で田中には会うし、電信柱は高いし、ポストは赤い。それにむつみと付き合ってるなんて噂は流れるし。
「あ」
名案が思いついた。
「むつみのとこに泊めてもらおう」
「うーん……」妹はスマホの時間表示を見て言った。「こんな時間に突然行っても迷惑じゃない?」
「別に夕食はいらないし、寝る場所さえあればいいんだ。馬小屋だけ貸してもらおう」
「日本の一般家庭には馬小屋なんてないよ……」
俺はスマホを操作して、ついこの前交換したむつみとのLINEのトーク画面を開く。履歴にはよく分からないスタンプが大量に表示されている。「俺の前世はウミウシだった……」とか、どんなタイミングで使うことを想定されているのだろう。
「なにこれ」画面をのぞき込んだ妹が言った。
「むつみから大量に送られてくるんだ」
「暇なんだね、むっちゃん」
俺はむつみに電話をかけた。すぐに彼女は出た。やはり暇だったらしい。
『どうしたの?』
「元気か?」
『消極的に元気』
「暇か?」
『暇じゃない』
「じゃあ忙しくて死にそうか? 違うな? じゃあ暇ってことだ」
俺は返事を待たずにむつみに事情を説明した。鍵をなくしたこと。ネカフェにも泊まれないこと。郵便ポストが赤いこと。
「というわけで、馬小屋に泊めて欲しいんだ」
『犬小屋ならあるけど……』
「お前のとこの犬は気性が荒すぎる。あんなのとルームシェアはいやだ」
小学生の頃、むつみの犬によく泣かされたことを思い出した。おかげで俺は今でも犬が少し苦手だ。
『ちょっとお母さんに聞いてみる』
むつみはそう言うと「おかあさーん」と叫んだ。「なーにい」と遠くで誰かが答えたのが聞こえた。
『りんちゃんとまいちゃんが今から泊まりたいって言ってるんだけど』
りんちゃんとは俺のことだろう。かねてより彼女は俺の事を三人称ではそう呼ぶが、彼女の口からそれを聞くのは小学校以来だ。対してまいちゃんとは妹のことだ。
『りんちゃん?』
『まいちゃん兄』
『倫一くん?』
『うん』
むつみが言うと、「代わって代わって」と遠かった声がこちらに近づいてくるのが分かった。
『もしもし。倫一くん?』
「倫一郎です」
むつみのお母さんであった。年の割に若々しい声で、実にはっきりと俺の名前を間違えてくれる。
『久しぶりねえ。中学の卒業式以来?』
「そうなりますね」
『ってことはもう約2年ぶりかあ。元気? うちの娘はものすごく元気よ。なんか今部屋でなんかよく分からないものを工作してるみたいなの。ちょっとは元気なくしてくれてもいいんだけどねえ。そういえば卒業式以来うちのむつみがずっと元気なくてねえ、ここ2年くらいご飯も喉を通らないって感じだったのよ。最初はダイエットでもしてるのかと思ったんだけど、ほら、うちの娘ってあの、薄いじゃない? だから違うだろうなあと思ってたんだけど、最近になってご飯をおかわりするようになったのよねえ。やっぱりそれって倫一くんのせい?』
とめどない。ダムの放水のように一方的に投げかけられる言葉の波に、俺は「ええ」だとか「そうですね」といった適当な返事しかさせて貰えなかった。
『お母さん、余計なこと言わないでよ』
『何も余計じゃないわ。私は母として娘の食生活をしっかりと倫一くんに伝えないと』
(俺は管理栄養士かなにかか?)
『それで、泊まってくの?』
「ええ、馬小屋でいいんです。つまり、物置とかでも大丈夫なので──」
『ああ、ならうちのじゃじゃ馬の部屋に泊まっていけばいいわ』
電話の向こうの声は「はい決まり」と言うと、「ほら、そうと決まったらさっさと片付ける!」と号令を発した。
『今から10分で片付けさせるわ』
「……ありがとうございます」
『いいってことよ』
やはり昔のまま、強烈な人だ。むつみが時折突拍子も無いことを言うのも、この人から生まれ出たのだと思うと納得出来た。
『ところで』むつみの母親は少し声のボリュームを下げて言った。『付き合ってるの?』
主語がないのは遺伝らしい。
「誰がですか?」
「倫一くん」
「誰と?」
「うちの娘」
最近なんだか俺の周りにはこの手の話題が多い気がする。クリスマスが近いからか。
「むつみに聞いてみてください」
『むつみー』
『なーにー』
『倫一くんと付き合ってるの?』
しばらくの沈黙のあと、むつみが電話口に出て言った。
『付き合ってるの?』
「付き合ってるのか?」
『付き合ってないでしょ?』
「まあ、付き合ってないな」
『じゃあ付き合ってないじゃん』
「もしかしたら付き合ってるかもしれないと思ったんだ」俺はため息混じりに言った。「そういう噂があったから」
『噂?』
「俺とお前が付き合ってるっていう噂」
『へえ……』むつみは興味深そうに言った。『それはまた……すごいね』
「藤崎詩織の気持ちが分かったよ」
『友達に噂とかされると……ってやつ?』
「なんとかしてくれ」
『うん……そうだね』むつみは言った。『なんとかしとくよ』
それで電話は終わった。
「付き合っちゃえばいいのに」
妹が言った。