落下する女
その道のすぐ傍には蔦が生い茂たような茶色い石垣がそびえていて、それを挟んだすぐ向こう側には、こちらの道を見下ろせるような、大きな団地が二棟ほど連なって建っていました。あの団地を見るときはいつも夕方だったので、どうにもその寂しげな佇まいばかりが印象に残ってしまっていたのですが、石垣につくられた門から出てくる、子どもの手を引いた女の人の姿も見かけたりと、やはりある程度は人が住んでいたのだろうと思われます。だからこそ、僕がその女を見たとき、それがまったく誰もいない廃墟であったならむしろ納得がいっただろうにと、その団地の存在それ自体に、どこか異様な雰囲気はありました。
僕がその女を見たのは、暗がりと橙のあいだにあるような夕闇の押し迫る時刻、ちょうど学校帰りにあの団地を通り過ぎた、いつもの通りの頃合いでした。僕は普段は俯きがちに歩いている性質でしたから、その姿を見たのは、本当の本当に偶然だったのだと思います。
無造作に転がった石を蹴り飛ばしていた僕の耳に、突如悲鳴が突き刺さりました。
僕がさっと顔をあげると、あの団地の最上階、中央あたりの部屋のベランダに黒い服を着た女の人が立っていて、長い髪をゆらゆら揺らしながら、その欄干を乗り出そうとしていたのです。僕はすぐに石垣を分け割くようにして開かれた団地の入り口の門をくぐり、その女の人のすぐ下に駆けつけました。僕にはそれが、何らかの不手際があって落ちそうになっている姿に見えたのです。
それから女は数十秒とうめき声をあげ、何度も悲鳴を降り注がせました。僕はずっと上を見上げ、その女の姿を見つめることしかできませんでした。団地には夕暮れの怪しい輝きが、女の黒いシルエットとあまりにも対照的すぎて、その女の影が揺らめくたびに、まるで異形の存在があの団地から今にも飛び出そうとしているのではないかと錯覚してしまうほどでした。女の動きは、左右にぐわんぐわんと動き、ぴたっ、と止まったと思うと、今度は大きな悲鳴を上げながら髪を掻き毟ります。一瞬だけ髪をかきわけたその瞬間、僕は女の表情を見ました。僕はぞっとしました。目は充血し、あまりにも自分の爪で頬を引っ掻くから、頬の肉がそがれて、血がどろどろと流れ出していたのです。口は開けっ放しで、まるで何かを訴えかけるかのように、何度も開け閉めを繰り返し、その穴のように空いたほの暗い口の奥から、鋭い悲鳴を何度も何度も喘ぎ続けるのです。
もし彼女が落ちてきたら、どうにかして受け止めよう。そう思っていた僕も、狂ったようにベランダでうごめく女の姿に恐れをなし、先ほどそこまで駆けつけた際の小さな意思は少しずつしぼんでいきました。それよりも、とにかく何か、あの女はまずいのだと、心のうちから呼びかける何かがありました。
その時でした。
僕がやってきたあの石垣の門から、初老の男がやってきました。僕は男に駆け寄り、あの女を指さしながら訴えます。「大変です。あの女の人、様子がおかしいんです」僕は半ば強引に男の腕に縋りつきましたが、男は女を一瞬だけ見ると、遠くのものを見るように目を細めて、それから僕に視線を戻し、嫌な目つきをしました。
「帰れ」
「ま、待ってください……帰れって……、あの女の人、助けた方が……」
男性は僕の腕を振り払い、団地の奥に消えて行きました。僕を無視するような、帰れというその言葉だけで、それが通じない僕を煩わしいと切り捨てるような、そんな目つきをしていました。彼の影が消えた後、思い出したように女の叫びが響き、僕は恐ろしくなりました。あの異常な女も、あの女を見て、帰れなどと一蹴してしまったあの男も…………それに、石垣の向こうを歩いていた僕でさえ駆けつけたというのに、この団地は、いつまでも静かに佇んでいるだけで、どこの扉さえ開く様子がない。あれだけの叫び、悲鳴だというのに、どうして誰も様子を見に来たりしないのか…………帰れ…………先ほどの男の言葉が、悲鳴と重なるように頭で浮遊し始め、心臓を何度も殴打しました。まるであの女を、見て見ぬふりしているかのような。……あの男の姿勢と同じように、この団地全てが、その存在を持って、あの女を黙認しているかのような……そんな静けさが、僕にはおぞましかったのです。
僕はあの女をもう一度見上げました。女はまるで、とにかくベランダから飛び出したいかのようで……欄干にしがみ付き、その手をとにかく向こうへ向こうへと、いつまでも蠢いていました。その指は皮がぼろぼろになって痛ましく、爪も剥がれ、赤い血のようなものが滴っていました。……そして、勢いよくベランダから飛び出そうとした際、あの女の脚が見えた気がします。縄のようなものが、見えて…………。それから僕はしばらくそれを見つめるだけで、あの女に声を掛ける勇気も、なんとかしなければという心も、すっかり委縮してしまいました。僕は恐ろしくて、門と女を何度も視線を行き来して、最後には……門から逃げてしまいました。
僕は、あの悲鳴をどうにかして頭から振り払うようにとにかく走って家に戻りました。しかし、どれだけ走っても、例えどれだけあの団地から離れても、まだあの女のうめき声が、耳にこべりついていました。まるでベランダを乗り越えたいかのような……そう、まるで、落ちたがっているかのような、あの女。
今でもまだ、あの女のことは忘れられません。
■
私の妻には、異常な癖がありました。
なんと言ったらいいのか……。
そう、ですね……彼女はどうやら……転落することに快楽を感じる性質だったのです。
私がそのことに気付いたのは、あの団地に引っ越してきてすぐのことでした。件のベランダで洗濯物を干していた妻は、誤って一度外に落下してしまったのです。その時は布団も一緒に落ちたこともあり、また柔らかい地面であったのも幸いして、軽い捻挫で済んだのですが、私がすぐに彼女のところに駆けつけた時、妻は笑っていたのでした。妻は私に抱き起こされて、言いました。気持ちよかったと。
その頃からです。
妻は事あるごとに高いところから落ちようとするようになりました。私が夕食を作っていながらふと目を離すと、彼女がベランダに脚を掛けて、今にも乗り越えようとしている。私がやっと仕事を終えて帰ってくると、妻がベランダから落ちていて、団地の住人の皆さんに囲まれていたこともあります。その時は指の骨折で済みましたが、落下はそれだけではありませんでした…………十二回、十二回です。その度に病院に連れて行き、治療するのです……一度、精神病院に連れて行ってもらいましたが……異常がないと言うのです。私はどうしようかと、散々悩みました。その最中にも、妻は言うのです。
落ちたい、落ちたいと……。
私はもう妻が落ちるのに耐えられなくなって……はい、私もおかしくなっていたのだとは思います。縄で……縄でつないだのです……妻の脚を。部屋の柱にくくりつけて、ベランダに出られないようにしたのです。もし彼女が転落衝動に走って、とにかくあの欄干を乗り越えようとしても、縄で脚を縛られた彼女には、ちょうどそこで縄がピンと張り、落下できないようになっていました。ちょうどその長さなら、家の中で動き回るだけなら支障がありません。そうです。ベランダを乗り越えることができない長さに調節して、その縄を彼女の脚に縛り付け、縄を部屋の中の柱にくくりつけておいたのです。縄は家にあるハサミやナイフ、包丁では切れない程度に頑丈なものでしたから、もし彼女が縄を切ろうとしても、無駄でした。そうすれば、きっと落ちないだろうと……。そう思って、縛り付けたのです。それなのに、それが良くなかったのでしょうか。
彼女はもっとおかしくなってしまいました。
落ちたい、おちたい、オチタイ……。
ずっと、ずっと言っていたのです……。
しきりに。
いつまでも、ずっと。
ある日、あの団地の門を通って戻ってくると、自分の部屋のベランダから必死に乗り越えようともがいている妻がいました。髪を振り乱して、目も充血させて……とにかく落ちようとあがく姿があったのです。もちろん縄が彼女の脚を縛っていましたから、それ以上先へは進めません。しかしそれでも、妻は必死に落ちようとしていた。その頃には、他の団地の人たちも妻を異常とみなして、誰も私たちの相手をしなくなりました。ベランダで妻がわめいても、迷惑そうな顔をするだけで干渉はしないし、あいさつだってしてくれません。きっと、私たちを見て見ぬふりしていたのでしょう……いないものとして扱うかのような、そんな感じでした。
だからその日も、そうだったのかもしれません。
落ちたい……おちたい……オチタイ……。
そして、二年前のあの日がやってきました。
ずっと言い続ける妻を、部屋に一人にしたのがよくなかったのだと思います。
私がある日団地に戻ると、妻がベランダから落ちて、血を流して死んでいました。縄は切られていたのではなく、引きちぎられていました。妻の指を見ましたが……爪は剥がれ、皮もえぐれていました。縄で縛って、これでもう落ちることはできないはず。そう思っていました。しかしそれでも妻は、自分の手で縄を引きちぎり、やっと解放されたそのままの衝動で、ベランダから落ちた……落ちたのだ……そう、悟りました。私は妻の死に、おぞましい執念のようなものを感じました……落ちたいと言い続けた妻が、落ちた……あの頑丈な縄を、自分の指先で引きちぎるほどの、執念…………私には、理解できませんでした。正直、ほっとしています。狂っていく妻を見ているのは、耐えられませんでした……それに、きっと私もとても追いつめられていたのだと思います。あのままだときっと私も、壊れてしまっていた……そう、ですね……どうしようもなかった。そうかもしれません。
あの団地を引っ越してしまった今でも時折、あの団地に立ち寄って、妻のことを思い出します。今でもあの団地の人々は、妻のことをなるべく思い出さないようにしているようです。妻の噂を聞きつけた人が団地に行っても、何か適当な言葉で曖昧にしているようです。もう完全に、いなかったものとしてみなしているのでしょう。ええ、それがいいと思います。
……なんですか?
妻を見た人がいる?
いつのことです…………昨日……夕方、ですか。
あの団地で……あのベランダで?
男の子が……見た……?
おかしいですね。
妻は二年前に落下して、すでに死んでいるというのに。
では、その男の子が見たという女は、いったい誰なのでしょう……?