15
「人間はとっても不完全だから、誰もがしあわせに暮らせる完全なユートピアなんて作れないの。誰かのためのユートピアは、ほかの誰かにとってはディストピアでしかない。あなたにとってのユートピアは、私にとって、この世界はまぎれもないディストピア」
「ジェーン、君は、この世界を憎んでいるのか」
「たぶん、そう……なのかもしれない。せっかく本名を持っているのに、それを隠して偽名で生活する人たちを、本名を隠して偽名で生活させている社会を、憎んでいるのかも」
僕がフュノンで魅力的に感じて見ていた風景を、ジェーンはどんな感情で見ていたのだろうか。
「私はね、この世界が、いつかみんな本名で呼び合って生活できるようになればいいと思う。誰も本当の自分を隠すことなく、ちゃんと自分は自分だ、って呼べる世界になればいいのにと思う。それが、私の望むユートピア、ううん、私の望むアルカディア。今はみんな、本名を隠すことに慣れきってしまっている。それが普通のことなんだ、ってみんな信じてる。誰もが二たす二は五である、って信じて疑わなくなってしまっている。今の世界の人たちはね、みんなピギーとおんなじ」
「ピギー……」
「そう、ピギー。本名を持ちながら唯一最期まで本名で呼ばれなかった悲しい人。でも可愛い呼び方でしょ、ピギーって」
僕は素直にうん、とも可愛いね、とも言えず、あいまいに言葉を濁す。車はとっくに自宅の前についていたけれど、僕は少しも体を動かすことができなかった。まるでジェーンの言葉の一つ一つが、僕の体を縛りあげて拘束しているかのように。
僕は今にも叫びだしたかった。
あなたの憎んでいる世界をこうしているのはこの僕です。この世界を存続させているのは僕の仕事です。今日も僕は保護システムを点検してこの世界を延命させました。あなたの憎むべきは、この僕です、と。
でもその言葉たちを、僕のナノチップは送ってはくれなかった。まるで恐怖と言うものが、僕の思考にフィルターをかけてしまったかのように。
僕がCISの保護システム管理部の所属だとジェーンに告げてから、彼女は僕を憎み続けていたのではないだろうか、と言う恐怖。
「私にとってこの世界はまぎれもないディストピア。名前のない者たちにとっては。だって、普通に生活することすらできない。みんなナノチップに依存しすぎてしまっているから。私は私としてこの世界に存在することができない。私はエデンを追われたイブ。知恵の実なんか食べていないのに」
僕が言葉を発する前に、ジェーンは回線を閉じてしまった。僕はつなぎなおそうとしたけれど、ジェーンが応答することはなかった。
「ジェーン、僕は」
僕は回線の閉ざされたナノチップに向かって、誰に届くわけでもない言葉を漏らす。
「僕は君に謝りたい」




