03
「お前も何か名前を持てよ」
同僚のダンプティはいつだって僕にそう言ってくる。
いまではみんなお互いを偽名で呼び合うようになった。頭にナノチップの入っていない、成人すら迎えていない子どもたちでさえも。日常で使われる“名前”と言う単語はいまや“偽名”と同意語だ。
ナノチップがあっても本名がわからなければその人の情報にはいっさいアクセスできないけれど、本名さえわかればナノチップがなくても制限付きでその人の情報にアクセスをすることができる。言い換えれば、制限付きでその人になることができる。
別に偽名を持たなくても、他の人たちから疎ましがられるのに我慢できれば生活は出来るけれど、やはりこだわりでもなければ、偽名を使った方がはるかに生活しやすい。
そんな中で僕は偽名を持たなかった。自分にネーミングセンスがないことも一因だけれど、それ以上に僕は自分の本名が好きだったので、他の名前を持つ気にはなかなかなれなかった。
「なんでもいいさ。肩をたたいて、おい、とでも言ってくれればいい」
僕はいつもそう言うけれど、ダンプティは不満顔。
「遠くからお前を見つけたらどうすればいいんだ」
「近づいて、肩をたたいて、おい、とでも言ってくれればいい」
「全く、面倒くさい」
ぶつぶつ文句を言いながらも、結局はダンプティが折れてくれる。以前は何度も繰り返されるこの説得に嫌気がさして、その性格はいくら王様の兵隊を集めても直せそうにないな、などと皮肉を言ってみたけれど、ダンプティは意味が分からないようだった。彼はどうやら『鏡の国のアリス』を読んだことがないらしい。曰く、
「ダンプティとダンディって語感が似ているだろう」
とのこと。ルイス・キャロルも嘆いていることだろう。
その気になれば僕の本名だって、ダンプティの本名だって、CISの個人情報保護システムにアクセスして顔写真から探すことが僕たちCIS職員はできるけれど、五千万を越える人々の顔写真のリストからある特定の一人だけを探すのはどう考えても無謀で、しかも履歴にしっかりと僕のアクセスした足跡が残るのですぐにばれてしまう。私的目的で誰かの個人情報にアクセスするのはご法度だ。
現にこれまでもCIS職員が自分の恋人だったりを探そうとして懲戒処分、それも一番重い免職になっている。もちろんその人のナノチップには重大犯罪者の烙印を刻まれて。
だから個人情報を盗もうなんて考える人は誰もいない。他の誰かの情報を得る代わりに、自分の情報を人質として差し出さなければならないのだから。ハイリスクでローリターン。
「またその話。ジョンでいいでしょ、ジョンで」
同じく僕の同僚のアリスは、僕をジョン、と呼ぶ。ジョン・ドゥ、と。
僕は呼ばれる分にはなんでも構わないけれど、自分から自分をジョンと呼んでくれとは言わなかった。ダンプティはどうやらジョンと言う呼び名が気に入らないらしく、僕にジョン以外の名前を考えろと言ってくる。
「違う。ジョンが気に入らないんじゃなくて、俺がお前をジョンと呼んだ時のアリスのしたり顔が気に入らないんだ」
「そんなに嫌なら自分で考えればいいでしょ。ね、ジョン、ジョンは別になんて呼ばれてもいいんでしょ」
「僕のことは好きに呼んでくれて構わないけれど」
名前の体をなしていれば、と僕が付け加えると、途端にダンプティは面白くなさそうな顔をする。
「けっ、『好きに呼んでくれ』なんて言うから恥ずかしい名前でも付けて困らせてやろうかと」
「そう言うと思ったよ」
それでも律儀に従ってくれるあたり、ダンプティは紳士だ。お構いなしに恥ずかしい名前で呼ばれては僕もかなわない。呼ぶ方も相当の羞恥を覚えるだろうけれど。
「おっと、もうこんな時間か。今日はこれから地方まで行かにゃならん。グラスゴーだ」