Cの14「いもうと」
「ご飯炊くの忘れてた」
しばらくして突然、妹が思い出したように言った。
「ていうか」本を閉じつつ続ける。「ご飯作るの忘れてた」
俺はキッチンの方を振り返った。台所の照明は消えていて、リビングの灯りだけが冷蔵庫を薄く照らしている。炊飯器も、換気扇も、完全に沈黙している。寝ている間に小人さんがなんとかしてくれない限り、このままいても晩御飯が完成しないことは間違いなかった。
いくつかカップラーメンのストックはあったが、せっかくなので外食することにした。幸い父が食費と称してお小遣いをかなり多めに置いていったので別段金には困っていない(ここ一週間全て外食でも足りるくらいに)。
一歩家の外に出ると、風が吹いていた。街灯が紺色の空の中に明滅している。あそこの蛍光灯はずっとそうだ。かれこれ2週間は切れそうで切れないという瀬戸際に立たされている。点滅する光がSOSのモールス信号のようにも見えた。
「本に夢中になってたのか?」
玄関の鍵を閉めながら妹に訊ねる。振り向くと妹は無言で頷いた。
「俺には分からない感覚だ」
俺はコートのポケットに鍵を突っ込んだ。妹は俯いて俺の足元のあたりを見ていた。
「ごめん」
妹は言った。しまった、と思った。俺の言葉は皮肉にもとれたかもしれなかった。
「気にしなくてもいいんだ、本当に」俺は慌てて言った。「別に炊事はお前の仕事でも使命でもない」
「じゃあ私はなんのためにいるんだろう」
今にも泣きそうな顔で妹が言った。
蛍光灯の明滅が、いやに眩しい。
「それを言ったら俺はなんのためにいるんだよ。俺はお前以上に何もしてないよ」
「だってお兄ちゃんは」妹は細く震える声で言った。「お兄ちゃんは──」
その先を言わせてはいけない気がした。
俺は妹の肩を両手で掴んだ。妹の俯いたままの顔に高さを合わせるように、膝を曲げる。
「今回のはミスでもなんでもないんだ。今日はきょうだい水入らずの最終日だから、俺たちは元から外食する予定だったんだ。お前がファミレスで飲み放題のコーンスープを浴びるほど飲みたいと言ったから」
俺がそう言うと、妹は小さく「ありがとう」と言った。何も礼を言われるようなことはしていない。俺こそが「いつもありがとう」と言わなくてはいけなかった。俺は妹に家事を押し付けていた。それがどれほど彼女の負担になっていたのか、俺は考えていなかった。
自己嫌悪。
自己嫌悪。
自己嫌悪。
俺の先程言った言葉が、ひどく空々しくて、寒々しいものに思えてくる。心にもないようなことを言ったような気になってくる。冷えた身体の末端の感覚が無くなるように、今吐いた言葉が本当に自分のものだったのか、疑わしくなってくる。
「行こう」
思考から逃れるように俺は口を開いた。妹は「うん」と頷いた。
ファミレスは家から徒歩10分くらいのところにある。薄暗くなってきた視界の中、中空に看板がぼんやりと光っていた。
席に案内されると俺はメニューを手に取った。妹もメニューを眺めていたが、妹の注文は既に決まっているだろうと俺は予測していた。ハンバーグだ。彼女はファミレスに来たら十中八九ハンバーグを選ぶ。彼女はソーセージとか卵焼きとか(巨人とか大鵬とか)わかりやすく子供が好きそうなものが好きなのだ。
俺もせっかくなので肉が食べたい。俺はハンバーグの横に載っていたカットステーキを注文することにした。
「何にする?」
「ハンバーグとご飯」
妹に一応確認すると案の定の答えが帰ってきた。俺は店員を呼ぶボタンを押す。やがて1人の店員が小走りでやってきた。
「ご注文お伺いします」
「えーと、ハンバーグとご飯のセットと──」
「あ」
あ?
どこか聞いた覚えるのあるような声に俺はメニューから視線を上げ、店員の方を見た。
「あ」
そこに立っているのは田中だった。制服がすごく様になっている。まるでファミレスの店員になるために生まれてきたようだ。
「何しに来たの奥さん」
「何って、飯食べに来たに決まってるだろ」
「飯を食べないお客もいるんだよねえ」
そう言って田中は小さくため息をついた。見れば、向かい側の席には参考書とノートを開いて黙々と勉強をしている客がいた。机の上には勉強用具の他にはコーヒーのカップだけしかない。猛者だ。あれには中々の精神力か面の皮の厚さが必要だ。
妹は目を点のようにして田中を見ていた。田中もその視線に気がついたようで、妹をしばらく観察するように眺めたあと言った。
「噂の彼女?」
噂の、という修飾は何なのだろうと一瞬思ったが、石原から「噂」について聞いたことを思い出した。本当に噂になっているらしい。今この時まで、その噂の存在を俺は信じていなかった。
「違う」
「へえ。じゃあ彼女でもない女の子と一緒にお食事?」田中はにたあと口元をゆがめて言った。「モテモテじゃん」
「妹だよ」ため息混じりに俺は言った。
「いもうと」
田中はじいと妹の顔を見つめた。妹が困惑の表情を浮かべながら、小さく会釈をした。
「似てないね」
「ほっとけ」
「私はあなたのお兄さんの同級生の田中っていう者です」田中は胸元の名札を見せつけるようにして言った。「どうぞよろしく」
「はあ……」返事なのかため息なのか分からない音を妹が発した。
「お兄さんが普段学校でどんな感じか知ってる? こいついつもねえ──」
「無駄話してないでさっさと注文を取れ」
田中は注文を取ると、小さく手を振って去っていった。なんだか一気に疲れた気がした。外出先で知り合いに会った時ほど、精神を摩耗することはないと思う。
奴が去ったところで俺は席を立った。
「コーンスープでいいだろ?」
妹が頷くのを確認して、俺はスープバーへと向かう。コーンスープの他に何かよく分からないスープがあったが、俺はコーンスープを2杯器によそってテーブルに戻った。
「誰?」
妹がそう言って俺を出迎えた。先程までは突然の事態に意識が追いついていなかったらしい。
「自己紹介してたじゃないか。同級生の田中っていう者だよ」
「そうじゃなくて」妹はスープを自分の手元に引き寄せつつ言った。「『噂の彼女』って誰?」
「ああ」
自分が『彼女』と勘違いされたのだから、その相手は気になることだろう。
「むつみだよ」
「むっちゃん?」妹はそれを聞いて眉をひそめた。「でも付き合ってないんだよね?」
「ないよ」
「うーん?」妹は首を傾げた。
「つまり俺の彼女のことが噂になってるんじゃなくて、俺に彼女がいるということが噂になっているんだ」
「うーん……」
妹は難しい顔をして唸っていた。確かに自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。
その後俺たちは会計を済まして帰路に着いた。会計を担当したのは田中だった。
「また来てね」
「シフトはどうなってるんだ?」
「月水金の放課後から10時くらい」
そういう会話があった。月水金にはあのファミレスに近寄らないと俺は決めた。
既に辺りは真っ暗だ。冷たく乾いた空気とは裏腹に、闇は粘りつくように夜を覆っていた。太い三日月、もしくは少し削れた半月が空に浮かんでいる。遠くで家の近くの街灯が、目印のように明滅していた。
やがて家にたどり着いたので、俺はコートのポケットを探った。しばらく探ったあと、逆側のポケットを探る。探る。探る。
「……」
「どうしたの?」
妹が心配そうに言うのを背後に、俺はポケットをひっくり返す。
「ない」
俺は妹の方を振り返って言った。
「鍵が無い」