第1章 海
1
そこは、深く澄んだ海の底。夢のように美しい、人魚達の世界がある。
「わたし達は、海の泡の中から生まれて来たのよ」
一番年かさの姉セレスティアは、いつも夢見るような眼差しをして、妹達に語り聴かせた。
「いいえ、わたしも生まれた時の記憶なんて、殆どないわ。でも沢山の綺麗な泡と、その中から次々と現れて来た妹のあなた達の姿を、おぼろげにだけど覚えている。その時からわたし達はずっと、この海の中にいるの。今までも、そしてこれからも、わたし達ずっと、ここにこうしているのよ」
「どうしてなのかしら」
こんな時は決まって、一番年下の妹のマリアが、姉にこう訊ねる。
「どうしてわたし達、ここにいるのかしら。こうしているのは、わたし達だけなのかしら」
「不満なの、マリアは」
「そういうわけじゃないけれど」
「マリアは自信がないのよ、姉様」
一番気性の激しいイリスが、からかうように言う。
「わたし達は、この世で最も美しい場所で、美しく生きるために生まれて来たのよ、マリア。誇りをお持ちなさい、自分が特別な存在であることを」
「そうよ、マリア。イリス姉様の仰る通りよ」
十一番目の姉のフィオーネが、すっと近付いて来た。
「知っていて? 地上の人間は、人間のお腹から生まれるんですって。それがとても小さくて、歩くことも話すことも出来なくて、周囲が面倒見なくては、生きることも不可能なんですって。それでもやっと成長しても、今度は老いと死が待っていて、どんなに屈強な男も美しい女も、それから逃れることが出来ないの。みんな、しなびるように老いて、惨めに死んでいくのよ」
「まあ、フィオーネ。あなたったら、また地上に近付いたの?」
セレスティアが、咎めるような声を上げた。
「い、いいえ、姉様。そうじゃないけれど」
「地上は、危険なのよ。人間は強欲で、凶暴な生きもので、わたし達人魚が万一、人間に見付かれば、忽ちのうちに殺されてしまうわ。何があっても、地上はもちろん、海に浮かぶ船にも、近付いては駄目よ」
「よくわかっているわ、姉様」
「さあ、また泳ぎましょう。魚達が待っているわ」
十五人の人魚達は、岩場から離れて、一斉に泳ぎ出した。海に陽射しが差し込み、きらめく水の世界を、美しい、だが異様な姿の娘達が、しなやかな肢体をくねらせて、流れるように泳いで行く。
「マリア」
フィオーネが妹に近付いて、そっと囁いた。
「あなたはまだ、海の上に出たことがなかったわね。今度、連れて行ってあげるわ。なかなか面白いわよ、地上の世界も」
そう言って、悪戯っぽい眼差しを妹に向けた。
2
海の上は、一面降り注ぐように光り輝く、星空の世界だった。
「まあ……!」
「ね、綺麗でしょう?」
妹が、思わず漏らした感嘆の声に、フィオーネは、満足そうに訊ねた。
フィオーネは、早速その夜、不安がる妹を、海上へ連れ出した。末妹のマリアは臆病で、いつも姉達の後ろに隠れているような、内気な娘だった。
「あなたったらちっとも、外の世界を覗こうともしないんですもの。たまには姉様達の眼を盗んで、冒険してみるのも面白いわよ」
「フィオーネ姉様こそ、わたしからすれば、信じられないくらいだわ。海上には、毎日来ているの?」
「ふふ、まさか。セレスティア姉様の御眼は、厳しいもの。だけど、こんな美しいものを眼にしては、また来てみたいと思うのも当然でしょう?」
「そうね」
「わたし達は、生まれた時から海の底にいて、そこしか知らないけれど、少し視線を変えてみれば、こんな綺麗な世界もあるってことを、知っておくべきね」
「まあ、さっきは姉様、人間は汚らわしいって仰っていたくせに」
「世界は、様々な側面があるっていうこと。人間だって、醜い面と美しい面とがあるわ。マリアだって少し勇気を出せば、自分の知らない世界を、沢山眼にすることが出来るのよ」
「わたしは駄目よ。姉様のようには、とてもなれないわ」
そう言って、後ろを振り向いたマリアは、海に浮かぶ、巨大な黒い物体に気が付いた。
「姉様、あれは何?」
「あれが、船というものよ。でも、あんなに大きくて光り輝く船は、わたしも初めてだわ。気を付けなさい。あまり近付くと、乗っている人間達に見付かってしまうわよ」
二人は急いで、船の陰になっている方へと泳ぎ、そこから改めて、船の姿を見守った。
「随分、賑やかね」
「綺麗な音が聴こえて来るわ」
「あれが、音楽というものよ。みんなで、ワルツを踊っているのね。貴族とか王族とか、身分の高い人間達が、パーティというものを開いているんでしょう」
「姉様、本当に何でも御存知なのね」
「うふふ」
フィオーネは、悪戯っ子のような笑い声を上げると、妹を誘って、船の周囲をゆっくり泳ぎ始めた。
3
「どうなさったのです、国王陛下」
声をかけられた男は、はっとして振り返った。
「……今、海の中を、二人の女が泳いでいた」
「女?」
声をかけた方の男も、急いで海を覗き込んだが、夜の海では、船が起こす小さなさざ波くらいしか、見ることが出来ない。
「幻覚でも見たのではありませんか。戴冠式以来、祝賀行事続きでお疲れなのでしょう」
「敬語を使うのはやめてくれ、アウグスト。もう、わたしが気を許して話すことが出来るのは、従兄弟の君しかいないのだから」
「場所にもよるが、まあ、今夜はお許し頂こうか。しかし幻覚まで見るようでは、お前も相当、疲れが溜まっているようだな、テオ」
「疲れもするさ。あんなに元気だった父が突然死んで、以来周囲が目まぐるしく、わたしはそれに振り回されて、休む暇もなかった。まさか、こんなにも早く即位することになるとは、夢にも思っていなかったからな」
「今更泣き言はよせ、テオドル五世。二週間後には、待望の花嫁も来るというのに」
「ああ、もう逃げ出すことも出来ないな」
テオドルは自嘲的な笑いを浮かべ、アウグストの差し出すワインを受け取った。
4
「気を付けなさいと言ったでしょ、マリア。もう少しで、あの男に気付かれてしまうところだったじゃないの」
「ごめんなさい、姉様。でも」
マリアは先程、眼に入った船上の男を振り返った。
「わたし、人間を見たのは初めてだったから」
「マリアも、人間に興味が出て来たようね」
フィオーネは再び笑って、
「でも、もうそろそろ帰らなければいけない時間よ。セレスティア姉様に見付かったら、もう二度と、海上に来ることが出来なくなるわ」
5
船はゆっくりと、夜の海の上を進んで行った。あれからすでに三日目だが、相変わらず、船上ではパーティが続いているらしく、音楽も人々の声も賑やかだ。マリアは人間に気付かれないよう、暗い海の中を泳ぎながら、それでも眼は、船上にいる人々を追っていた。
今夜は見ることが出来るだろうか。三日前の夜、一度だけ見たあの人を。銀色の髪が船上の明かりに映えて、青い瞳に、物憂げな表情を浮かべていた、あの人の姿を。生まれて初めて、海上の光景を眼にしたマリアは、ひと目でテオドルに恋をしてしまったのだ。
けれど、たとえ眼にすることが出来たとしても、その後どうしようというのか。相手は人間、自分は人魚。決して、人間に知られてはならない自分が、どうやって、あの人に近付くことが出来るのか。叶うことなど、決して赦されない恋。こうして、人間達のそばにいることさえ、禁じられた行為だというのに。いや、そんなことはわかっている。所詮は高望みだと、わかりすぎるくらいよくわかっている。でも、それでも逢いたい。たったひと目、たったひと目だけでいいから、あの人の姿を見たい。
しかし、マリアのそんな想いなど届くはずもなく、船上のパーティはますます賑やかになり、行き交う人々が増えても、その中に、テオドルの姿を見出すことは出来なかった。それでも諦めきれずに、尚も船上を見詰めていた時、不意に、黒髪に灰色の眼をした男と眼が合った。
慌てて海の中に逃げたが、男に気付かれてしまったことは明白だった。どうしよう、見付かってしまった。このことが、もしセレスティア姉様に知られてしまったら。いや、それよりあの男が、マリアを捜そうと海まで追い駆けてきたら。
恐怖に駆られ、泳ぐ速度を速めようとしたその時、海上で突然、大きな爆発が起こった。
「きゃあ!」
海の中が大きく揺れて、マリアもそれに巻き込まれた。訳がわからず、混乱するマリアの周りに、爆破した船から人々の身体が、次から次へと海の中に落ちて来た。そのあまりに怖ろしい光景に、一刻も早く逃げようとしたマリアの眼に、不意にテオドルの姿が飛び込んで来たのだ。
あの人だ、と気付くのと、身体が動くのが同時だった。慌てて抱きかかえたが、テオドルの血が水の中に浮かんで、マリアは急ぎ、海上へ向かって泳ぎ出した。
気絶している男の身体は、マリアの細い腕には非常に重かった。それでもテオドルが息出来るよう、その身体を仰向けにして、マリアは必死に海上を泳いだ。海上では、先程まできらびやかに着飾った人々の、賑やかな声に包まれていた船が、大きな炎を上げて燃えていた。マリアは知るよしもないが、その船に海軍の兵士達が次々と飛び移り、生き残った貴族達の救助活動を行っていて、貴族の悲鳴と兵士の怒号の声が、遠く離れたマリアの処まで届いていた。
一体何が起きたのか、マリアには見当もつかなかったが、ともかく今は、テオドルを助けることが最優先だ。細い腕でそれでも必死に、テオドルの身体を支えながら、マリアは、ゆっくりと海上を進んで行った。
その時、かすかに意識を取り戻したテオドルの眼に、月に浮かぶマリアの顔と、その透き通るような白い肌とが映った。テオドルも、初めは何が起きたのかわからなかったが、あの時、一瞬だけ眼にした人魚が自分を抱えて、今、必死に助けようとしてくれているのだと気付いた。
「き……み……」
声をかけようとしたが、身体に激痛が走って、テオドルは再び意識を失った。夢だ。俺は夢を見ているのだ。女でもあるまいし、人魚などと、何を好き好んでセンチメンタルな夢を。半ば狂気じみた、浮かれたパーティが続いて、身体が疲れ切っているのだろう。言わば、現実逃避か。
6
ようやく、海岸の岩場に辿り着いた時には、夜明けが近付いていた。マリアも流石に疲れ切って、全身で息を吐いていたが、それでも、何とかテオドルの身体を岸辺に抱え上げた時、マリアは、岩に左腕を傷付けてしまった。
テオドルが眼を覚ますのを、待つつもりなどなかった。自分は人魚、決して人間に知られてはならない。だが長いこと、男の身体を抱えながら必死に泳ぎ、疲れ果てている処へ傷を負ってしまって、思わず腕を抱えて身を縮めた時に、テオドルが眼を覚ましてしまった。
「……人魚……」
今度こそテオドルの眼に、マリアの全身が映った。昇ってくる太陽の光の中で、波打つ金褐色の髪と、恐怖に怯えた緑色の瞳が輝いた。そして先程まで、自分を包んでくれていた白い胸と、青白く輝く鱗とが、幻覚などではない実在の存在を、まざまざとテオドルに見せ付けた。
「待ってくれ!」
逃げようとしたマリアの手首を掴んだ瞬間、再び激痛が走った。男の呻き声に、マリアも思わず振り返った。
「……だい……じょうぶ……?」
恐る恐る、マリアは声をかけた。流石に、テオドルの顔は真っ青だった。
「……夢を、見たのだと思っていた」
岩場に横たわって、テオドルは少し息を吐きながら、改めてマリアを見詰めた。
「本当にいるんだな、人魚って。有難う、君が助けてくれたんだね」
その声に、マリアは頬を染めた。強欲で、凶暴な人間。だが、この人の眼はとても優しかった。
「君の名を、教えてくれないか」
「……マリア」
「わたしはテオドル。テオと呼んでくれ」
だがその時不意に、海岸沿いに建つ巨大な建物の方から、誰かの声が響いた。
「その声はテオか!」
黒髪のあの男が、こちらに向かって走って来るのが、マリアの眼に入った。
「テオ! テオ、返事をしてくれ! お前なんだな、無事だったんだな、テオ!」
「マリア!」
マリアが海に逃げても、傷を負うテオドルには、引き留めることも出来なかった。
「テオ!」
「何とか助かったよ、アウグスト」
マリアに注いだ優しい眼を、今度は、蒼ざめた顔の従兄弟に向けた。
7
「フィオーネ、あなた、マリアを知らない?」
「向こうで、魚達と遊んでいるわよ、姉様」
セレスティアは、深い溜息を吐いた。
「どうしたの、姉様」
「フィオーネ、あなた先日、わたしに隠れて、マリアを海上に連れて行ったでしょう」
セレスティアは、フィオーネを咎めた。
「あれからマリア、すっかりおかしいのよ。三日続けて海上に行って、落ち込んだ様子で帰って来たり、何処で何をしてきたのか、怪我をして帰って来たり。いくらわたしが問い質そうとしても、涙を浮かべて黙り込んだままだし」
「わたし達、貴族の船を見て来ただけよ。何も、悪いことなんかしてないわ」
「それならどうして、マリアはあんなにも、哀しそうな様子をしているのでしょう」
「わたしにもわからないわ」
フィオーネは首を傾げた。
「マリアはあの時、何を見たのかしら」
8
マリアは、周囲に誰もいないのを確かめながら、海岸にそっと上がった。テオドルを助けた、あの岩場の海岸だ。あの時は、無我夢中で海に飛び込んだが、それでもテオドルの身体が心配で、そっと海に浮かぶ岩の後ろに隠れて、黒髪の男が、建物の方から複数の人間を先導し、テオを急いで中に運ぶのを見ていた。あれから何度かこの海岸に来たが、テオドルは一度も姿を見せず、その無事を確かめたくても、マリアにはそのすべがあろうはずもなく、落ち込んで海の底に戻るのが常だった。
本当に助かったのだろうか。テオドルは、とてもひどい傷を負っていた。人間達は、十分な手当てをしてくれただろうと思うが、あれからもう随分と経つのに、テオドルは未だ姿を見せない。とても優しい眼差しで、マリアを見詰めていたが、やはりこのような異質な自分を、受け入れてはくれなかったのだろうか。それともまさか、すでにこの世にいないのでは。
「……マリア」
マリアが不安にかられたその時、あの優しい声が、すぐそばの岩の間から聴こえた。
「テオ」
ずっと沈んでいたマリアの顔に、はにかむような微笑が浮かんだ。
9
「早く君にお礼を言いたかったけれど、流石に傷が深くて、このひと月は、医者に外出を止められていてね」
マリアのそばに跪くと、やや興奮した様子で、テオドルは詫びた。
「だけど、やっと寝台から解放されたから、侍従達の眼を盗んでここへ来たんだ。ここへ来れば、必ず君に逢えると信じていたから」
医者だとか寝台だとか、マリアには訊き慣れない言葉もあったけれど、テオドル自身もマリアに逢いたがっていたと知って、マリアは心から嬉しく思った。
「もう大丈夫なの?」
「ああ、もうすっかり大丈夫だよ。心配かけてすまない」
テオドルは、マリアの手を取った。
「自ら傷を負って、君はわたしを助けてくれたんだね。有難う」
そう言ってテオドルは、マリアの左腕に残る、傷痕にそっと口付けた。思いがけないその行動にマリアは驚き、思わず手を離そうとしたが、テオドルはそれを許さなかった。
「あ、あの」
「逃げないで。君のそばにいたいだけなんだ」
戸惑うマリアに対し、テオドルはますます大胆になっていく。抱き寄せられても、マリアは逃げ出すことも出来なかった。
「……人魚がこの世に実在するなんて、夢にも思っていなかった。なのにまさか、その人魚をこの眼にするとは。人魚に生命を助けられるとは」
マリアの身体が震える。もう、どうしていいのかわからない。
「ずっと、ずっともう一度、逢いたいと思っていた。ずっと、君をこうしてあげたいと思っていた」
テオドルは、マリアを抱く腕に力を込めた。
「……まさかこのわたしが、人魚に恋をしてしまうとは」
マリアはますます動揺し、怯えるばかりだった。そんなマリアの唇に躊躇うこともなく、テオドルは自分の唇を重ねた。
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二人の恋は、急激に燃え上がった。周囲に気付かれず逢うためには、人目のない夜に限られたが、毎夜のように、二人は逢瀬を重ねた。
「恋をするなんて、愚かな行為だと思っていた。いずれは覚めてしまう、くだらない幻想に過ぎないと」
マリアの瞳を見詰めながら、テオは呟くように言った。
「三ヶ月前のわたしなら、今のわたしに、馬鹿な真似はやめろと言っただろう。けれど今は、君に出逢えたことを、生涯最高の幸福だと思っている。船に爆弾を仕掛けた犯人に、感謝さえしているくらいだ」
そう言いながらテオドルは、繰り返し唇を重ねるが、マリアはされるがままだ。思えば初めて、テオに唇を奪われた時には、息が出来ず殺されてしまうかとまで思ったのに。恋はおろか、人間の世界も初めてのマリアに、テオドルはひとつひとつ教え、導いてくれた。
「わたしが怖い?」
気を失いそうなマリアに、テオドルは訊ねた。
「人魚の君に、こういうやり方は性急過ぎるだろうか。けれどどうか、わたしを怖がらないで欲しい。わたしはもう、君を愛さずにはいられない」
そうして今度は、自分を助けてくれた白い胸に、唇を辿らせる。
「でもこんなこと、赦されるはずないわ」
マリアの頬を、ひとすじの涙が流れた。
「いつかは姉様達に、このことが知られてしまう。もし姉様達が知ったら、わたしは海の底に閉じ込められて、もう二度とあなたに逢うことは出来ない」
「そうなれば、わたしも生きてはいけない」
テオドルは慰めるように、マリアの涙を吸い取る。
「所詮は人魚と人間の恋だ、本当に結ばれることが出来るなんて、夢にも思ってはいない。いずれは、現実に引き戻される時がやってくる。けれどマリア、これからたとえ何が起ころうとも、君はわたしを信じていてくれるね?」
「夢なら覚めて欲しくない」
マリアは泣きながら答えた。
「あなたに出逢えただけで、わたしもとても幸福だったのに。あなたの姿を遠くから見詰めることが、何より嬉しかったのに。だけど今は、ずっとあなたのそばにいたい。あなたとこうしていたい」
「わたしとて同じだ、マリア。君を地上に上げることが出来たら、一緒に暮らすことが出来たらと、何度考えたことか」
「もし、それが出来るのなら」
マリアは、テオドルの顔を見上げた。
「ずっとそばにいてくれる? わたしを離さないでいてくれる?」
「当然だ。今だって君を、海になど帰したくないと思っているのに」
泣き崩れるマリアを慰めるように、テオドルは抱擁と口付けを繰返した。
11
「あなたは騙されているのよ、マリア。どうしてそれがわからないの?」
しまいに、セレスティアは泣き崩れた。
「もう二度とその男に逢わないで。人間が、わたし達人魚を愛してくれるなんて、本気で信じているの?」
「姉様」
マリアも先程から俯いたまま、涙を浮かべている。
「ごめんなさい、姉様」
「逢わないわね? わたし達だって可愛いあなたを、陽も差さない、暗い洞窟になど閉じ込めたくはないわ。ね、約束してくれるわね?」
優しい声でセレスティアは言ったが、ようやく顔を上げた妹は、黙ったまま頭を振った。
「マリア!」
その時不意に、イリスの手がマリアの頬に飛んだ。
「イリス!」
「いい加減に眼を覚ましなさい、マリア!」
それまで黙って、姉と妹のやりとりを見ていたイリスは、ついに癇癪を爆発させた。
「どうして、姉様のお言い付けが聴けないの? 内気で臆病だったあなたが、どうしてそんなに頑固になってしまったの? わたしは、セレスティア姉様のように優しくないわ、言うことを聴けないのなら、今すぐあなたを閉じ込めてしまうわよ!」
それでもマリアは口を閉ざし、再び顔を伏せてしまった。
「……マリアには少し、一人で考える時間が必要だと思うわ」
セレスティアが、二人を宥めるように言った。
「ゆっくり考えて、そして答えを出しなさい。あなたが正しい答えを出してくれることを、わたしは信じているわ」
他の姉妹を促して、二人はマリアから離れた。マリアは、姉達が離れてしまっても、顔を上げようとはしなかった。
「マリア」
「フィオーネ姉様」
しばらくして、姉達から離れたフィオーネが、マリアの処へ戻ってきた。
「わたしのそばにいると、姉様達に叱られてしまうわ」
「大丈夫よ。イリス姉様だって、本気であんなこと仰ったんじゃないわ。みんな、あなたが可愛いから心配しているのよ」
その姉達を、マリアは簡単に裏切ってしまったのだ。
「……本気で、あの男が好きなのね」
フィオーネは、マリアに寄り添うように座った。
「確かに姉様達、この頃のあなたの様子を心配していたけれど、まさか、あなたが人間に恋しているなんて、夢にも思わなかったはずよ。馬鹿ね、何だって、そんなことを打ち明けようなんて思ったの?」
「嘘は吐けないもの。それに、いずれはわかってしまうことだもの」
「でも、人間になりたいなんて」
「あの人のそばにいたいの。それにあの人も、本気でわたしを愛しているの。本当よ」
悲痛な声で、マリアは叫ぶように言った。
「どうして、人間を好きになってはいけないの? あの人はとても優しい人よ、わたし、乱暴にされたことなんて一度もないわ。人魚が恋をして、何が悪いの?」
初めて見る妹のそんな姿を、フィオーネは黙って見ていたが、やがて再び口を開いた。
「わたし、あなたに謝らなければいけないわ。先日の夜、わたし、そっとあなたの後を追って、あなたがあの男に逢うのを見ていたの。ごめんなさいね」
マリアは驚いて、姉を見上げた。
「どうして、姉様達にそのことを伝えなかったの?」
「綺麗だったわ、あなた。あの男の腕の中で、とても綺麗だったの。羨ましかったわ、だからとても、告げ口なんて出来なかった」
フィオーネは、妹ににっこり笑いかけた。
「でも、人間になるなんてとても大変なことよ」
「……ええ」
「仮に、本当に人間になれたとして、もしあの男があなたを裏切ったらどうするの? 殺されてしまうかもしれないのよ」
「それでもいいの。それでもわたし人間になって、あの人に逢いに行きたい」
「マリア」
「ごめんなさい、姉様。愚かなことだとはわかっているわ。でもたとえどんなことになっても、わたし、この恋は捨てられない。お願い、あの人の処に行かせて」
マリアはフィオーネを見詰め、フィオーネはマリアを見詰めた。二人がしばらくそうしてから、フィオーネはもう一度、妹に笑いかけた。
「わかったわ、お行きなさい。最初から止めても、無駄だと思っていたわ」
「姉様」
マリアも、初めて笑顔になった。
「だけど、どうやって人間になるの? 地上に上がったとしても、そのまま人間になれるわけではないでしょう?」
「それは……」
当然である。何も知らないマリアが、人間になる方法など知るはずもなかった。
「知っていて? 北の洞窟の中に住んでいる魔女が、昔、人間だったという話」
「本当?」
「本当かどうかまでは知らないけれど、もしかしたらあなたが、人間になれる方法を知っているのかもしれないわ。少なくとも、もう何百年と生きているそうよ」
「姉様、本当に何でも御存知なのね」
「地上へ行く前に、相談に行ってごらんなさい。わたしのことなら心配しないで、あなたの願いが叶うことを祈っているわ」
12
「馬鹿なことをお言いでないよ!」
魔女の声が、洞窟の中に響き渡った。
「人間になりたいなんて、何を馬鹿なことを言い出すんだい。姉さん達の言う通り、その男があんたを騙しているってことが、何でわからないんだね。 悪いことは言わないよ、馬鹿なことはやめて、すぐに姉さん達の処へお帰り」
「もう、帰れません」
マリアの眼は、哀しみに曇っていた。
「わたし、姉様達を裏切ってしまったのです。戻っても、もう以前のわたしにはなれない」
「この深く広い海の中で、最も美しい生きものとして生まれたお前が」
魔女の声にも、悲哀が籠っていた。
「快適な人魚としての暮らしを捨てて、何を好き好んで人間になろうなどと。本当に、馬鹿としか言いようがないよ」
「わかっています。でも、わたし」
「本気で好きなんだね、その男が」
マリアが頷いた。
「怖ろしいね、恋というものは。世間知らずで初心な人魚を、恋の奴隷にさせちまうなんて、その男も罪作りな奴だ。だけどこれ以上、あんたの姉さん達や、あたしがいくら止めたって、もはやあんたを止めることは、誰にも出来ないだろうさ。あんたの眼を見ていればわかるよ」
「おばあさん」
「臆病なあんたが、こんな処までのこのこと、たった一人でやって来るんだもの。生半可な決意じゃないってことは、初めからわかっていたよ」
マリアが笑顔になった。確かに、この魔女が住んでいる洞窟というのは、海藻が生い茂っているだけの、陽も射さぬような場所で、罪を犯した人魚が閉じ込められるという洞窟も、たぶん同じようなものなのだろう。暗く淀んだ氷のように冷たい水の中を、マリアは、恐怖と闘いながらここまで来たのだった。
「だけど、本気なのかね。何度も聴くようだけど、あたしゃ、未だに信じられないよ」
「ええ」
マリアは揺るがない。
「よくわかっています、自分がどんな愚かなことをするつもりなのか。でもここまで来てしまった以上、わたしはもう、あの人を信じて行くしかない。おばあさん、あなたは昔、人間だったと聴きました。教えて下さい、何かわたしにも、人間になれる方法はありますか」
「魔女狩りって言葉を、あんたは知っているかい」
不意に、魔女が訊き返した。
「噂の通り、あたしも昔は、地上に暮らすただの人間だった。そして夫と子供と、貧しかったけど、平凡に幸福に暮らしていたんだよ。夫は、農夫をやっていてね。ああ、農夫というのは畑という処で、人間の食べ物を作る人間のことさ。畑と森以外は何もない、ただの田舎だったけど、あたしらみたいな人間が、村には沢山いた。森っていうのは木が沢山あって、村というのは、人間達が集まって住んでいる処さね」
昔語りを始めた魔女の眼が、遠い記憶を漂い始めた。
「ある時、村に疫病が流行ってね。沢山の人間が、いっぺんに死んでしまった。あたしの夫と子供も罹ってしまって、あたしは何とかみんなを助けようと、森に入って薬草を集め、薬の研究を始めたんだ。みんな貧しくて、医者になんかかかるお金はなかったからね。何とか薬は出来たけど、でももう二人とも手遅れだった。それでも他の人達の役に立ちたくて、みんなに薬を分けたんだが……」
不意に、魔女の眼が怒りに燃えた。
「村人達の一部が、あたしのことを魔女だと言い出したんだ。あたしは牢に放り込まれ、拷問を受けた。拷問ってわかるかい。人間が人間を、半殺しにするんだよ。死ぬような目に遭わせて、でも死なせはしない。何時間も何時間も、あたしは血を流し続けた。あたしが自分を魔女だと認めるまで、奴らはあたしをなぶり続けたんだ」
マリアには想像するどころか、理解出来ないような話だが、魔女の表情からそれが、どんなに怖ろしいことだったかはわかった。
「あたしはただ、みんなを助けたかっただけだ。けれど人間は、特異なことをする者を、煙たがる傾向がある。そして憎む。あたしは、火あぶりの刑に処されると決まったが、幸い、あたしに家族を助けられた者が手引きして、あたしは奇跡的に、牢を抜け出すことが出来た。でも、もう村にはいられなかった。当然だろう、半殺しにされた処になんか、誰がいたいものかね。それに、家族を亡くしていたあたしを助けてくれたって、もはや死ぬこと以外、何も考えられなかった。そのまま火あぶりにされたって、ちっとも構わなかったよ。あたしは死ぬつもりで村を飛び出し、海の上に聳え立つ高い崖に向かった」
すると、魔女がふっと笑った。
「何度も言うようだけど、本当にあたしは死ぬつもりだったんだよ。確かに海に身を投げたんだ、そのことはしっかりと記憶にある。だけどどういうわけかねえ、気付くといつの間にかここにいて、あたしはこんな処で、相変わらず薬を作り続けてる」
「おばあさん……」
「嫌だねえ、あんたは。あたしに、こんな昔話をさせるなんて。いや、あんたが来る前からどういうわけか、時々、あの頃のことを思い出していたんだよ。夫のことも子供のことも、すっかり忘れていたはずなのに、何故か今は懐かしい。あたしを陥れた、村人達ですら懐かしい。あたしは、あんたがここへ来ることを、薄々予感していたのだろうか」
そう言いながら魔女は、洞窟の壁を穿って作った棚に、大小様々の薬壷が並んだ奥から、小さな細い壷を取り出した。
「これは、あたしが人間だった頃の証。あたしが人間を捨てた時に、唯一携えていたもの」
マリアの手に、その壷が渡された。
「人魚が人間になる方法なんて、あたしにもわからない。これもあたしが、夫達のために作っていた薬の残りだ。この数百年、海の底で眠り続けていたものが、今更何かの役に立つかどうか。でもこれだけが唯一、地上の名残を留めるものだ。人魚のあんたに、何らかの効能を授けてくれそうなものはこれしかない」
魔女はマリアの肩に手をかけると、真剣な声で言った。
「わかっているね。あんたは、この世に背くことをしようとしているんだよ。幸福になろうなんて、夢にも考えては駄目だ。あんたを愛している、姉さん達を裏切ったことが、どれだけの不幸をあんたにもたらそうとも、それがあんたの選んだ運命なんだからね」
13
光のない海の底に比べれば、満月の輝く夜空は、明るく美しかった。
今夜は、テオドルと逢う約束はしてはいない。でも姉達から遠く離れてしまった今、もはやマリアには、ここしか来る場所がなかった。誰もいないのを確かめつつ、マリアは岩場に上がった。
テオドルの住んでいる建物も、煌々と灯りが輝いて、いつになく賑やかだ。今夜は、パーティとやらが開かれているのだろうか、人々のさざめきと音楽も聴こえてくる。約束してはいなくても、もしかしたらテオドルも、ここへ来てくれるのではとマリアは思ったが、あの賑やかな様子では、テオドルが、人々の眼をかいくぐって来ることは無理だろう。
「……テオ」
マリアの胸を、深く大きな不安の影が覆う。
「所詮は人魚と人間の恋だ、本当に結ばれるなんて、夢にも思ってはいない」
テオドルの言葉が甦る。そう、マリアとてこの恋が、本当に成就出来るなんて思ってはいない。それでも、テオドルのそばにいたいと、ただそれだけのために、姉達を裏切ったのである。もう、帰る処はない。テオドルの他に、頼れる者もいない。
もし、もしもテオドルがマリアを裏切ったら? 姉や魔女の言う通り、テオドルがマリアを騙しているのだとしたら? あの優しい眼も、抱擁も口付けも、すべてが偽りなのだとしたら?
「それでも、あなたを信じるしかない。わたしにはもう、あなたしかいないの」
マリアは、月を仰ぎ見た。賑やかな建物とは対照的に、月の光と波の音に支配された海岸は静かだった。岩の陰に、隠れるように座っているマリアの心は、孤独と不安が募り、その頬を涙が伝わった。
「……逢いたい。逢いに行きたい、今すぐに」
「いいね、あんたにはもう、幸福を望む資格はないんだよ」
繰り返しそう言っていた、魔女の言葉。そうだ、わかっている。わたしは、幸福になってはいけない。でも、それでもテオに逢いたい。
マリアは、海の底から大事に携えてきた、薬壷を見詰めた。魔女が、人間だった頃に作ったという薬。人間の病を、治すために作られたというこの薬が、本当に、マリアを人間にしてくれるのだろうか。薬を持つ、マリアの手が震えた。これは、賭けだ。この小さな薬壷に、マリアのすべてがかかっている。
意を決して、マリアは薬を飲んだ。ここまで来て、今更引き返すわけにはいかなかった。
だが急に、マリアは激しく苦しみ出した。その手から薬壷が落ち、岩に当たって壊れた。身体中が激しい痛みに襲われ、マリアはその場でのた打ち回った。わたしは死ぬの? 死んでしまうの? テオに逢えないまま、こんな処で死んでしまうの?
幸福になってはいけない。姉達を裏切ったお前に、幸福になる資格はない。その言葉が、マリアの心に深く突き刺さる。
やがて激痛と死の恐怖の中で、マリアは気を失った。
その様子を、岩場の陰から見守っていた者がいた。テオドルの従兄弟、アウグストだ。マリアが倒れてすぐに、アウグストは、その人魚のそばに近付いた。跪き、息をしているのを確かめると、おもむろにマントを脱いで、マリアをそれに包んだ。そして人魚を抱き上げ、建物の方へと向かったが、半ばまで来て急に立ち止まった。
中は相変わらず、いや、ますます賑やかになっていた。「御成婚おめでとうございます、国王陛下!」誰かが叫び、他の多くの人々もそれに唱和した。歌い、踊り、笑いさざめく人々の姿が窓に映る。アウグストは、しばらくそれを見詰めてから、腕の中の人魚を見下ろした。城から漏れる灯りに、マリアの涙が光っていた。
アウグストは不意に踵を返し、建物の裏手に回ると、馬車が並ぶ停車場へ向かった。
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身体が、燃えるように熱かった。激痛はどうにか去ったが、下半身に異様な痛みが残っていた。そして、滝のような汗。いや、それが汗というものだということは、マリアは後に知ったが、一度は口からも血が溢れ、息苦しかった。
「ひどい熱だ」
「一体、何をお飲みになられたのでしょうか。本当に、お医者様にお診せしなくても宜しいのでしょうか」
「人魚を、館以外の人間に見せるわけにはいくまい」
夢うつつに、聴き慣れない誰かの声を聴いた。人魚という言葉に、遠く彷徨っていた意識が呼び戻された。
「気が付いたか」
眼を覚ました途端に、マリアの顔が恐怖に歪んだ。あの黒髪の男の灰色の眼が、マリアのすぐ近くにあった。
マリアは悲鳴を上げた。いや、上げたつもりだった。
「落ち着け、暴れるな。何もしないから」
アウグストが、マリアの腕を抑えた。
「声が出ないのか」
マリアは思わず、口を抑えた。もう一度声を出そうとしたが、もはや悲鳴もうめきも、その口から出ることはなかった。
「一体、何を飲んだのだ。休息を取るために海辺に出たら、お前が現れて、いきなりそこに倒れてしまった。まさか、自殺を図りに来たわけでもあるまい」
たとえ声が出たとしても、マリアには、答えることが出来なかっただろう。アウグストの顔を見ることも出来ず、ただ身体を震わせるばかりだった。
「お前は、あの時の人魚だね」
マリアを落ち着かせるために、アウグストは、囁くような声で言った。
「怖がらなくてもいい。わたしは決して、お前に危害を与える真似はしないから。確かにまさか、人魚を助けるなどとは夢にも思わなかったが」
「御安心下さいませ、お嬢様。この方は、アウグスト様は、とてもお優しい御方でございます。この三日三晩というもの、アウグスト様は、お嬢様に付きっ切りで看病なさっておいでだったのですよ」
「グスタフ夫人だ、この館の家政を任せている」
恐る恐るマリアはアウグストと、そのそばにいる、ふくよかな年配の婦人の顔を確かめた。二人の眼に、マリアの身体を心配している様子が現れていた。
「落ち着いたようだな。何か、欲しい物はないか。いや、人魚はどんな物を食べているのかな」
「まだ、お熱が下がらないのですもの。そのような御気分には、なれないのではないのでしょうか」
だがマリアの眼が、また虚ろな様子を帯びてきたので、グスタフ夫人は、急いで水差しを運んできた。
「水だ、飲めるか」
アウグストがマリアを抱き起こし、グラスを口に当てたが、マリアはぼんやりと、アウグストの顔を見上げただけだった。
それを見て、アウグストは自分の口に水を含むと、マリアの唇に自分の唇を押し当てた。マリアは驚き抗おうとしたが、口にした水を飲んだ時、自分が、ひどく喉が渇いていることに気付いた。そもそも人魚に、食べたり飲んだりする習慣はなく、これは、生まれて初めての感覚だった。マリアは思わず、貪るように水を飲み、その様子にアウグストも繰返し、水をマリアに与えた。
テオドルが、何度も愛しんでくれた唇だ。その唇に、マリアを助けるためとはいえ、テオドル以外の男が触れた。しかもマリアは、それを貪った。何度も、何度も。ようやく喉の渇きが癒えた時、マリアは、その事実に茫然となった。
「ゆっくり休みなさい。大丈夫、何も心配しなくていい。意識は取り戻せたのだから、身体の方も快方に向かうだろう」
アウグストの眼は優しかった、テオドルと同じように。
「この館の者達は皆、心優しい者ばかりだ。安心して養生しなさい」
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しかし、マリアの熱はなかなか下がらなかった。せっかく取り戻した意識も、度々遠くなって、アウグスト達を心配させた。
アウグストの館には、グスタフ夫人と執事のニコラウスを筆頭に、メイドや従僕など使用人が大勢いたが、皆が入れ代わり立ち代わり、マリアの面倒を見てくれた。マリアは殆ど眠ってばかりいたが、少し意識を取り戻すとアウグストは水を与え、グスタフ夫人とメイドが、汗に濡れた身体を拭いてくれた。
「人魚の御方の、お口に合いますかどうかと、料理人が心配しておりますが」
そう言って、ニコラウスがコンソメスープを運んできた。
「飲んでみなさい、少しはお前も栄養を摂らなければ」
アウグストが、水と同じように口移しで与えてくれたそれを、マリアは少しずつ飲んだ。周囲の人々が安堵した表情を浮かべる中、マリアは再び意識を失った。
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それは今まで、経験したこともないほどの深い眠りだった。でも、苦しさはなかった。激痛も、熱からくる身体の熱さも消えていた。人々の、マリアを案じる声も届かないほど、マリアは深い眠りの底にいて、夢さえ見なかった。だからようやく、その眠りから覚めた時も、自分の置かれた状況が把握出来ずにいた。
そこは、見事な装飾が施された部屋だった。マリアは、立派な天蓋付きの寝台に横たわっていた。上等な夜具に包まれ、柔らかな絹の夜着を着ていた。とは言え長い間、殆ど意識がなかったのだし、人魚のマリアには、初めて眼にする物ばかりで、それらがどういう物か、理解出来るようになったのは後のことだ。そばには、誰もいなかった。マリアは、ゆっくりと起き上がってみた。身体は、それまでの病が嘘のように軽くなっていたが、ふと、下半身に違和感を覚えたマリアは、夜具を除けたとたん悲鳴を上げた。
いや、声は出なかった。そうだ、自分は声を失っていたのだ。そんなことも忘れていたほど、深く眠っていたなんて。だがこれは、一体いつ起こっていたのだろう。いつの間にかマリアの下半身は、人間のような脚に変わっていた。
自分はまだ、夢を見ているのかもしれない。そう思いながら、震える手で脚にさわってみたが、触れたのは青白い鱗ではなく、上半身と同じ滑らかな白い肌だ。マリアの眼から、涙がこぼれた。いや、これは自分で望んだことだ。この脚を得るために、マリアは姉達を裏切ったのではないか。姉達も、海での暮らしも、何もかもすべてを捨てて、ただ、愛するテオドルのためだけに人間になったのだ。泣くことは出来ない。
テオ。テオ、何処にいるの? どうしてここにいないの? そばにいてくれると言ったのに。マリアはこれまでにないほど、テオドルが恋しくなっていた。でも今は、その存在はあまりにも遠い。
開け放たれた窓からは、心地良い風が吹き込んでいた。匂いを嗅いでみたが、海の匂いはしない。ここは何処なのだろう。ともかく、今の自分が置かれている状況を、確かめなくてはならない。マリアは恐る恐る、寝台から降りようとした。
だが歩こうとした途端に、脚に鋭い痛みが走り、マリアは倒れた。歩けない。それでも痛む脚を引きずって、窓に向かった。何とか辿り着いて外を覗いたが、マリアが眼にしたのは、花が咲き乱れる美しい庭と、遥か向こうに拡がる広大な森だった。だが、海は何処にも見えなかった。
泣いてはいけないと思っても、涙が溢れてくるのを、どうすることも出来なかった。わたしは、何という馬鹿なことをしてしまったのだろう。あれほど姉達も魔女も止めたのに、どうしてこうなるまで、自分がこんなにも、海を愛していたことに気付かなかったのか。だが、いくら後悔してももう遅い。
「まあ、お嬢様!」
メイドを従えて、部屋に入って来たグスタフ夫人が、泣いているマリアを見付けた。
「お可哀想に、お可哀想に……海が恋しいのですね」
グスタフ夫人も眼に涙を浮かべながら、
「でも、やっとお目覚めになられて本当に良かった。大丈夫でございますよ、お嬢様。何も御心配なさることはございません。お嬢様のことは、アウグスト様がお護り下さいますからね」
「人魚が眼を覚ましたのか」
そこへ、アウグストも姿を現した。
「驚いたな、歩けるのか」
マリアは涙に濡れた顔を上げて、アウグストを見返した。何処となく、テオドルに面差しが似ているが、テオドルではない。テオドルは来ない。何処にいるのかもわからない。
「泣くな、大丈夫だから」
アウグストは、マリアを立たせようとしたが、マリアが脚を引きずりながら、窓まで来たことに気付くと、抱き上げて寝台に運んだ。マリアはその間、ずっと泣き続けていたが、アウグストに髪を撫でられているうちに、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「気分はどうだ、脚は痛むか」
改めてマリアは、アウグストの顔を見詰めた。初めてアウグストを見た時、なんて暗く、冷たい眼をしているのだろうと思った。だからこそ、逃げなければ殺されると思い、助けられた時も恐怖を感じた。でも今、マリアを見詰めているその眼は、テオドルのように優しかった。
「お前はわたしが助けてから、結局、二十日以上も眠り続けていたのだよ。熱はなかなか下がらないし、正直、助からないのではと思ったことも何度かあった。でもスープを飲ませた後は、少しずつ熱も下がっていって……その頃から、お前の身体が変化し始めたんだ。要するに、あの時お前が飲んだのは、人間になるための薬だったんだね」
躊躇いがちにマリアは頷いた。
「生命の危険を冒してまで、何故そこまで……余程のことがない限り、お前がこんなことをするはずがない。誰かこの地上に、お前をそうさせた者がいるんだろう」
マリアの身体が震えた。
「恋人か」
その言葉に、マリアの眼から、再び涙が溢れてきた。顔を手で覆いながら、ようやく頷いた。
「そうか、やはりな。でもそれならば、一日も早く元気になって、恋人に逢いに行かなくてはな」
マリアは驚いて、アウグストを見詰めた。テオに、逢いに行く?
「そのために、お前は地上に上がって来たのだろう」
本当に逢えるのだろうか。テオドルが、何処にいるのかもわからないのに。でも逢いたい。今すぐ、逢いに行きたい。
「すぐに、お食事を御用意致しましょう。料理人が喜びますわ。お嬢様が眼を覚まさないのは、自分が作ったスープのせいなのではと、それは案じておりましたから」
メイドが嬉しそうにそう言うと、
「いや、まずは水を」
そう答えてアウグストは、メイドから、水の入ったグラスを受け取った。それを見た途端、マリアの顔が赤くなった。意識が遠のいていた間ずっと、アウグストに口移しで、水やスープを飲ませてもらっていた記憶が、一度に甦ってきたのである。思わず、首を振って逃げようとしたが、長く病んでいた身体に、抗う力は残っていなかった。それどころか、アウグストの唇を何の抵抗もなく受け入れている自分に、マリアは驚いた。わたしが人間になれたのは、テオではなく、この男の唇のせいかもしれない。そんなことまで考えて、マリアは愕然とした。
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「これがフォーク、そしてナイフだ。それにスプーンも。これらを使って食べるんだよ」
「お魚などは、使っていないとのことです。お肉も控えめにするように、料理人に申し付けておきました」
グスタフ夫人が、アウグストに耳打ちした。アウグストは、マリアの背中から腕を廻し、マリアの手にフォークを握らせた。マリアは、戸惑いながら皿の中の物を見詰め、アウグストを振り返った。
「こうして食べるんだよ」
アウグストは自ら食べてみせてから、マリアを促した。アウグストの真似をして、マリアもフォークでひとつ刺し、口の中に入れると、ゆっくりと噛んだ。
「おいしゅうございますか」
グスタフ夫人が訊ね、マリアが頷くと、メイドが手を叩いて、はしゃぎ声を上げた。
「良かった! キッチンのみんなも、大喜びしますわ。だって本当に、館の人達みんな、お嬢様のことを心配していたんですもの」
アンナという名のその若い娘は、グスタフ夫人から、マリア付きのメイドとして紹介された。
「アウグスト様が、お嬢様をお連れした夜のことは、今思い出しても、本当に夢のようですわ。わたしの家は、海辺の村にあるんですけれど、子供の頃、亡くなった祖母から、よく人魚の話を聴かされていたんです。わたしの祖母は、小さい時に海で溺れて、人魚に助けられたことがあるんですって。その人魚もお嬢様のように、真珠のような綺麗な肌をしていて、金褐色の髪が海の中で輝いていたって。家族は誰も信じていなかったけど、わたしは、祖母を疑ったことなんかありませんでした。だからお嬢様を初めて見た時、これからとても、素敵なことが起こる予感がして、胸がどきどきして……ああ、もし家族がこのことを知ったら、どんなに驚くことでしょう!」
「まあアンナ、あなた、外で余計なことをお喋りしているのではないでしょうね」
グスタフ夫人が顔をしかめた。
「あら、いいえ、お嬢様のことは、わたし達お館に御仕えしている者すべてにとって、絶対護らなければならない大切な秘密ですもの。ひと言だって、喋ったりなんかしておりませんわ」
「その割には貴族の方々の間で、アウグスト様がお館で、お美しい御方を隠しておられると、だいぶ噂になっているようですけれどね」
「え、えーと、そういえばクララの従姉妹が、モーゼン伯爵様の処で働いてるって……それにゾフィーは、ベルナルド子爵様の処のメイドと仲が良くって……」
「あきれたこと、まだひと月も経ってはいないのに」
「周囲には、遠縁の娘を引き取ったとでも取り繕っておくさ」
アウグストも苦笑して、マリアに説明する。
「この通り、うちのメイドはお喋りな奴ばかりだが、皆気のいい連中だ。お前のことも、よく面倒見てくれるだろう」
「もちろんですわ。こんな綺麗な御方のお世話が出来るなんて、夢のようです。アウグスト様の、恋のお遊びの御相手の方達だって、お嬢様の足元にも及びませんわ!」
「これ、アンナ」
グスタフ夫人がたしなめ、アウグストが声を上げて笑った。マリアには、話の内容がよくわからない部分もあったけれど、アウグストの言う通り、この館の者達が皆、心優しい人間ばかりで、マリアのことも、気にかけてくれていることだけは伝わった。
「何も心配しなくていい。身体がすっかり良くなるまで、この館で暮らしなさい」
アウグストがマリアの頬に触れ、優しくそう言った。マリアはそれでも、不安の色を隠せなかった。本当にいいのだろうか。でも、人間社会を知らないマリアには、アウグストや館の人々の好意に甘える以外、この世界で生きていくすべを持たない。
「まずは、ここの生活に慣れることだ。そして、歩けるようにもならなければな」
そこへエリゼというメイドが、大きな薔薇の花束を抱えて入って来た。
「庭師が、お嬢様がお目覚めになられたと聴いて、今朝一番に咲いたのを届けてくれました」
エリゼが、花瓶に入ったそれを枕元に置くと、アウグストは一本抜いて、マリアに差し出した。
「香りを嗅いでごらん。海にも、流石に花はないだろう」
華麗に咲き誇る薔薇の香りに、思わずマリアも顔を綻ばせた。
「お嬢様の笑顔を、初めて見ることが出来ましたわ」
グスタフ夫人が、嬉しそうに言った。それまで、マリアの悲嘆にくれる姿しか見たことのない人々は、一様にほっと胸を撫で下ろした。
「そういえば、お嬢様のお名前は何と仰るのですか」
エリゼが訊ね、アンナも言った。
「人魚の方って、年齢とかあるのかしら」
マリアは困った。人魚に年齢の概念はないが、名前を教えようにも、声を出すことが出来ないのだから。
「マリアという名前はどうだ」
アウグストがさらりとそう言ったため、マリアは驚いて振り返った。何故この人は、わたしの名前を知っているのだろう。
「良い名前だと思いますわ。そう呼ばせて頂いても宜しいでしょうか、お嬢様」
グスタフ夫人に訊ねられ、戸惑いながらマリアは頷いた。その横で、アウグストはアンナに訊ねた。
「お前は幾つになる、アンナ」
「二十一になりますけど?」
「お前は、エリゼ」
「二十歳ですわ、アウグスト様」
「マリアは、お前達より若く見えるな。十七、八といった処か」
「まあひどい、わたし達とお嬢様を比べるなんて!」
二人のメイドが抗議し、グスタフ夫人が笑い声を上げた。
「アウグスト様、国王陛下の御使者がお見えでございます。長い間、王宮に姿をお見せにならないので、陛下が御心配なさっておられると」
次に入って来たニコラウスが、アウグストにそう告げた。
「こちらも手が離せなかったが、あちらはあちらで新婚だからな。邪魔するわけにもいくまい」
「でも即位されたばかりの陛下にとって、アウグスト様は今一番頼りとされる、最も御信頼厚い御方なのですから、時には御顔をお見せ申し上げなくては」
「子供の頃は一緒に泥まみれになって、遊んでいた従兄弟殿だからな。仕方ない、出掛けてくる」
少し大儀そうに、アウグストが立ち上がった。
「気分が良ければ、もう少し食べなさい。いいね、早く良くなるんだよ」
そう言って、マリアの頬に口付けた。その素早い行動にマリアは驚き、部屋を出て行くアウグストを見詰めた。無意識に手を伸ばした頬は、持っていた薔薇と同じ色に染まっていた。
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館の人々の優しさに応えるように、それからのマリアの回復は早かった。普通の人間の食べる量に比べれば、マリアの食事の量はほんのわずかだったが、それでも、人魚が人間の食べ物を食すのであるから、これは特筆すべきことだった。だが、食べた物はやがて消化されて外へ出る。初めて排泄を経験したマリアの衝撃は、食べることに比べたら、天地をひっくり返すより大きかった。
激しく泣くマリアを、アンナは懸命に慰めた。
「これは、人間として自然なことなのでございます。誰もが毎日、していることなのですから」
更にマリアを混乱させ、動揺させたのは、月のめぐりである。若い女性ならば誰にでもあることが、マリアにはどうしても理解出来なかった。ましてや自分が、子供を産める身体になれたのだということが、どうしても信じられなかった。
「人間には、美しい面と醜い面とがある」
姉フィオーネの、言葉を思い出す。覚悟して人間になったものの、それによる代償は、マリアの想像以上だった。
でもそんなマリアを、館の人々は優しく見守り、甲斐甲斐しく世話をした。誰もがマリアの醸し出す、儚く透明な雰囲気に魅了されていた。
アンナは、マリアの夜着を脱がせると、大きなタオルでマリアの身体を包んだ。
「アウグスト様、お願い致します」
「ああ」
大きな衝立の陰で、待っていたアウグストが、マリアの身体を抱え上げた。思わずマリアは、胸にかかったタオルを握りしめ、アウグストの視線から顔を背けた。男性に、肌を見せることが恥ずかしいなどと、人魚であった頃にはなかった感情だ。そんな羞恥心も、いつしかマリアの心に芽生えていた。アウグストは、そのままマリアを浴室に運んだ。浴室ではゾフィーとクララが、入浴の支度を整えて待っている。アウグストはマリアを、そっと湯船の中に入れた。
「お湯の加減は、いかがでございますか」
マリアは不思議そうに、湯船の中を見詰めた。水がこんなに温かいなんて。でも、とても気持ちが良かった。
「終わったら呼んでくれ」
アウグストが浴室を出て行くと、三人のメイドが湯船の周りに集まり、マリアのタオルを外して、身体を洗い始めた。
「もし痛いと思ったら、片手を上げて教えて下さいね。脚の方は大事ございませんか」
「いい香りがしますでしょう、薔薇のオイルを入れましたのよ」
「それにしても、本当になんて綺麗なお肌なんでしょう」
三人とも、すっかりはしゃいでいる。何しろアンナは昨夜、アウグストから、マリアが目覚めたら入浴させ、服を着せてやるよう命じられ、ゾフィーとクララも、それを手伝うよう言われたのだから。
「コルセットなんて必要ないわ!」
入浴の済んだマリアを、今度は化粧室の方へアウグストに運んでもらうと、アンナがきっぱりと言った。
「身体を締め付けるものなんて、マリア様には良くないだろうし、第一こんな細いお腰に、コルセットなんか必要ないでしょう?」
「そうね、ドレスもごてごて着飾ったものより、清楚なスタイルのものの方がお似合いになるわね」
「お化粧もいらないくらいだわ、何度も言うけど、本当に真珠のようなんですもの」
当のマリアは、姿見の前で驚いていた。何しろ、自分の姿を見るのは初めてなのだから。本当にマリアにとっては、不思議な経験の連続である。アンナは化粧箱や宝石箱を開け、ゾフィーとクララは、両手に山のようなドレスを抱えて運んできた。
「首飾りはやっぱり、真珠がいいわね。ダイヤモンドは、きらびやか過ぎるわ」
「マリア様には、どのドレスがいいかしら」
「待って、マリア様にもお訊きしなくては。さあマリア様、どれでもお好きなのをお選び下さいませ。お好みの色などはございますか」
そう言われても、ドレスなど着たことのないマリアには、眼の前に積まれたドレスや宝石に、戸惑うばかりだ。
「何でもいいから早く着せてやってくれ、マリアが湯冷めしてしまうだろう」
隣室で待っているアウグストが、半ば苛立って声をかけた。
「はい、ただいま」
メイド達は急いでマリアの髪をとかし、ドレスを着せた。その間マリアはされるがまま、メイド達が楽しそうに、自分の周りで何かしているのを、不思議そうに見ていたが、ようやく支度が整った自分の姿を、鏡の中に認めた時、再び驚いた。
「よく似合う」
化粧室に入ってきたアウグストも、笑顔になった。髪は特に結い上げもせず、頭の上にリボンを結んだだけだし、淡い青のドレスも、襟元と袖口にレースをあつらったのみで、特に着飾ってはいなかったが、そういう控えめな装いの方がいっそう、マリアの自然な美しさを引き立てていることに、周囲の意見は一致した。
「初めてのドレスの、着心地はどうだ」
マリアはドレスをさわってみたり、真珠の首飾りにも指をふれてみたりして、先程から、姿見の中の自分から目が離せなかった。アウグストも、マリアの横から鏡を覗き込んで、
「本当によく似合う。お前ほど美しい娘には、そう滅多にお眼にかかれないだろう」
繰返しそう言われて、マリアは頬を染め俯いた。
「だが少し、ドレスが大きいようだな」
「あの、アウグスト様」
クララが何故か少し、緊張した面持ちで申し出た。
「御言葉に甘えて、いくつかドレスを選ばせて頂きましたが、アウグスト様の仰る通り、マリア様には少し大き過ぎるようです。急ぎ、仕立て屋を呼ぶつもりではおりますが、新しいドレスが出来るまでには、少し時間もかかるでしょう。こちらの物、わたしどもで直させて頂いても構わないでしょうか」
「そうだな、そうすればいい」
ほんの少しの沈黙を置いて、アウグストはさらりと答えた。
「お前達のおかげでわたしは今、貴族達の間で注目の的だ。いずれはマリアを、公式の場にも連れて行かなければなるまい。マリアを、何処に出しても恥ずかしくないように、お前達で立派な貴婦人にしてやってくれ」
「それでしたら御心配ありませんわ。マリア様でしたら、アウグスト様の恋人を名乗る方達も、裸足で逃げ出されることでしょう!」
ほっとしたようにアンナが言い、ゾフィーもそれに合わせた。
「アウグスト様、御存知ですか。貴婦人方の間でのアウグスト様の評判が、最近すっかりガタ落ちだそうですよ。以前は、女たらしの異名を流していた御方が、今はどんなに美しい女人のお誘いにもつれないって」
「おいおい」
四人が笑い出す。
「外へ出てみようか」
アウグストが、マリアのそばに跪いた。
「外は、暖かくて気持ちがいいよ。お前も、やっと寝台から解放されたし、少しは外の空気を吸った方がいい」
マリアは戸惑った。マリアが、アウグストの館へ来てからすでにひと月余り、その間マリアは、一度も外へ出たことがなかった。
「ぜひ行ってらっしゃいませ、マリア様のお好きな薔薇が満開でしてよ」
メイド達も、はしゃいで勧める。アウグストは、マリアを軽々と抱き上げて、窓から広いテラスに出ると、そのまま庭へ続く階段を下りて行った。マリアは少し怯えた様子で、無意識のうちに、アウグストの胸にしがみ付いていた。だがそこへ、空を飛んでいた小鳥達が二羽、三羽と下りてきて、そのままマリアの肩に留まった。
「すごいな、お前が無害な人魚だってことが、鳥にもわかるんだな」
アウグストが、感心するように言った。マリアも思わず顔を綻ばせ、小鳥をそっと撫でてやった。
アンナ達の言葉通り、薔薇が、今を盛りと咲いていた。アウグストは花園の前の、柔らかい草むらの上にマリアを下ろした。マリアも緊張を解いて、嬉しそうに辺りを見廻し、眼の前の薔薇にそっと手を伸ばした。
「駄目だ、薔薇にじかにさわるな」
アウグストが、マリアの手を取った。
「薔薇には棘がある。お前の部屋に飾ってあるのは、庭師が棘を取ってくれたが、ここに咲いているのは、気を付けないと怪我をしてしまう」
マリアは、アウグストを見詰めた。アウグストは、マリアの手を握ったまま離そうとせず、やはりマリアを見詰めている。その灰色の眼を見詰めているうちに、自分がどれだけ、アウグストに頼り切っているか、マリアは今更ながら気付いた。いつ、どんな時も、海辺で助けられたあの時から、わたしは、この人の腕の中にいたのだ。マリアの頬が染まった。俯いたまま、マリアはアウグストからそっと手を外したが、アウグストは変わらず、マリアから眼を離さなかった。
「海に帰りたくはないか」
マリアの隣に腰を下ろしながら、アウグストがいきなり訊ねてきた。マリアは驚いて、再びアウグストの顔を見上げた。
「いや、こんな質問は酷か。でもやはり、海から遠く離れていては、不安は拭えないな。お前にも仲間というか、家族のような者はいたのだろう?」
頷くマリアの眼に、涙が光った。姉達の、一人一人の顔が心の中に浮かんで、燃え上がるような望郷の念が込み上げてきた。
「わたしにも、昔は家族がいた」
マリアを見詰めていたアウグストの眼が、何処か遠くの彼方に彷徨い始めた。
「両親は早くに死んでしまったが、わたしには妹が一人いた。少々お転婆でも、明るく優しい娘だったが、三年前、やはり事故で死んだ」
マリアははっとして、自分の着ているドレスを見返した。
「そうだ。お前が着ているドレスは、死んだ妹の物だった。いや、そんな顔をしなくてもいい。妹も、お前が着てくれるのならと喜んでいるだろう。ただ、愛する者を失った者の気持ちは、わたしにも痛いほどよくわかる。今頃はお前の家族も、お前を想って泣いていることだろう」
マリアは、顔を上げられなかった。どんなに戻りたくても、もはや戻ることは赦されないのだから。
「こんなことを言ってすまない。それよりも早く歩けるようになって、恋人の処へ行けるようにならなくてはな」
けれど、マリアは哀しく頭を振った。
「何故だ、恋人に逢いたくはないのか」
もちろん逢いたい。テオに今すぐ逢いたい。このひと月、胸を焦がすようなこの想いと、ずっと闘ってきた。でもテオドル、何処にいるのかもわからないのに、人間の世界を知らないマリアにどうやって、その居場所を捜すことが出来るのだろう。いや、そもそもマリアに、テオドルと再会する資格などあるのだろうか。
「わからないな、お前は。恋人と幸福になるために、お前はこうして人間になったのだろう。それならば一日でも早く、恋人の許へ行こうとするのが当然じゃないか。それとも誰か、お前にはもう、幸福になる権利はないとでも言った奴がいるのか」
マリアは驚いて、アウグストを振り返った。どうしてこの人は、こんなにもわたしの心がわかるのだろう。
「誰かは知らないが、わたしはそれは違うと思うぞ。人間だろうと人魚だろうと、誰でも幸福を求めて生きている。マリア、お前も、恋人という幸福を求めて生きている。そしてお前の恋人も、お前という幸福を求めている」
アウグストの言う通りだ。けれど。
「お前のように美しい娘に、およそ心奪われぬ者などおるまい。きっと今頃、お前の恋人も血眼になって、お前の行方を捜しているだろう。お前という幸福をな」
テオが? テオがわたしを捜している?
「恋人の許へ早く戻ってやれ。お前と、お前の恋人の幸福のために」
本当にいいのだろうか。わたしは、幸福になっていいのだろうか。でも今更、テオへの想いを捨て去ることは出来ない。
「だからそのためにも、歩く練習をしなくてはな」
そう言うとアウグストは立ち上がって、マリアの腕を取った。
「立ってごらん、さあ」
マリアの顔が蒼ざめた。脚にはまだ少し、痛みが残っている。
「怖がっていたら、いつまで経っても歩けないぞ。わたしが支えていてやるから、さあ勇気を出して」
アウグストの腕に縋って、戸惑いながら、マリアは少しずつ立ち上がった。こんなことになるとは思わなかったから、マリアは靴も履いてはいなかったが、裸足の足に柔らかな草が心地良かった。
「そうだ、ゆっくりでいい。わたしにしっかり掴まって」
恐る恐るマリアは、脚を前に出してみた。痛みが全くないわけではなかったが、思っていたよりもひどくはならない。アウグストに導かれながらゆっくりと、一歩ずつ前へ前へと進んで行った。
「いいぞ、上手だ」
アウグストが優しく笑う。マリアはその笑顔を見上げながら、これまで、アウグストに護られてきた日々を思い返した。どうしてこの人は、わたしにこんなにも優しくしてくれるのだろう。通りすがりに助けた、何の頼りとするものもない人魚に過ぎないのに。どんなに感謝していても、わたしには、何も返すことは出来ないのに。
「どうした?」
そう問いかけられてから、マリアはぼんやりしていた自分に気付いた。アウグストを見詰めているうち、脚の痛みも忘れていたことに、マリアは顔を赤らめ俯いた。
ふとアウグストの足が止まって、マリアはそのまま、アウグストの胸に飛び込むかたちになった。どうしたのかと、マリアが再び、アウグストの顔を見上げると、アウグストもまた、マリアの顔を見詰めていた。その眼がいつもより深く、熱く、マリアだけを映していることに気付いた時、マリアの唇は、アウグストの唇と重なっていた。
「無理強いはしない、安心しろ」
マリアの身体が、自分の腕から崩れ落ちると、アウグストは静かに言った。
「恋人を忘れられないお前の心に、わたしが入り込む隙はない。それにわたしも、あれだけの観衆がいると、お前を口説くのは流石にやりづらい」
アウグストの言葉に、マリアが思わず振り返ると、館の数ある窓のあちこちに、使用人達の顔が映っているのが見えた。中には、ニコラウスやグスタフ夫人に叱られている者もいたが、マリアの部屋では、アンナが思わず両手を握りしめて、大きな声で叫んだ。
「あん、もうアウグスト様ったら! 清純無垢なマリア様に、正攻法でせまったって拒まれるに決まってるじゃない! マリア様のような御方には、さりげなくそれとなく、接して差し上げなくちゃ」
「あら、でもアウグスト様は、女性の扱いには慣れていらっしゃる御方よ。貴婦人方の時とは、だいぶ違うように思えるけど」
そうクララが言えばゾフィーも、
「マリア様と貴婦人方を、一緒にするもんじゃないわ。アウグスト様がちょっと気のある振りをすればもう、自分がアウグスト様の恋人になった気でいるんだもの、あの方達」
その日は、館の使用人の殆ど誰もが、自慢の主人の恋を、いかに応援していくかで盛り上がっていた。
19
「お上手ですわ、マリア様。あ、ほらそこ、階段があります。落ちたりなさらないようお気を付けて」
翌日からマリアは、歩行の練習に励んだ。脚の痛みは、弱い日もあれば強い日もあって、決してなくなるということはなかったが、ただひとつの想いが、マリアを突き動かしていた。
「たまには王宮に上がって、国王の手伝いもしなくてはならないから」
アウグストはそう言って、ここしばらく、マリアの前には姿を見せていない。
「アウグスト様の亡くなられたお父様は、前国王の弟君でいらっしゃいましたの。ですからアウグスト様も、王族の一人シュナイツェン公爵として、国事のお手伝いをなさることもございます」
何も知らないマリアに、メイド達が色々と教えてくれた。
「国王陛下は、アウグスト様と同じ二十七歳で、まだ御即位されたばかりなので、従兄弟君で幼馴染みでもあられるアウグスト様を、最も頼りとされておられるのです。マリア様のおそばを、離れてしまわなければならないのは、アウグスト様にとっても、心苦しいことでしょうけれど」
そう言いながら、みんなでマリアの顔を覗き込むので、マリアの頬は、その度に薔薇色に染まる。
「そういえば国王陛下も、先日御結婚されたばかりですのよ。陛下は以前から、色々大変な目に遭っていらしたのですけれど、お美しくお優しい王妃様をお迎えになって、とても仲睦まじい御様子なのだとか。おかげですっかり、王宮の中も明るくなってしまわれたそうで、アウグスト様も、ようやく胸を撫で下ろすことが出来ますわね」
「マリア様も、いずれは王宮に上がって、国王陛下に拝謁なさる機会もあるでしょう。その時にはきっと、国王陛下も他の貴公子方も皆、マリア様の恋の虜になってしまわれること、間違いなしですよ。ああそうなるとアウグスト様は、そちらの方でも嫉妬の的になって大変でしょうね」
「今もですわ。何しろあの通り美形で背もお高くて、女性にもお優しいのに未だに独身でいらっしゃるから、我こそはとアウグスト様を狙っている貴婦人方は、それこそ数知れずなんですの」
「わたし達貴族の、お館に仕えるメイド達の間でも、このお館に仕えることは、一種のステイタスになっております」
「自分こそ、未来のシュナイツェン公爵妃などと嘯く方々に、マリア様を早くお見せしたいですわ。きっとみんな、裸足で逃げ出すこと間違いなしですよ」
「先日呼んだ、仕立て屋も驚いておりました。マリア様ほどお美しいお嬢様に、これまでお眼にかかったことはないって」
「ですからマリア様も、アウグスト様に喜んで頂けるよう、早く歩けるように頑張りましょうね。わたし達もお手伝い致しますから」
アンナ達も、マリアにはすでに、恋人がいるということは知っているはずであるが、アウグストに仕えている身であるアンナ達は、そのようなことを全く気に留めている様子がない。むしろそれがどうしたと言わぬが如きで、何かとこうして、マリアをアウグストのそばにと働きかけてくる。
それはあくまで、アンナ達の親切心から来ているものであることは、よくわかっているけれど、テオドルへの、切ない想いを抱えたままのマリアには、アウグストの想いに応えることは出来ない。こんな自分がいつまでも、この館にいるわけにはいかない。一日も早く歩けるようになって、テオを捜しに行かなければ。だからマリアは、歩く練習を始めたのだ。
練習の相手は、主にアンナが務めてくれた。最初はマリアの部屋で、寝台から立ち上がり、そばの椅子に座るまでの短い距離から、やがてはテラスに出て、庭を眺められるようになるまで、マリアは熱心に続け、壁や手すりに頼りながらではあったが、わずかの間に自分で歩けるようになった。
「素晴らしい上達振りですわ、マリア様。アウグスト様も大喜びなさいますよ」
何かとアウグストの名を口にするので、マリアとしては苦笑するしかないのだが、そこへ当のアウグストが現れた。
「まあお帰りなさいませ、アウグスト様。一週間もお留守になさって、マリア様がとても寂しがっておいででしたのよ」
そんなことはないと言いたいが、声の出ないマリアには、頬を染めて俯くしか出来ない。
「随分歩けるようになったな」
アウグストもマリアを褒め、微笑んだ。手すりにしがみ付いてはいるのだが、傍目からは手すりに寄り添って、庭を眺めているようにしか見えない。
「アウグスト様、わたしこれからクララを手伝って、マリア様のドレスのお直しをしなければなりませんの。マリア様の練習の御相手、代わって下さいな」
「別にわたしはお前達に、取り持ってくれなどと頼んでないぞ」
アウグストに頭を軽く小突かれて、アンナがぺろっと舌を出す。マリアへもウインクしながら膝を屈めると、大急ぎでその場を離れた。
「……全く」
あきれるように呟いて、アウグストは、マリアのそばに近付く。マリアは、顔を上げることが出来ない。
「気にするな。前にも言ったが、わたしは恋人のことを、そう簡単に忘れられるようなお前ではないことは、よくわかっている」
アウグストはマリアの手を取り、テラスの椅子へ導いた。
「座りなさい、疲れただろう」
そう言いながら、アウグストも隣の椅子に腰かけて、話を続けた。
「歩けるようになれたら、次はワルツの練習をしなくてはな。それに、行儀作法も学ばねばならん。以前にも言った通り、近いうちにお前を王宮へ連れて行こうと思う」
マリアは顔を上げた。王宮へ?
「驚くことはないだろう。アンナ達のおかげでわたしは今、貴族の間で注目の的だということは、お前も聴いているはずだ。皆、わたしが館で世話している姫君とは、どのような御方かと、興味津々で訊いてくる。亡くなった母の、遠縁の娘だと言っているのだが、貴族どもの関心は、今やお前一人に集中していて、やはり一度はお前を王宮に連れて行かなければ、騒ぎにでもなりそうだ」
そして何故か、忌々しそうに横を向いた。実は今、アウグストはその貴族、特に貴婦人方にうるさいほど付きまとわれて、いささか辟易気味なのである。我こそアウグストにふさわしいと思い込んでいた、貴婦人方の前に、突然ライヴァルが出現したのだ。貴婦人の誰もが、マリアに関心というより、嫉妬の炎を燃やさないはずがなかった。
「怖がることはない」
不安そうな表情を浮かべて、再び俯いてしまったマリアの頬に、アウグストはそっと手を伸ばした。
「来月、国王主催の舞踏会がある。そこへ、お前を連れて行くことにしよう。お前なら、誰もが一度で魅了される」
そうは言われても、マリアはアウグストや、この館の者以外の人間と接したことはない。メイド達の話によれば、王宮には、沢山の貴族達が常に伺候していて、美しい貴婦人や貴公子が、その華を競っているという。海でも、いつも姉達の後ろに隠れてばかりの、内気で臆病な自分が、想像することも出来ない未知の世界で、果たして耐えられるのだろうか。
「……お前の恋人に、逢えるのかもしれないぞ」
静かな声で、アウグストが囁くように言った。
「王宮へ行けば、若い貴公子も沢山いる。その中に、お前の恋人もいるかもしれない」
マリアは再び顔を上げて、アウグストの顔を見詰めた。テオに、本当に逢える?
「確実とは言えないが、可能性があるのならば、自分で確かめるしかないだろう。どうだ、それでも行くのは嫌か」
マリアが頭を振った。その眼には涙が光っている。テオに逢えるかもしれない、マリアの心はそれだけでいっぱいになった。
「よし、決まった。明日から早速、ワルツの練習を始めるぞ」
アウグストは再び、マリアの手を力強く握りしめた。
「先程エリゼに聴いたが、お前の脚の痛みも、だいぶ治まってきたそうだな。傍目から見ていると、脚が不自由などとはとても見えない。わたしが教えるから、お前はわたしに付いてくればいい」
顔を覗き込んでくる、アウグストの優しい瞳に、マリアは頬を染め、その視線をそらすように俯いた。この館へ来てからのマリアは、何か言われる度に頬を染め、俯くのが癖になってしまっている。言葉を失ったマリアには、そんな風に、身振りでしか気持ちを表現することが出来なかったけれど。
「どうした?」
いつもならそれとなく、アウグストの手をそっと外してしまうのに、今日のマリアは少し躊躇ってからおもむろに、アウグストの手をそっと握り、その掌に、自分の指先で何かを書いた。
「……『有難う』」
そこに書かれた言葉を読んで、アウグストは呟くように訊ねた。
「アンナにでも、教わったのか」
マリアは、はにかむような笑顔を見せた。先日、マリアの朝の支度を手伝っていたアンナが、
「マリア様、アウグスト様からグスタフ夫人宛てに、お手紙が届いたそうです。王宮の方が忙しいので、こちらにお帰りになるのが、少し遅れてしまうそうですわ。早くお帰りにならないと、マリア様がお寂しくて泣いてしまわれますと、そうお返事して下さいって、わたし申し上げたんですよ」
からかわれたことよりも、初めて聴く手紙という言葉にマリアが反応すると、
「そうですね。人魚の方達は、手紙とか文字とか御存知ないのですものね」
こうしてマリアは声の他に、自分の気持ちを相手に伝えるための、もうひとつの方法を知ったのだ。
「嫌だわ、わたしなんかの下手な文字で、マリア様にお教えするなんて」
そう言いながらも、アンナが教えてくれたのが、『有難う』という言葉だった。
「……お礼が、ずっと言いたかったのか」
もう一度、マリアがはにかむように頷くと、アウグストは、珍しく戸惑った顔を見せた。
「……別にわたしは、礼を言われるようなことをしたつもりではないのだが」
不意に、アウグストが黙り込んでしまったので、マリアは首を傾げた。瀕死のマリアを助け、食べる物やドレスを与え、ここまでマリアが回復出来るようになれたのは、すべてアウグストのお蔭ではないか。これまで感謝の気持ちを伝えるすべを知らなくて、マリアはずっと、心苦しい思いをしてきたのに。
「他には、何か教わったのか」
しかし、すぐに元の優しい笑顔を見せて、アウグストが訊ねると、マリアは首を振った。
「そうか、ではわたしが教えてあげよう。これが、お前の名前の『マリア』」
アウグストがマリアの掌に名前を書くと、マリアもアウグストの掌に真似て書いた。
「そう、そしてわたしの名前の『アウグスト』」
マリアは何度も、『マリア』『アウグスト』と書いてみせた。声を失った自分でも、こうして少しずつ、誰かに自分の言葉を伝えられることが、素直に嬉しかった。
「アンナも褒めていたが、お前は本当に上達が早いな、マリア。これならワルツも礼儀作法も、すぐに習得してしまうだろう」
頬をそっと撫でられ、マリアはまたも頬を染めたが、今度は逃げようとしなかった。はにかんだ笑顔を浮かべたまま、素直にアウグストへの感謝の気持ちを伝えようとした。
「お茶をお持ち致しました、アウグスト様。あ、あらあ」
「マリア様のショールもお持ちしたんですけど……嫌だわあ、お邪魔しちゃったみたい」
ゾフィーとエリゼの素っ頓狂な声に、アウグストは苦笑する。
「馬鹿、わざとらしいぞ」
幸福という言葉が、マリアの頭をよぎる。柔らかな木漏れ陽と心地良い風、そしてアウグストの手の温もり。それらが優しく、マリアの心を包み込む。
でも。
「いいね、あんたにはもう、幸福を望む資格はないんだよ」
魔女の言葉は、今もマリアの心に、深く突き刺さっている。
20
その日は朝から、館に仕えている者すべてが盛り上がり、興奮を抑え切れずにいた。館の何処かで、誰かが誰かとすれ違えば、マリアの話になった。それくらい、マリアの社交界デビューは、誰にとっても大切な、重大イベントだった。
午後になるとマリアは入浴し、アンナとエリゼが念入りに肌を洗った。化粧室ではゾフィーとクララが、マリアのドレスやアクセサリーなどの準備に追われていた。一度アウグストが顔を出して、
「わかっているな。あまりマリアに、負担をかけるようなことはするなよ」
「心得ております。アウグスト様も早く御仕度をなさって、マリア様を御待ちになっていて下さいな」
二人ともいつになく苛立った様子で、アウグストを部屋から追い出してしまった。
「女はやはり怖いな」
廊下にいたニコラウスに向かって、アウグストも思わず苦笑を浮かべた。
出掛ける時間になって、先に支度をすませたアウグストが、玄関ホールに出てきた時、そこには館の殆ど誰もが、華やかに着飾ったマリアをひと目見ようと集まってきていた。そして、待ちかねていた人魚姫がようやく姿を現した時、皆がそろって感嘆の声を上げた。
アンナに手を引かれ、他のメイド達を従えて、ゆっくり階段を下りてくるマリアの姿に、ある者は息を呑み、ある者は恍惚となった。その人々の中を、やはりゆっくりとマリアに向かって階段を上がりながら、アウグストは優しく微笑んだ。
「美しいよ、マリア。わかるか、今ここにいる者達のすべてが、お前に恋している」
アンナからマリアの手を受け取って、その手に口付ける。
「驚かなくていい。紳士の役目はこうして、最高のレディに付き添い、護衛するものだ。不安だろうが、何も心配することはない。わたしのそばを離れないようにしていれば、わたしがお前を護るから」
緊張した面持ちのマリアの顔に、はにかんだような笑顔が浮かんだ。そっと、アウグストの手を取る。
「『有難う』か。お礼を言わねばならないのは、むしろこちらだな。こんな美しい人魚姫をエスコート出来るとは、またとない光栄だ」
アウグストも、マリアの手に何かを書く。
「『麗しの人魚姫』。お前のことだよ、マリア」
エリゼが携えてきたコートを受け取り、アウグスト自ら、マリアの肩にそれをかけてやると、再びその手を取って自分の腕に回す。
「脚はどうだ、痛むか」
マリアはそっと頭を振って、もう一度笑顔を見せた。
「行ってらっしゃいませ、アウグスト様。マリア様もお足元にお気を付けて、どうぞ楽しんでおいでなさいませ」
ニコラウスが声をかけ、他の者も和して二人を送り出す。
「行ってらっしゃいませ」
馬車が二人を乗せて走り出し、マリアの好きな花園を抜け、森の中を駆け抜ける。すると、マリアの顔が緊張に少し強張り、アウグストが手を握った。
「初めて、館の外へ出るのだからな」
館の大きな表門を出ると、長い並木道が続いていた。
「向こうに灯りが見えるだろう、あそこが村だ。その周りにあるのが、畑と牧草地」
夜の帳が降りようとしている中、様々な風景が入れ替わるようにマリアの眼に映り、アウグストはそれらをひとつひとつ教えた。馬車は村を通り街を抜けて行ったが、やがてマリアの耳に、懐かしい音が聴こえてきた。
「そうだよ、海だ」
アウグストは静かに答えた。思わず、馬車の窓にしがみ付いたマリアの眼に、涙が浮かんだ。こぼれないようそっと抑えていると、アウグストが、マリアの肩に腕を廻してきた。
けれども、その海岸沿いに走る道の向こうにある、大きな街と海に囲まれた、巨大な建物を眼にした時、マリアの身体が小刻みに震え始めた。
「あれが王宮だよ」
そう言った、アウグストの言葉が信じられなかった。これは嘘だ、夢を見ているに違いない。まさか、テオのいる建物というのが王宮だったなんて。
21
国王主催の舞踏会というのは、実に大掛かりなもので、沢山の貴族が詰めかけるが、今夜は特に、国中の貴族達がすべて集まったかのようだった。何しろ以前から噂になっている、アウグストが世話しているという娘が、初めて王宮に来るというので、誰もが興味津々、特に貴婦人達は猛烈な対抗心を燃やして、その登場を待っていた。
だが、表玄関からかけられてくるはずの「シュナイツェン公爵おなり」という声は、なかなか聴こえてこない。遅刻なのかと思ったがそうではなく、公爵を迎えた侍従達は誰一人、声を出すことが出来なかったからである。公爵に付き添われた、娘の美貌に圧倒されて。
圧倒されたのは、貴族達も一緒である。マリアは内心、動揺し緊張して、今にも倒れそうだったが、右腕をマリアの腰に廻し、左手でマリアの同じ左手を取ったかたちで、アウグストに支えられていなければ、実際、その場に倒れていたかもしれない。テオドルがいる王宮に来たということで、マリアは、身体が震えてくるのを必死になって堪え、顔は蒼ざめていた。だが、マリアが震えていることに気付いた者は、誰一人いなかった。少し俯き加減で、アウグストに護られながら、歩く姿には品があったし、誰もがマリア自身の美貌と、アウグストの、誰も寄せ付けない雰囲気に、ただただ圧倒されてしまっていた。
貴婦人達の誰かが、マリアの欠点をあげつらおうと思えば、出来たかもしれない。髪は結い上げもしなければ、巻いてもおらず、アクセントに少し編み込んであるものの、波打つ長い髪は下ろしたままである。おまけに貴婦人には必需品の、コルセットもしていない。髪を結い上げ、コルセットを身に付けることは、大切なエチケットでもあるのに。
だが、あんなに細い腰に、コルセットなどかえって不釣り合いだし、髪と柔らかい色のドレスには、今朝庭師が摘んだ、生花がまるでマリアの身を飾ることに、大きな誇りを感じているかのように、今も生き生きと咲き誇っていた。それに何と言っても、身に付けている真珠のような、透き通るほどの白い肌に、化粧など全く無意味だろう。
朝早くから厚化粧を施し、大きな宝石とコルセットを身に付け、ごてごてと着飾った重いドレスを着るという、何とも人工的な美容法しか知らなかった貴婦人達は、アウグストの、この娘を侮辱する者は許さずという無言の脅しにも押されて、先程まで燃え上がらせていた、対抗心と嫉妬心も何処へやら、ただ茫然と見ているしかなかった。
二人はそうして、王宮の者達の視線をすべて集めたまま、大広間の中央を玉座に向かって歩いて行った。
「あちらにおられるのが、国王夫妻だ」
アウグストが、マリアの耳元に囁く。マリアの緊張は、最高潮に達した。テオは、一体何処にいるのだろうか。緊張で顔を上げられなくて、貴公子達を見返すことも出来なかった。アウグストに言われ、そのまま玉座の前で腰を屈める。
「お招き頂き有難うございます、国王陛下」
「よく来てくれた、アウグスト……いや、シュナイツェン公爵」
心なしか、震えているようにも聴こえたその声に、確かに聴き覚えがあった。見上げれば果たしてそこに、あんなにも逢いたいと思っていた人の姿があった。
22
「なんて綺麗な御方でしょう。まるで夢を見ているようですわ」
カロリーネ王妃は、些か興奮気味だった。
「先程、あなた方が入っていらした時、ここにいる皆様が全員、圧倒されてしまわれたのにお気付きになりまして? 本当に、こうして御二人を前にすると、言うべき言葉を失ってしまいますわ……嫌だわ、ごめんなさいね。わたくし一人ではしゃいでしまって」
「いいえ、王妃様。マリアもあなたに逢えて、心から喜んでおります」
アウグストは、マリアを支える腕に力を込めた。
「残念ながらマリアは、病気で声を失いまして。御二人とお話しすることは、不可能なのですが」
「まあ、お気の毒に! こんなに愛らしい御方なら、どんなにか、お美しい声でいらしたでしょうに」
「有難うございます」
マリアは、先程から震えが止まらず、テオドルの顔を見ることも出来なかった。一方のテオドルもただ茫然として、マリアの顔を見詰めるばかりだった。
「陛下、あなたも、マリア様に魅了されてしまったんですの? 嫌ですわ、ずっと見詰めていらっしゃるのね」
「いや、そういうわけでは」
王妃にからかわれ、更に狼狽の色を濃くする。
「妬けてしまいますわね。でも、仕方ありませんわ。このように美しい御方を前にしては、誰もが、マリア様に恋してしまいますもの。公爵様も、魅了されていらっしゃるのでしょう?」
「ええ、近いうちに結婚するつもりです」
アウグストはさらりと言いのけ、驚いたマリアを、国王夫妻の面前で力強く抱きしめた。
「数ヶ月前の話ですが、この娘を騙そうとした輩がいましてね。そのためにマリアは毒を飲まされて、死にかけたのです」
「まあ! 何てひどい」
「何とか生命はとりとめましたが、声を失い、一時は歩くことも出来なかった。本当にひどい話です」
「マリア様のような御方を騙すなんて、本当に信じられませんわ。だから公爵様は、いくら陛下が使者をお送りしても、王宮に御出で出来なかったのですね」
「ええ、でもこれからは、わたしがそばにおりますから。二度と、そのような目に遭わせたりはしません」
マリアは、アウグストの腕の中からその顔を見上げ、恐る恐る、そっとテオドルの方を見返した。テオドルは顔を強張らせ、二人の姿を見詰めたままである。
「御二人が結婚なさったら、わたくしとマリア様は、義理の従姉妹ということになりますわね。嬉しいわ。わたくしね、故国では、歳の離れた兄しかいなかったので、ずっと、可愛い妹が欲しいと思っておりましたの。お嫌でなければマリア様を、妹と呼んでも宜しいかしら」
「有難うございます。王妃様の妹となれば、マリアを害する者も怖れるでしょう」
「今度ぜひ、わたくしのお茶会にいらしてね。姉として、大切におもてなし致しますわ」
「大丈夫か、マリア。また熱が出てきたのか」
マリアの手から、扇が落ちた。だがマリアは、テオドルの視線に耐えられず、アウグストの胸に顔を埋めていた。
「まあ、御顔が真っ青だわ。ごめんなさいね、あまりにも御二人がお似合いなので、見惚れてしまって」
「来たばかりで失礼ですが、少し休ませて頂きます。病み上がりの上に、初めて国王御夫妻にお逢いしたものですから、緊張してしまったのでしょう」
アウグストは国王と王妃に一礼すると、マリアを抱き上げ、再び大広間の中央を足早に歩いて行った。結局貴族達は、アウグストとマリアに圧倒されたまま、茫然と立ち尽くすのみだった。
23
勲章で飾り立てた、上着とマントを椅子に放り投げて、アウグストは窓から外を眺めた。外はすっかり暗くなっていたが、城から漏れる灯り越しに、岸に打ち寄せる波が見えた。
「ここから、お前が倒れていた海岸が見える」
呟くようにそう言って、アウグストは、マリアの方を振り返った。
マリアは、寝台の上で激しく泣いていた。こんな時ですら、声の出せない自分が情けなく、あまりにも辛い現実を、受け入れることが出来なかった。だが、これは罰だ。やはり自分は、幸福になることは決して赦されない。姉達を裏切り、海を捨てた人魚は、恋など赦されないのだ。
「まさかお前の恋人が、テオだったとはな」
アウグストは、泣き崩れるマリアの横に腰を下ろし、その顔をこちらに向けた。
「可哀想に。お前が地上に上がったあの日が、テオの結婚式だったんだよ」
マリアが一瞬泣き止み、茫然となった。
「わたしの従兄弟が、お前のように純真な娘を、騙すような奴だとは思わなかった」
騙された。捨てられた。そばにいてくれると言ったのに。愛していると言ったのに。
「忘れてしまえ、あんな男など」
忘れられるなら。そんな簡単に忘れられるくらいなら、初めから恋などしなかった。
涙にくれるマリアの額を、アウグストが口付けた。そして、その唇は涙に濡れた頬へ、マリア自身の唇へと移り、やがてマリアは、泣くどころか息さえ出来なくなった。
これまで何度も、アウグストとも唇を重ねてきた。マリア自身、自ら貪ったこともある。だが、こんなにも激しく求められたのは初めてだった。逃げようとしても逃げられず、抗おうとしても抗えない。アウグストの腕がマリアの背中に廻り、ドレスのボタンを外し始める。マリアが混乱しているうちに、アウグストはやすやすと、マリアを一糸纏わぬ姿にしてしまい、ドレスを床に放り投げた。
マリアの涙が止まり、恐怖に震え始めたその滑らかな白い肌を、アウグストの唇と指が辿り始めた。テオドルにも口付けられた胸のふくらみを、アウグストはその手に掴み、激しく味わった。抵抗しようとしたマリアの手は、それも出来ずにシーツを握りしめるばかり。
声を失った身は、どうすればやめてくれと伝えられるのだろう。アウグストの手は唇と共に、マリアの肌を貪り続け、マリアの指は、シーツを握ったまま震えている。首を左右に振り、背中を大きく仰け反っても、アウグストはやめるどころか、ますます激しく求めてくる。
更にアウグストが、マリアの脚の間の秘められた処を貪り始めると、マリアの頭の中は真っ白になった。声の出ない唇が「やめて」と叫び、涙が溢れて止まらなかった。それでも、アウグストは赦してくれない。この時ほど、人間の脚を得た自分を、後悔し呪ったことはなかった。やがて、声なき声で泣き叫ぶ力も尽き果てた時、マリアの身体に、これまで味わったことのない痛みが走った。
それは、海岸で薬を飲んだ時よりも、月のめぐりを初めて経験した時よりも、激しく強くマリアの心を引き裂いた。衝撃の果てに、マリアはただ茫然として、アウグストの顔を見詰めた。そんな、マリアの流れ落ちる涙を拭いながら、アウグストはもう一度言った。
「テオのことなど忘れろ。わたしが忘れさせてやる」
そうして再びマリアの唇を、肌を貪り尽くす。
忘れられるなら。そんな簡単に忘れられるくらいなら。
初めから、人間になろうなどとは思わなかった。