アフタースクール・ティータイム
恋を手放した彼とそのクラスメイトのお話。
はぁ。
放課後の教室。ついた溜め息が予想以上に重くてさらに滅入った。
俺の目の前に広がっているもの。見えるのは見たくもないグラフと言葉。
2週間前にやった模試の結果だった。
第一志望:E
何度見ても変わらない。変わるわけがない。
俺は再び溜め息をついた。
「あ、速水くん」
「あ……」
嫌なところを見られたと思った。隣の席の山本静。
いつも名前のとおり静かな感じ。隣なのにあまり話した記憶もない。
彼女はつかつか、と俺の隣(この場合彼女にとっては自分の席、だな)に近付いて机の中を覗いた。
忘れ物でも取りに来たんだろう。俺はさっさと帰ろうと思って結果の書いてある紙を鞄の中にしまった。
席を立とうとして顔を上げて驚いた。山本が席に着いていた。
そしてこっちをじっと見ている。
「……何?」
「え?あ、うん。何か考え事してたのかなって思って」
「や、別に、そんなことは」
「そっか。1人で残ってるからもしかしたら、って」
ああ。
俺はこんなに普段関わりのない女子にまで見抜かれるほどに落ち込んでたのか?
自分のことながらその不甲斐なさに苦笑いする。
そうしたら、山本が鞄の中から水筒を出して、中のを注いで俺に差し出した。
「飲む?美味しいよ、これ」
「え?あ……じゃあ、うん。ありがと」
山本がにっこりと笑った。
目の前で女の子が笑う顔を見たのは久しぶりな気がした。
「俺さ、前に付き合ってた子がいたんだ」
「……うん」
「その子がこの前、俺の弟と付き合い始めたって聞いた」
何で山本にこんな話をしてるんだろう。全然何も関係ないのに。
そう思いながらも口は止まらなかった。
手の中で水筒の蓋を転がしながら言葉を紡いでゆく。
「やっとか、って思った」
「……?」
「俺さ、気付いてたんだよ。付き合ってる頃から智史が絵理のこと好きだって。だからなるべくあいつに会わせないようにしたけど、やっぱ無理だったみたい」
そう。無理だったんだ。
智史には俺にない真っ直ぐさがある。強く強く人を惹きつけて止まないところが。
俺は弟ながらあいつのそれを恐れていたところが昔から少なからずあった。だけど別段俺に関係ないところでそれを発揮していたから良かった。これまでは。
だけど、中学を卒業するくらいから変化し始めた。
小さい頃からやってきたサッカーであいつはめきめきと伸び始めた。
ポジションが違ったから良かったようなものの、もし同じだったら絶対に負けてしまっただろうと思う。
そんな小さな軋みが、まさかこんな形で俺にぶつかってくるなんて。
「俺の知らないところで智史が絵理に会えるようにタイミングを計り始めたんだ。そして、それに気付いたときにはもう遅かった」
絵理は智史のその真っ直ぐさに、俺に後ろめたさを感じながらも引き込まれていった。
そんなの見てたら分かるさ。だって俺は絵理のことが好きだったんだから。
それまでは出てこなかった智史の話が俺と2人でいるときまで出てくるんだ。
俺はどうしていいか分からなかった。
そしてある日、智史に言われた。絵理のことが好きだと。俺の彼女だと知っていて、でも好きな気持ちは止められないのだと。
もう、そのときの俺は心の中で「とうとう来たか」と思うくらいに冷静だった。
「それで、絵理と別れたんだ。俺と別れることで絵理があいつと付き合えないように。まぁそこまで絵理のこと好きじゃなかったのかもしれないけど」
ほらな、俺って最低なやつなんだ。
そう言って笑った。もしかしたら苦笑い気味になっていたかもしれない。
「そうやって絵理も智史も傷つけばいいって思ってた」
だから、俺は。
2人の気持ちが分かっていながら、想いを離すことが出来ずにいただけなのに。
その後の俺は散々で。
3年の夏を前にして部活を辞めた。理由は受験勉強のため。
それもあるけど本当は、弟を見つめる彼女を見たくなかった。
俺の前で意気揚々と輝く弟を見たくなかった。
それでさっさとサッカーを辞めたのに。
その代わりにすべき勉強でも、俺はこの時期になってE判定なんてくらってる。
アホだな、俺。
だんだんあまりのアホらしさに聞いてる山本が可哀想になってきた。
「悪い、こんな話。聞きたくなかったろ」
「……速水くんは、優しいね」
「え?」
「速水くんは、優しいよ」
何を言われてるのか分からなかった。
この話の流れでどうやったら俺が優しいやつになるんだ?
俺はじっと山本を見つめた。
「速水くんは、優しい」
繰り返されるその言葉。今の俺から最も遠い言葉。
だんだん腹が立ってくる。
「俺はっ……俺は、優しくなんかない。言っただろ、あいつらが傷つけばいいって思ってたって」
「でも……でも速水くんは、」
「……何だよっ」
いらついた。
山本の中ではまるで俺は聖人君主かなんかみたいに聞こえてくる。
ほとんど何も知らないくせに。
八つ当たりだって心のどこかで分かってたけど、そう思うことしか出来なかった。
「傷つけばいいって思ってても、きっと速水くんが一番傷ついてる」
「……っ」
驚いて彼女を見つめた。
何を……言って。
「だって速水くんは沖田さんのことが好きだったんでしょう、本当に」
「き、聞いてたのかよ。俺はそんなに絵理のことなんてって―――」
「ホントにそうだったらそんな顔しないよ。それにずっと1人でそれを抱えてる」
「山本、俺は別に、」
「だから速水くんは優しいの」
そう言い切った山本。
俺の全てを見透かすようなその瞳。もらった紅茶と同じ薄茶色。
俺はもう、何も言えずにその瞳を見つめることしか出来なかった。
*
「なんてね、へへ、最低って言うのは私みたいな人間を言うんだよ」
またしても分からないセリフ。
山本の、どこが最低?
俺は彼女を凝視する。
「知ってたの。速水くんが沖田さんと別れたことも、沖田さんが弟くんと付き合ってることも」
俺は呆然とする。
「でも速水くんから聞きたかったんだ。もし速水くんがそのことで落ち込んでるなら、私がそれを聞いて、励ましたいって思ってた」
それは、どういうことだろう。
山本がここへ来たのは。
紅茶を差し出してくれたのは。
……もしかして全部。
「……正直言うとね、速水くんが沖田さんと別れたとき、心の中で喜んじゃったんだ」
「え……っ」
「驚く、よね、普通。……うん。ごめんね」
「いや……」
思考回路が混乱していく。
ちょっと待ってくれ。
それってどういう。
それって、それって本当にもしかすると……。
「今日も速水くんが模試の結果を見て、それでそのまま残ってるの知っててわざと忘れ物したんだ」
ね?最低でしょ、私。
そう言って笑った山本は、笑っているのに泣きそうで。
そうさせているのは、誰でもなく俺で。
「ごめんね、本当に。何言ってるんだろ。帰るね。邪魔してごめんなさい」
返そうと差し出しかけていた蓋を引っ込める。
それを見て山本の目が驚いたように見開かれた。
「もう1杯ちょうだい」
「え?あ、あの」
記憶を総動員して考える。確か山本も南城大志望だったはず。
気付いてしまった。
俺、今までこんな風に丸ごと自分の気持ちを誰かに話せたことなんてなかった。
話してるときは鬱屈とした気分もいらいらした気持ちもあったけど、でも今は、話せたおかげでやっと終われそうな気がしている。
それがもし、目の前にいる彼女のおかげだったとしたら。
「……俺、山本ともっと話してみたい」
素直な気持ちでそう告げる。
彼女の頬がピンクに染まる。
よく見たら可愛かった。
今までは自分に自信なんてなくて何でも中途半端だったけど、それでもまだこれからだって俺は俺で居続けなきゃならない。だったら少しでも変われるものなら変わりたい。
彼女の隣でだったらそれが出来る気がする。
だって初めて全てを見せられた相手なんだから。
嫌な部分を見てそれでも俺のことを「優しい」と言ってくれる彼女がいれば、きっと本当に優しい人間になれる。そんな気がする。
だから、もっと山本と一緒にいたい。
そして願わくは俺だけじゃなく、彼女にも俺といて少しでも幸せな気分でいてもらえたらと思う。
そんな恋に出会った、冬の放課後。