Cの12「どうせならうすしおがよかったです」
「お兄ちゃん、今日友達が来るからしばらく出かけてくれない?」
家に帰ると、そんな衝撃的な言葉が妹の口から出た。少なくとも今までそんなことを言われたことはない。
俺がリビングに入ってすぐのところで呆然と立ち尽くしていると妹はこちらに向かってきて、言った。
「1000円あげるから」
妹の手には野口。なんだかすごく生々しい。
「……男か?」
「まさか」妹は心外だとばかりにかぶりを振った。「ただ、お兄ちゃんがいるとちょっとまずい」
妹の言ったことについて考えようとしたが、頭が上手く回らない。あまりの衝撃に脳震盪を起こしているようだ。
まさか、妹が。幼い時からお兄ちゃんと俺を慕ってきたかわいいかわいい妹が「しばらく出かけてくれない?」だと?
涙だかゲロだか知らないが、体の奥から何かが込み上げてくる気がした。
「ついでに醤油買ってきて」
こともあろうにお使いまで押し付けてきた。同時に1000円も俺に押し付ける。俺は反射的にそれを受け取った。ポケットティッシュを目の前に突き出されるとつい取ってしまうのに近い反応だった。
俺はそのまま文字通り妹に背中を押されるままに、家から出ていく。
「じゃ、よろしく」
無情にも背後で玄関の扉が閉まった。吹き抜ける風が鉄のように冷たい。もし俺が変温動物だったら冬眠していた。だが実際には俺は妹ほど冷血ではない。
日はもう暮れかけていて、空は紫色だ。東の方は火事でもあったみたいに赤い。しかしその熱は俺の元へは届かない。カラスがあほうあほうと鳴いた。確かに今の俺はあほみたいだったかもしれなかった。
惨めだ。妹の情けの無さ以上に、自分が情けなく思えた。
俺はゆっくりと近所のスーパーへと歩みを進めていた。寒さから否応なしに足は早まる。カイロ代わりに野口を握りしめていた指の関節が、固まってしまったように動かなくなった。俺は右手を左手で包むように温める。左手が寒くなった。
そうして寒さを耐えつつも歩いていると、向こう側から見知った顔が歩いてくるのに気がついた。
「佐倉ちゃん」
俺がそう呼ぶと、携帯を弄りながら歩いていた女の子が顔を上げる。
「ああ、お兄さんじゃないですか」佐倉ちゃんは小さく手を振ってこちらに寄りつつ言った。
彼女は俺の手をじっと見ると、不思議そうな顔をしながら拳法家のように右手を左手で包んでお辞儀をした。ふと自分の手を見るとまさにそんな感じの格好だった。俺は左手を右手から離すと、彼女に小さく礼をした。
「どうしたんですか、この寒い中」
妹に追い出されたんだ、とは情けなくてとても言えない。
「醤油を買いに行くんだ」
「なんで制服のままなんですか?」
言われてみれば、帰ってすぐに追い出されたので着替える暇がなかったのだった。
「なんで制服だって分かったの? コート着てるのに」
「ズボンで分かります」
俺には多分分からないなと思いつつ、佐倉ちゃんの格好を見る。タイトなズボンを履いていたので、制服ではないだろう。この手法は少なくとも女子に対してならば俺にでも使えるらしい。
俺が下半身を眺めているのに気が付いたのか、佐倉ちゃんは恥ずかしそうに笑った。
「お兄さんはスカートとパンツどっちが好きですか?」
質問の意図がよくわからなかった。
「えーと……それはスカートを履くか履かないかって意味?」
なら断然後者だ。
俺の質問に、佐倉ちゃんは目をしばたたかせたあと、盛大に笑った。
「やっぱお兄さんって面白いですね」
彼女は妹の友人の1人である。たまに家に来ることがあったので顔見知りである。妹の言っていた「友達」とは彼女のことだった。ちょうど今我が家に向かう道中だったらしい。
ともなればなぜ妹は俺を家から遠ざけようとしたのだろうという疑問が生まれる。
(猥談でもするのだろうか)
男がどこかの家に集まったら猥談が始まるのが世の常であるが、女が集まってもそれは同じなのかもしれない。ならばやはり気を利かせてどこかに行っているべきだろう。
「じゃあ俺は醤油買ってくるから、気にせずに楽しんでって」
「水臭いなあ。私も付き合いますよ」
そう言って彼女はスーパーまでついてきた。恐らく俺の手の内にある野口と醤油の一般的な価格の差から、何かを買い与えてくれる可能性が高いと算段をつけたのだろう。現金なやつである。
スーパーの中はあまり暖房が効いていなかった。多分コートを脱いだら寒い。けれど風は当たらないので少なくとも屋外よりは過ごしやすい。
俺は迷うことなく醤油の元へとたどり着いた。よく妹にパシらされるのでどこに何が売っているのかはよく知っていた。俺は醤油を買い物カゴに入れながら、横に立つ佐倉ちゃんに訊いた。
「佐倉ちゃんは何か欲しいものある?」
「別に何もいらないですよ」彼女は楽しそうに笑って言った。「ていうか、その佐倉ちゃんってのやめません? 呼び捨てでいいですよ」
それは俺には「ちゃんちゃんうるせえんだよぼけ」というように聞こえたので、俺は素直にそれからは彼女のことを単に佐倉と呼ぶことにした。
「そう言えば」俺は醤油とポテチ(コンソメ)の入ったレジ袋を片手に言った。「妹と何をするんだ?」
「何って、単にお話ですよ」
やはり猥談らしい。俺は「なるほど」と頷いて、ポテチを餞別にくれてやった。
「ありがとうございます」佐倉は苦笑いを浮かべて言った。「どうせならうすしおがよかったです」
彼女は何事も正直に言う。不満を内側に溜め込むということがない。その正直さ、悪く言えば図々しくて面の皮が厚いところが彼女の長所だと俺は思っている。
その後佐倉は妹の元へと旅立った。彼女と妹がどんな猥談を繰り広げるのかなど知る由もない。でもちょっと聞いてみたいという誘惑に後ろ髪を引かれながら、俺は暇を潰すため野口の残骸を手にゲーセンに向かった。
そこでたまたま上野に会った。彼は制服のままだった。
「何やってるんだこんなところで」
「ゲーセンなんだからゲームに決まってるだろ」
それもそうだった。
上野も暇そうだったので、久しぶりに一緒にガンシューティングをした。画面に現れるゾンビを拳銃で撃ち抜いていく。
「なんだか俺たち今ものすごく青春してないか」
ゾンビの頭を吹き飛ばしながら、上野がよくわからないことを言った。そんな血なまぐさい青春はいらない。
夕飯時になって、俺は家に帰った。すでに佐倉はいなかった。ただ妹が夕飯を作っていた。
「何をしてたんだ?」
「なにが?」
「佐倉が来たんだろ?」
俺がそう言うと、妹は少し驚いたように振り返った。佐倉は途中俺に会ったことを言わなかったらしい。
「なんで?」
「途中で会ったんだよ」
「そうじゃなくて」妹はやや不機嫌な声で言った。「呼び方」
呼び方? 妹の言葉に少し違和感を覚えたが俺は答えた。
「呼び捨てでいいって言われたんだよ」
「そういう問題じゃ──」
そのとき鍋が吹きこぼれたので、妹の言葉はそこで途絶えた。そしてその話はそれでおしまいになった。