Cの11「私が牛乳パック1個を受け持ってやろう」
「ちょっと待て」
石原が言った。時は昼休み。教室は爆発的にそのエントロピーを増していた。俺は飯を食おうと食堂に向かおうとしていた足を止めて彼の方に向き直る。それを待って、石原はさらに口を開いた。
「今日は購買にしようと思うんだ」
「なぜ?」
「寒いからだ」
実に的確な意見である。食堂まで出向くには、吹きざらしになっている渡り廊下を通らなければならない。このクソ寒い中わざわざそんな所を通りたくはない。
しかし、我が校の購買部は食堂の施設の中に存在する。つまり購買にしようが食堂で食おうが結局寒いのは同じなのだ。
なのに何故わざわざ購買にするのかと俺が疑問に思っていると、石原が続けた。
「寒い思いをするのは一人だけでいいとは思わないか?」
なるほど、つまり彼はこう言っている訳だ。
「焼きそばパン買ってこい。牛乳もな」
俺は黙って500円玉を財布から取り出し、机に叩きつけた。俺と石原の睨み合いが始まる。そこに戦いの気配を嗅ぎつけたのか上野がやってきて、彼も500円玉を机に置いた。目の下にクマを作りながら、彼は不敵に笑った。
「やるしかないようだな」
俺はそう言って指の関節をパキパキと鳴らす。石原は腕を捻って組んで、手と手と隙間から何かを覗いていた。上野はキリスト教徒でもないのに胸の前で十字を切った。
「最初はグー」
固く握られた三つの拳が宙に踊る。次にそれらが相見えるときが勝負の時だ。
じゃんけんにおいて、初手はチョキが最善手であると俺は思う。「最初はグー」ではじめるならば、手の初期状態はグーだ。人間は停滞を嫌う動物だ。同じ手を連続して出したくはないという心理が働く。だからグーをそのまま突き出す人間は少ない。
故に初手はチョキかパーを出す人間が多い。その両方に負けないチョキが最善であるというのは当然の帰結といえる。
だからこそグーだ。チョキを出して賢ぶる狩人気取りを、逆に狩る。俺は「最初はグー」で握った拳をさらに固く握りしめる。
「じゃーんけん────」
そして気付けば俺はひとりクソ寒い風に吹かれていた。
俺がただ固い拳を突き出したのに対し、石原と上野が出した手は全てを受け入れるパーであった。上野いわく「お前は意気込むと絶対に最初にグーを出す」らしい。じゃんけん歴15年にして初めて知った自分の弱点だった。
一時的に少し分厚くなった財布をコートのポケットの中で握りしめるようにして、俺は購買部へと向かっていた。校舎と校舎の間を吹き抜けた風が、暴力的な冷たさをもってして俺のほおを打つ。冷蔵庫に放り込まれた魚の気分だ。俺は身体を震わせつつも、なんとか目的の場所までたどり着いた。食堂である。
扉を開けると、暖かい空気が顔に当たった。天国である。俺は文字通り一息ついた。
さて、創作における昼時の購買部と言えば飢えた獣達が我先にと押しかけ、地獄のような様相を呈しているというイメージがあるが、我が校の民度は高いのでそのようなことにはならない。
食堂に入ってまず目につくのは、行列。この学校にはこんなに生徒がいたのかと驚かされるほどの人の列だ。人がみな肩を落とし、手元のスマホの画面へと視線を落としている光景は、まるで死刑を待つ囚人が恨めしそうに手錠を見つめているかのようにも見える。地獄だ。
俺は列の最後尾につくと、死刑囚の仲間入りを果たした。暇つぶしに最近読んでいるネット小説のページを開いた。
「あれ、奥さんじゃん」
しばらくしてそんな声がかかった。まことに今更ながら、俺の名前は奥 倫一郎という。であるから先の「奥さん」はお嫁さんではなく俺のことを指す。名前を呼ばれた俺は声のした方を向いた。見れば肩くらいまで茶色い髪を伸ばした女が、こちらに歩いてきていた。
「ここ入れて」にっこりと笑って女は言う。
「並べ」
「まあまあそう堅苦しいこと言わずに」
まあまあまあまあと言って(流行ってるのかもしれない)女は俺の前へと割り込んできた。
彼女、田中とは中学以来の付き合いである(無論付き合いとは友人関係のことを指す)。と言ってもそこまで親しい仲ではなく会ったら話す程度ではあるが。少なくとも相手を列の中に見つけた時、そこに割り込むことを憚らなくて済む程度には仲はいいらしい。
「今日は寒いねえ」田中はジャブのように世間話で俺を牽制してくる。
「今は少し暑いくらいだ」俺は辺りを見渡しつつ言った。「人が多過ぎる」
「そう? 今日はいつもより少ないくらいだと思うけど」
俺は普段購買部は使わないが、食堂の中にある関係上どうしてもその列が目に入るので、普段からどれくらい人が並んでいるかは知っているつもりだった。現状、扉を開けてまず人の列を掻き分けなくては食堂に入れないくらいには人が並んでいるが、これが少ない? やはり現場と傍観者では感覚が違うらしい。
やがて予想以上に早く列ははけていき、俺の目の前にいるのは田中だけになった。
「おばちゃん! 焼きそばパンとレモンチー!」
元気よく田中は言った。おばちゃんは焼きそばパンを導く枕詞だろうか。おばちゃんも元気よく「はいよ!」とか言って、注文された品をカウンターに置いた。
「焼きそばパン6つと牛乳3つ」俺はおばちゃんの前に出て言った。
「わお」財布にお釣りを片付けていた田中は、俺の注文を聞いて大袈裟に驚いたふうに言った。「奥さんって大食いキャラだったのね」
「パシらされてるんだよ」
「へえ」
「ごめんねえ。焼きそばパンはさっきので終わりなんだよ」おばちゃんは田中の持つ焼きそばパンを指して言った。
焼きそばパン6つなんて注文をしておいてなんだが、俺はそこまで焼きそばパンが好きな訳では無いし、石原や上野もそうだ。ただパシリと言えば焼きそばパンだろうということで注文しただけだ。
「じゃあ、適当に違う種類6つ見繕ってください」俺は焼きそばパンを切り捨てた。
「はいはい、本当にごめんねえ」
それほど申し訳なくなさそうにおばちゃんは言った。
さて、支払いが終わり、今俺の目の前にはアンパン、メロンパン、コロッケパン、カレーパン、クリームパン、チーズパン、それとパックの牛乳3つがある。
「どうやって運ぶの?」レモンティーのパックに刺さったストローから口を離すと、田中が言った。
「……考えてなかった」
今俺の前にあるパンの山は文字通り手に余る量だ。いやパンだけなら両手で抱えていけるかもしれないが、牛乳がネックになっている。
「とりあえずポケットに2個は入るよね」
そう言って田中は俺のコートのポケットにアンパンとコロッケパンをねじ込んだ。続いて彼女は自分のポケットにメロンパンとクリームパンを突っ込んだ。
「まあ友達のよしみだ。私のポケットも貸してやろう」
「ポケット貸されてもどうやって返せばいいんだ」
「今度ポケットがなくて困ったら奥さんのを借りるよ。3割増しで」
ポケット2.6個をどう返せばよいのだろうと俺が思案していると、田中は俺にカレーパンとチーズパンを押し付けた。
「私が牛乳パック1個を受け持ってやろう」
俺は牛乳パック2つでパンを挟むように持ち上げる。曲芸じみた運び方だ。その様を見て田中はさも面白そうに笑っている。
2組の教室に着くと、石原と上野が出迎えてくれた。
「焼きそばパンは?」買ってきてもらった分際で偉そうに石原がのたまった。
「悪いね」田中が手中の焼きそばパンをこれみよがしに振って言った。「これがラスト」
「田中じゃん」
「やあ上野くん」
「知り合い?」石原が上野に尋ねる。
「中学同じだから」
「こんにちは、えーと……」
「石原です」
「あー、2次元エロ魔神の」
石原の異名は7組までも届いているらしい。
田中は牛乳を机に置いて、ポケットからパンをとりだして放り投げると「じゃ、また」と言って帰って行った。
「なんで田中と?」上野が不思議そうに俺に訊いた。
「食堂でたまたま会って、俺の手に余ったから手伝ってもらった」
「ふうん」
そう言って上野はメロンパンとクリームパンを手に取った。
「俺はこれを貰おう」
「なぜ?」
「お前のポケットより田中のポケットの方がきれいそうだ」
実に的確な意見である。