呪われた王子とその特殊な妻
とある国、とある森の奥深く。一組の夫婦がおりました。
夫は今でこそ王宮と縁遠い身ながら、歴とした王の息子。王子です。
対して妻は田舎育ちで、身分なんてものはありません。ですが愛らしい顔立ちで気立ての優しい、よく働く娘でした。
正直、王子の身分以外は何も持たず、森の中に引きこもっているだけの夫にはもったいないくらいの娘です。
しかし二人は仲睦まじく、夫婦は幸せにくらしておりました。
そんな幸せの中で、けれども夫は妻に引け目を感じていました。申し訳ないような、後ろ暗いような。もやもやとした罪悪感に、気が咎めるのです
申し訳ないと思うなら、まず生活能力のなさを悔やむのが先だと思うのですが、夫は王族生まれの王宮育ち。そんな些末なことには気付きません。
大きな棘となって夫の胸をさいなむのは、遠い昔の失敗です。
それは夫が傍若無人な王子であった頃、魔女を怒らせ呪いを受けてしまったことでした。
呪いは、確実に体を蝕みました。
そのために、男でありながら宝石のようだと讃えられた王子の顔は、今や見る影もないのです。
けれど、妻はそんなことには構いません。夫を愛しているからです。
妻に愛されていることは、夫にもよく解っています。ですが、愛されていると強く感じれば感じるほどに、夫は胸が苦しくなるのです。
鏡を見れば、そこに映るのは人ならぬ恐ろしい顔です。夫は自分の愚かさに涙をこぼし、獣のようにグルグルと唸り声を上げるのでした。
ある日のことです。
森の奥深くにある夫婦の屋敷に、お城から王様の使いがやってきました。
なんと、王様の使いは、魔女の呪いを解く方法を夫に教えるためにきたのでした。
夫は狂喜し、大きな声で妻を探しました。
「妻よ! 妻よ! 聞いてくれ! 呪いが解けるのだ! 本当に愛する人からのキスで、私の呪いは解かれるのだ!」
妻と出会う前なら、本当に愛する人なんてできるものかと絶望していたかも知れません。夫はもう、宝石のような王子ではないのです。
ですが、今なら簡単です。だって、愛する妻がいるのですから。
思えば、二人は夫婦でありながら、キスを交わしたことがありませんでした。
夫の顔は人のものではありません。特に変わってしまったのは、そのおぞましい口元です。
唇とも呼べぬ裂け目からは、白く尖った牙がぎざぎざと飛び出していました。それがとても恥ずかしく、同時に、妻を傷付けてしまいそうで恐ろしかったのです。
けれども今は、恐ろしさよりも大きな期待が胸をふくらませています。愛する妻と唇を交わせば、夫は人の姿を取り戻すのです。
妻は、昼食のために庭で香草を見繕っていました。その姿を見付け、夫の心臓はどきどきと高鳴りました。
そして、高揚のままに言葉を重ねます。
「妻よ。愛する妻よ。どうか、唇に触れることを許して欲しい。私の呪いを、解いて欲しい」
熱っぽい期待を瞳に宿らせ、夫が言います。
妻はおどろき、はっと息を止めました。それから夫の後ろに王の使いがいるのを見ると、チッ、と鋭く舌打ちをしました。
「余計なことを」
「え?」
今のは、夫の聞き間違いでしょうか。
戸惑って視線をさ迷わせると、王の使いがこぼれんばかりに目を見開いて固まっています。
夫は落胆しました。どうやら、聞き間違いではないようです。
夫は鈍感でありましたが、全くの愚か者と言う訳ではありませんでした。だから、気が付いてしまいました。
あ、こいつ、呪いの解き方知ってて黙ってやがったな。……と。
夫は毛むくじゃらの手を顔にやると、こちらも毛むくじゃらの眉間を指でぎゅっとつまみました。
不思議と、「まさか」とは思いませんでした。考えてみれば、これまで送ってきた夫婦生活の中で怪しいところはあったのです。
妻は、夫を心から愛しました。それは疑いがありません。
しかし――。
魔女から呪われてしまった王子は、その美しい容姿をすっかり変えられてしまいました。全身のシルエットだけは人間とそう変わりませんが、顔は控えめに言っても狼です。
獣の姿になってからも夫は王子の気質が抜け切らず、服飾品にはこだわりました。ですから夫は、世にも珍しい、上等な貴族の服を着こなした高貴そうな狼でした。
夫は呪いを受けた当初、まだ自覚が足りませんでした。もう自分が目の覚めるような美男ではないと、忘れてしまうことがあったのです。
ですから以前の感覚で女の人に近付いて、手ひどく拒絶されることもしばしばでした。
何しろ夫の姿は人間めいた狼ですから、まあ、あれです。人狼です。相手も命の危機を感じて必死です。それはもう完膚なきまでに拒絶もされます。
王子である上に大層な美男として生まれ付いた夫は、拒絶されたことがありませんでした。生まれて初めての挫折に、しおしおと落ち込んだのも仕方のないことでしょう。
そうして地底にめり込む勢いで落ち込む夫の前に、颯爽と現れたのが今の妻です。
「調子に乗って魔女に喧嘩売るとかばかじゃない? ねえ、ばかなんでしょ? もう丁度いいからそのままいなよ。あんたの顔むなくそ悪かったし、今の方がわたしは好きだわ」
ざっまあ、と指さして笑う妻のテンションは、完全にいじめっこのそれでした。しかし夫を救ったのもまた、この遠慮のない妻の態度でした。
皆が獣の姿を恐れました。そして王子のその変貌は、以前の美しい容姿でごまかされていたエグい性格をあからさまにしました。
多くの人が離れて行く中、妻だけが平気な顔で夫のそばにい続けました。
それどころか、恐ろしいはずの狼の頭に遠慮もなく触れるのです。妻は細い腕で夫の頭を抱え込み、わしゃわしゃと嬉しげな様子でもみくちゃにするのでした。
頭を撫でられるのは照れくさく、そして何とも言い難い幸福でした。
夫が、妻を愛するのに時間は掛かりませんでした。妻は、夫の手の中に残った唯一のよいものだったのです。
夫はもう一度自分の眉間をぎゅっとつまむと、諦観に似た気持ちで妻に問いました。
「妻よ、どうか、私の呪いを解――」
「絶対に嫌」
妻はにっこりと笑いながら、食い気味に拒否しました。
「呪いを解いたら、あなたはきっと変わってしまうもの。身分に驕り、容姿に驕り、わたしのことなんてすぐに忘れてしまうのよ」
そんなのは嫌よ。と、妻は言います。
夫は言葉に詰まりました。「あぁ、まあね……」としか言えません。確かに、呪いを受ける前の王子はそんな感じだったのです。
二の句を告げずにいられる夫に、妻は優しく言いました。
「さ、すぐに準備をするわ。昼食にしましょう」
この話はもうおしまい。夫は、そんな圧力を感じました。
とある国、とある森の奥深く。一組の夫婦がおりました。
夫は魔女から呪いを受けて、恐ろしい人狼の姿をしていました。
妻はそんな夫をよく愛しました。
二人は末永く、――解ける呪いを解かないとはどう言うつもりかと、王子であった夫の実家から妻に問い合わせがあったり、頑として譲らない妻と夫の親族の間で戦争になりかけたりと色々ありましたが――幸せに暮らしました。
そう言えば、妻は後年、幼い孫にこう漏らしたことがあったそうです。
「あのモフモフは、失うには惜しかったのよね」
――と。
めでたしめでたし。
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