愉快な主従に拾われて。
夕暮れ時の海辺に、一人の美しい青年がたたずんでいました。この青年は、リーナ姫と視線を交わしたあの時の青年であり、この国の王子でした。彼は船の上から見たリーナ姫が忘れられず、折に触れては海辺に向かうようになっていたのです。そして、浜辺に佇みあの時のことを思い返すのです。
その日は王子の婚約を祝って、海の上で船上パーティーを行っている最中でした。王子にとっては婚約も結婚も義務でありましたので、何の感慨も沸きません。それでも笑顔を貼り付け、一通り挨拶し終えた王子は、人の輪から外れて息抜きがてらに海を眺めていました。
すると丁度そこに、リーナ姫が鉄砲玉のごとく海面から飛び上がってきたのです。王子は何事かと驚きました。しかしすぐにリーナ姫の愛らしくも美しい姿に目を奪われてしまったのです。彼女の顔はキラキラと輝き、王子をまっすぐに見つめていました。もっとも、リーナ姫が見ていたのは王子ではなく、彼の背後で行われているパーティーだったのですが、彼はそんなこと知る由もありません。
何て純粋な瞳なのだろうと、王子は思いました。そして次に目がいったのは、リーナ姫の体でした。緩やかに波打つ亜麻色の髪が、まろみを帯びた体に張り付き、際どい所を隠しています。そう、丁度王子の目の前にいる少女のような――
「!?」
王子は驚き、真っ赤になって後ろへと後ずさりました。
あの時の少女、リーナ姫が王子の前に立っていたのです。しかし彼女はほとんど全裸と言っていい恰好なので、目のやり場に困ります。初心な王子には目の毒でした。しかしちらちらと見てしまうのは悲しい男の性でありました。
一方リーナ姫は、裸で出歩くのは恥ずかしいという人間の常識を知りませんので、何も隠そうともせず王子にずんずんと近寄ります。ちょうど尾びれが足へ変わった所に人が現れたので、町への道を聞こうと思ったのです。リーナ姫は王子のことなどすっかり忘れていました。
リーナ姫が身振り手振りで王子に尋ねようとしたその時です。辺りに怒声が響き渡りました。
「そこの痴女め! 王子に近寄るでない!」
髭面のむさ苦しい騎士が、険しい顔をして二人の元へ突撃してきたのです。彼は王子の側近、グレアムです。面倒見がよく、頼りになる騎士ではありましたが、使命に忠実すぎて暴走しがちなところが玉に瑕でした。
グレアムの使命は王子を導き、守ることです。ですが最近の王子は、護衛の目を掻い潜って一人で勝手にどこかへと行ってしまうのです。
今日もそうでしたので、焦ったグレアムには、リーナ姫が王子をかどわかす悪女に見えたのです。それもそのはず、リーナ姫は素っ裸――いえ、胸に貝殻を着けてはいましたが、それが裸よりも卑猥に見えてしまい、グレアムは危機感を覚えました。このままでは純情な王子が、あっさりと篭絡されてしまうと。
グレアムの声を聞いたリーナ姫はムッとし、王子は慌てて彼女を背後に庇いました。
「違うんだ、グレアム! 彼女は……私の運命の人なのだ!」
三人の間にしらけた空気が漂います。グレアムが半眼になって二人の顔を見比べました。
上気した頬に自信満々の笑みを浮かべる王子に対して、リーナ姫は必死に首を振っています。グレアムは嘆かわしい、と首を振りました。
「王子、惚れっぽいのも大概になさい。それに彼女は否定しておりますよ」
「そんなはずはない! 私達は婚約パーティーのあの日、視線を交わして愛を確かめ合ったのだ!」
(してない!)
王子はナルシストで思い込みの激しい所が玉に瑕でした。彼は自分の美しさを自覚しておりましたので、彼女が自分を見詰めていたのは、好きになってしまったからに違いないと思い込んでしまったのです。そんな人ですから、リーナ姫に一目惚れしていた王子が、運命の相手だと思ってしまったのは無理もないことでした。
「パーティーですか。しかし彼女は招待客の中にはおりませんでしたぞ。まさか端女ではありますまいな?」
「いや、彼女とは海の上で出会ったんだ」
(……あ! あの時の人だ!)
そこでリーナ姫はようやく思い出しました。王子が誕生日の日に会った青年だということに。
リーナ姫は焦りました。大人たちの話によれば、人魚であるということがばれてしまうと売り飛ばされてしまうのです。
「海の上? まさか、人魚でもあるまいし。疲れて幻覚でも見たのでしょう」
「いいや、そんなことはない!」
グレアムは王子では埒が明かないと思ったのか、リーナ姫に視線を寄越して尋ねてきました。
「娘、王子と会ったことがあるのか?」
リーナ姫は首を振りました。こうなったら何を聞かれても知らないふりをしようと決めたのです。そんな彼女に王子は愕然としました。
「そんなはずは……!」
「往生際が悪いですぞ。諦めることも時には必要です。それに婚約したばかりの御身。醜聞は困りますな」
グレアムの正論に、王子は何も言えなくなってしまいました。しょんぼりする王子をよそに、グレアムは難しい顔でリーナ姫に質問しました。
「それにしても、そなた一言も喋らんな。口がきけぬのか?」
リーナ姫は頷きました。
「ふむ、それは不憫な……。しかし裸なのは一体何故なのだ。襲われた……という風でもないようだしな」
「そうだ! 私としたことがすっかり忘れていた。すまない、麗しの君よ」
グレアムの言葉を聞いて急に復活した王子は、リーナ姫に自分の上着を掛けてくれました。リーナ姫が着るには少々大きいものでしたが、前を合わせるとちょうど膝丈のワンピースのようになります。男物でしたが、初めての人間の服です。リーナ姫は嬉しくなって、くるりと一回転した後、にっこりと笑いました。
王子は真っ赤になって身悶えました。しかも夢の彼シャツ(?)なのです。王子は今まさに幸せの絶頂を味わっていました。
主の情けない姿を生暖かい目で見守っていたグレアムは、ため息をついて再度尋ねます。
「それで娘、お前は一体何者なのだ」
どうしようかと一瞬迷ったリーナ姫でしたが、最終的には首をかしげて何も解らない、ということを示しました。
グレアムは腕組みをして、うーむと唸りました。
「記憶喪失か。大方海で溺れて……というところだろうか。裸なのは漁の途中だったから、かもしれん。王子、念のため近くの漁村にあたってみましょう」
「そうだな。それで彼女はわた」
「身元がわかるまでは修道院で預かってもらいます」
「待て、彼女の身柄は私が預かる」
グレアムは王子のよからぬ企みを途中で遮りましたが、王子はめげません。彼はリーナ姫のことがどうしても諦められず、何とかして振り向かせたいと思っていたのです。
グレアムは、聞き分けのない子供を諭すような口調で王子に言いました。
「王子、彼女は犬猫ではないのですぞ。おわかりか?」
「勿論だ。責任は私が持つ」
「そうですか。ならば両陛下には王子自らがご説明を。それと度々の脱走騒ぎのお叱りも、しかと受けて頂きますぞ」
「わ、わかっている……」
「というわけだ。娘、ついて来なさい」
リーナ姫には行く当てがありません。なので素直に王子たちの厚意に甘えることにしました。
こうしてリーナ姫を連れた王子とグレアムは、地上のお城へと帰っていったのです。
* * * * *
地上のお城に招かれたリーナ姫でしたが、生活させてもらうにあたって一つの条件が出されました。それは何らかのお仕事をすることです。王子の暇を慰める係り、というものを王子が提案してくれましたが、それはグレアムによって即行却下されました。
代わりにグレアムが提案したことは、お城の雑用係です。リーナ姫はそれを喜んで受け入れました。夢にまでみた人間の生活なのです。どんなことも目新しく、リーナ姫は楽しんでこなして行きます。もちろん人間のするお掃除や、お洗濯はしたこともないので失敗することもありましたが、順調に上達していきました。
そんな日々を過ごしていたリーナ姫でしたが、ある時グレアムからお声が掛かったのです。
「リナ、付いてきなさい」
リナという名前は名無しのままでは不便だからと、グレアムがつけてくれた名前でした。最初は王子が名づけようとしてくれたのですが、
「イシュタムにしよう。愛の女神の名だ。愛らしい貴女に相応しい」
「それはイシュタルですな。イシュタムでは自殺の女神になってしまいますぞ。そんなものよりはリナのほうが呼びやすくてよいかと」
リーナ姫はグレアムの言葉にうんうんと頷きました。本当の名前と似ていますし、リーナ姫としてもそちらの方がいいです。
嬉しそうなリーナ姫に、グレアムも笑顔を浮かべます。
「妻が飼っているウシガエルの名だ。愛らしい所が良く似ている」
ただ、グレアムが最後に余計な一言を付け足したので、複雑な気分になってしまいましたが。
グレアムに連れてこられたのは王子の部屋でした。久々に会った王子はげっそりしていました。それでも王子は嬉しそうに出迎えてくれます。
「リナ、貴女に会える日を一日千秋の思いで待ちわびたぞ!」
どうしたことかとリーナ姫が目をぱちくりさせていると、グレアムが癖になったため息をつきながら教えてくれました。
「王子がリナに会わせろとうるさいので、五日は掛かる課題を出したのだが、二日でこなしてしまわれたのだ。普段もそのくらいのやる気であってほしいものだが……」
おそらく王子は徹夜をしたのでしょう。麗しいお顔がひどい有様です。しかし想い人に会えた喜びからか、笑顔の輝きは失っていませんでした。
リーナ姫は申し訳ない気持ちになってしまいました。王子の気持ちに応えることが、リーナ姫にはできません。リーナ姫にとって王子は兄のようにしか思えないのです。
けれど王子が望むことは、リーナ姫のできる範囲でなら、なるべく叶えてあげたいと思っていました。王子とグレアムはリーナ姫にとって恩人です。誰かに助けられたら、必ずその恩返しをするというのも人魚一族の掟でしたので、二人に何らかの形でいつか恩返しができればと常々思っていました。
「さあ、立ったままではなく、椅子に掛けて楽にしてくれ」
王子に促されたので、リーナ姫は王子の目の前に大人しく座ります。
「雑用は辛くはないだろうか? 嫌だったら言ってくれて構わない。すぐに仕事を変えさせよう」
リーナ姫は首を振って立ち上がりました。そして窓拭きや洗濯をする動作をして見せ、最後に両拳をきゅっと握ってにっこり笑いました。
「楽しんでいるそうです。残念でしたな、王子」
「そ、そうか……。しかし今の動作は見事なものだな」
「芸人の技を見ているようでしたな。確かパントマイムというものだったかと」
二人の言葉に、リーナ姫の顔はパッと花開いたような笑顔になりました。実はパントマイムは、リーナ姫の特技でありました。昔大人から聞いた人間の旅芸人の技に憧れ、自分でもできそうなパントマイムというものを独自の方法で練習していたのです。
リーナ姫は楽しいことも大好きですが、人を楽しませることも大好きです。二人の感じ入った様子に、リーナ姫は嬉しくなり、人間生活の中で覚えた別の動作を披露し始めました。それはもう見事なもので、荷物を運ぶ動作などはまるでそこに実物があるかのようでした。
王子とグレアムは感心して、拍手を送りました。
「ふむ。王子、もしかしたらリナは旅芸人だったのかもしれませんな。漁村にはそれらしき娘はおりませんでしたし」
「そうだな」
グレアムは少し考え込んでから、リーナ姫に尋ねました。
「リナ、今のお前はとても生き生きとしていた。芸をすることは好きか?」
リーナ姫は頷きました。
「そうか。私の知り合いに一座の座長がいる。その者に頼めばお前の面倒をみてくれるだろうし、芸も磨けるだろう。お前は見目も良いから重宝されるはずだ。どうだ、入ってみるか?」
リーナ姫の目が輝きました。憧れの芸人になれるかもしれないとあれば、リーナ姫の答えは決まっています。しかしリーナ姫が反応する前に、王子が怒り出してしまいました。
「何を言うグレアム! そのようなところにリナを放り込もうとするなど正気と沙汰とは思えんな!」
「王子には聞いておりません。それに今の話を聞いたリナはとても嬉しそうでしたぞ。大事にすべきは当人の意思かと思いますが」
「そうなのか、リナ……?」
王子の捨てられた子犬のような目が、リーナ姫に向けられます。こんな目を向けられたら、頷きたくても頷けません。
「王子、リナを大切に思うのでしたら、彼女の意思を尊重するべきですな」
そしてグレアムは王子に小声で付け足しました。
「快く送り出してあげたほうが、王子の印象がよくなりますぞ。そうすれば彼女の心は少しずつ王子に傾くかもしれませんなぁ……」
「リナ、貴女の芸は素晴らしい。貴女が望むのなら、私が最高の一座を紹介しよう!」
王子はあっさり態度を変えて、リーナ姫に一座入りを勧めました。障害がなくなったおかげで、リーナ姫は晴れやかな気持ちで頷くことができたのです。
王子の視力は4.0
イシュタム…マヤ神話、自殺を司る女神