掃除婦と旦那様
エステルは17歳だった。
栄養が少々足りない身体は貧弱ではあったが、この国のこの身分の者の中では普通であった。
切るのが面倒だという彼女の主張で伸び放題の黒髪を1つに纏め、髪と同じ色の瞳は少々吊り上がってはいるがどこまでも澄んでいた。
エステルはどこにでもいる少女だった。
そう、どこまでもお金に厳しい現実主義なその性格を除けば…。
コンコンッ。
軽いノックの音が部屋に響く。
「旦那様、朝でございます。」
大人びたやわらかい低音が聞こえる。
この瞬間が、この屋敷の主人であるルルーノの至福の時間であった。
その至福の瞬間をベッドの中で噛みしめる。
しかし、瞬間は瞬間でしかないのもいつもの事。
ガチャ。
声とは似つかわしくない不作法さで開けられた扉から、この屋敷の掃除婦であるエステルが入ってきた。
ルルーノはため息をついた。
「エステル。いつも言っているけど、部屋には返事があってから入るようにね。」
「旦那様、お目覚めでしたか。」
許可なく掃除を始めるエステルは、ルルーノを一瞥することなく答えた。
「エステル、返事は?」
「旦那様。お言葉ですが、私はほかの部屋ではきちんと返事を聞いてから入っておりますので、心配には及びません。」
きりっと吊り上がった黒の瞳がようやくルルーノに向けられる。
その鋭いほど澄んだ瞳を、あぁ、綺麗だなと思う。
その瞳が自分を映している事にわずかな喜びを感じてしまう。
そんな事を感じさせないように、ルルーノは会話を続ける。
「じゃあ、なぜ、僕の部屋だけ返事を待たないのだ?」
「時間の無駄ですから。」
バッサリ。
潔いまでの回答に、ルルーノはため息を禁じ得ない。
ため息をつくと幸せが逃げる、なんて言うが、
だったらエステルと出会ってからの自分は、もう一生分の幸せを逃がしている気がする。
「君を雇った主人に向かって、時間の無駄って。」
「あら、お忘れなんですね。」
ルルーノを見たのは一度きり。その後は会話をしながらも手は休まる事をしない。
分厚いカーテンを開け、窓を開き、空気を入れる。
「私がここで働き始めたころ、旦那様の言い付け通りに返事を待っていたら日が暮れました。
1日の労働費を無駄にしたことを忘れられませんわ。」
「う・・・。そうだっけ・・・?」
机の上を軽く片付け、本を仕舞い、箒でゴミを集め、濡らした布で1つ1つの家具を丁寧に吹き上げていく。
その手際の良さに見惚れる。
「その日から、メイド長様より"旦那様の部屋は返事がなくても入って良い"と言われておりますし、旦那様からもそのように言われておりますが。」
…。言ったような気がする。
エステルの棘のある言葉に、先ほどから冷汗が止まらない。
「それから旦那様、」
掃除をしていた手を止め、急にエステルがルルーノのほうを向く。
何度見ても吸い込まれそうな瞳と目が合い、ドキリと胸が高鳴る。
「見つめすぎです。見世物料を頂いてもよろしいでしょうか。」
「は、払ったら見ても良いのか?!」
焦って思わず本音を口走ってしまった。
そんなルルーノをエステルは蔑んだような、若干哀れむような表情を作った。
「そうですね。それなりの対価を頂けるなら。」
言いたい事を言って、背を向けたエステルは、机の上にあるベルを鳴らす。
使用人を呼ぶためのベルだ。
彼女の掃除が終わった事を告げ、そしてルルーノにとっては貴重な2人きりの時間の終わりを告げるベル。
「それでは旦那様、掃除は終わりましたので私はこれで失礼いたします。」
メイド長から直々に仕込まれたという完璧なお辞儀を残して、エステルは扉の向こうに消えていった。
1人きりになった部屋の中、ルルーノはふっと笑みを零す。
辛辣な事ばかり言う掃除婦と、明日は何を話そうか。
また蔑んだ目を向けられるか、それとももっと別の表情が見れるか。
笑顔を見てみたいと思うけど、きっと難しいんだろうな。
コンコン。
エステルの時よりもしっかりとしたノック。
「ああ、開いてるよ。」
ルルーノの返事を待って開かれた扉の向こうには、着替えを持ったメイドと彼の乳母を務めたメイド長が立っていた。
「ルルーノ様、今日はエステルに何をおっしゃったのですか?」
ネクタイの色を決めかねているメイド長が、ちらりとルルーノに声をかける。
「何も。ただ、ちょっと見つめすぎたかな。見世物料を請求されたから。
あ、左の色にしよう。今日は会合だ。」
メイドに着替えを手伝ってもらいながら、ルルーノはへらっと笑った。
「あの子は貴族社会に馴染めませんがゆえ、あまりからかいすぎませんように。」
「からかってないよ。僕は本気なんだけどな。」
笑みを絶やさないルルーノにメイド長の眉間にしわがよる。
その様子を見て、ルルーノはさらに笑みを深くした。
「ねえ、メイド長。」
「何でございましょう、旦那様。」
「見世物料っていくら払えばいいんだろうね。」
「ッ、ルルーノ様!!」
あはは、とメイド長の怒りも能天気にかわす。
エステルもこのくらい感情豊かだといいのに、と思う。
だけど、あの子はあのままでもいいのかもしれない。
あのままで、十分魅力的だとも思う。
そう考える辺り、相当やられている事を自覚してルルーノはまた笑った。