図書室で逢いましょう
図書室に通い詰める女の子と窓際の彼のお話。
静かにドアを閉める。しんとした空気。穏やかな時間。
顔を動かさない程度に周りを見やる。今日はちょっと混んでるなぁ。
夏休みの学校の図書室なんて、ほとんど受験生しか使っていない。
2年の私がなぜそんなところに来ているかと言えば、勉強するため。
偉いでしょ?……と言いたいところだけど、実は正反対。
1学期部活を頑張りすぎて、ちょっと成績が悪くなっちゃったからなの。
顧問の先生ったらヒドくて、あれだけ頑張ってるんだからちょっとくらいと思うのに「成績悪かったから追課題なー」だって。
しかも、「休み明けの実力テストで平均以下だったらレギュラー外すぞ」のオマケ(と書いて『脅し』と読む)付き。
ただでさえ毎年宿題が終わらなくて最後の数日はひいひい言ってるのに、勘弁してほしいよ。とほほ。
それで私は考えた。どうせ部活は平日は午後からだし、家にいたらだらけて追課題どころか宿題も危うい。だから思い切って午前中から学校に来て勉強しようと。
だってあんなに頑張って掴んだレギュラーの座、勉強の不出来で手放したくなんてないもん。
それで私は夏休みに入ってすぐ、ここに来始めたってわけ。
クーラーもそこそこ効いてるし静かだし、誘惑されるようなものは何もない。その結構いい環境に俄然やる気を出して一週間になる。
私はいつもどおり手近な空席に座る。ちらっと窓際の席を見て英語の問題集を開いた。
うーん、うーん……わ、分かんない……。
10分後。全然進まない。
ひぇぇ、何かいつから私ってこんなにバカになっちゃったのかと思うくらい難しく感じるんですけど。と言うかこの一週間で3ページって自分でもありえないと思う進度だよ。うえーん、これじゃあ宿題さえ終わらん……!
そのまましばらくシャーペンを持ったまま問題集と睨めっこ。関係代名詞って何。「~というところの」って……?理解出来ない!
John?who、……ああもうっ、この際ジョンが何しようと私には関係なーいっ!!
ぱたん。シャーペンを置いた。
ダメだ、これじゃ図書室に来てる意味がない。何かこれが分かる参考書でも探そうっと。
私は席を立った。
語学関係の本が置いてある棚に近づいてゆく。ちら。また窓際の席を盗み見る。
思わず立ち止まってしまっていたことに気付いて、慌てて棚に寄った。
もう一度棚の奥からちらっと見てみる。うん、間違いない。彼だ。
実は私がこんなに足繁くここに通う理由はもう1つある。それは、窓際の彼を見るため。
あ、「窓際の彼」って言うのは、えーと、いつも私が来ると窓際のあの人が座っている席で勉強している人のことなんだけど。名前も何年生かも知らないの。あ、ストーカーじゃないからね?何て言うのかな、ちょっとした心のオアシス、みたいな。
彼も毎日ここにいる。私が来るよりももっと早くに来ていて、いつも窓際のあの席で一人静かに本を読んでいる。
最初はね、受験生だと思ったんだ。でも最近は違うんじゃないかなぁと思い始めてる。だって彼は勉強しにここに来ているわけじゃないみたいだから。いつも文庫本を読んでいるし、この時期受験生だったら本なんか読んでいる暇ないだろうし。
高校生にしてはちょっと落ち着いた横顔。本を読むときの伏せがちな瞳。
ある日突然気に止めてしまったら、それ以来ここに来るたびに彼を探すようになってしまった。
*
お盆前の図書館開放最終日。じりじりと照りつける太陽はやっぱり強かったみたいで、図書館に入ったらどーっと汗が噴き出した。
タオルでそれを拭うと、私は席に着こうと図書館の中を見渡した。
……あれ?
そこにいつもいた彼は、いなかった。
何だ、いないのか。ちょっと残念だな。まぁでも彼にも用事があるんだろう。
それなら。
ちょっとした好奇心というか遊び心というか、彼がいつも座っている席に着く。何だか新鮮。ドキドキする。
けれど参考書を開くと、またアルファベットにうなされ始めてしまう。そうこうしてるうちに私は自分の世界に入っていった。
そのうち誰かが目の前に座る。
今日そんなに混んでたっけなぁ。ま、いいか。
かりかりかり、ペンを進める。……って進んでないけど。
この数週間、毎日頑張って続けてはみたものの、悲しいかなちっともはかどらない。そんなに1学期中勉強おろそかにしたかなと考えて、でももし夏休みこうして勉強していなければそれにさえ気付けないまま2学期に入っていたかと少し恐ろしくなった。
苦手な関係詞。限定用法とか意味分からないし。仮定法とかも苦手だけど、関係詞は特にダメかも。
「ここからここまでをカンマでくくると分かりやすいよ」
え?
突然頭の上から声がして驚く。
顔を上げると、そこには窓際の彼がいた。
……ええっ?!
な、何で。
私は目を見開いて絶句した。
「あ、ごめん急に。何か唸ってるみたいだったから」
うぎゃあ。き、聞かれてた……!
もう何を言われたかすら分からない。ただただ熱くなっていく頬を俯いて押さえた。
「あの……大丈夫?」
え……。
ちらっと顔を上げると、そこには。
「うわあっ!」
今度こそ声が出た。
だだだって、目の前にはほんの10cmくらいの距離で俯いた私を覗き込んでいる彼の顔があったんだもん。
すると突然手が伸びてきて、柔らかく私の口を塞ぐ。
え、ええ……っ?!
「図書室では静かにね」
「……っ」
手のひらで口を塞がれたまま、こくこくと頷く。それを見て彼は笑顔になった。
そして「君、面白いね」と呟いて、私を見た。
そのときの私は、それはそれは即心臓が止まってしまうというくらいに放心していた。
だってこの夏毎日見てた人がこうして私を見て笑っていて。
手のひらから確かに伝わる体温があって。
彼が手を外してくれたときにはもう、きっとのぼせてしまっていたと思う。
それからというもの、何を打ち合わせたわけでもなかったけれど私は毎日彼から英語を教わるようになった。
*
夏休み最終日。
初めは絶対に終わらないと思っていた宿題も課題も気付いたら終わっていて、更には2学期の予習まで出来てしまっていた。
もう全部彼のおかげ。物分りの悪い私に諦めもせずに毎日付き合ってくれた。彼の教え方はとっても分かりやすくて、関係詞ももうばっちり理解できるようになって。
そしてそれと同時に彼の優しさがじんじん伝わってきて、胸がいっぱいになるようになった。
それはつまり……好きということ。
そう、いつのまにか私は彼のことを本当に好きになってしまっていたんだ。
でも、夏休みはどんなにもがいたところで今日で終わり。
こうして一緒に勉強することももうないのかな。淋しくなって泣きそうになる。
もしかして2学期になっても図書室に来れば彼に会えるかもしれないから、図書委員にでもなろうかな。
ノートから顔を上げると、彼と目が合った。
「ん?どうした?」
「……いえ」
かりかりかり。今は目の前に彼がいるというのに、淋しさに押し潰されそうになってまた視線を落とした。
「よく出来るようになったね」
「はい、夏中お世話になっちゃって本当にありがとうございました」
お昼になったところで勉強会はお開きになる。
机の上の荷物をしまうと、彼は私に微笑みかけてくれた。
「部活、頑張ってね」
「……はい」
無理やり笑う。
いっぱいお世話になって何もお返しできないけれど、せめて憶えておいてほしいもの。
上手く笑顔が作れていたかは分からないけれど、でも必死に笑った。それなのに返って泣きそうになってしまって困った。
「あの……っ」
「うん?」
「名前を……教えてくれませんか……っ?」
精一杯の勇気を振り絞ってそう訊ねた。
この半月くらい、ずっと名前も知らないままだったことに昨夜気付いた。
バカみたいだけど、でも、そんなこと全然関係ないくらいに2人の時間は心地良くて、名前なんか知らなくても平気だった。
でも明日からは。
もうこうして会うこともほとんどないと思うから。だからせめていつかまた会えたときのために、名前だけは教えてもらおうって。
そうしたら、彼は驚いたような顔をした後、ちゃんと教えてくれた。
「北村薫。そうか、教えてなかったね。君は?」
「西田杏です」
「杏ちゃんか。可愛い名前だね」
とてもとても優しい声。いつもこの声が聞けることが嬉しかった。
抑えていたのに途端に込み上げてくる想い。涙が滲むから、俯いた。
「また……また図書室で会ったら、話し掛けてもいいですか?」
「え?」
「あ、えっと、その、北村さんが嫌だと言うならそれでもいいんです……っ、あの、でも……」
どう言ったらヘンに聞こえないだろうか。
それだけしか考えられなかったけれど、口から出たのは不審に思われるような言葉になってしまった。
「“This is how we can become acquainted with one another.”」
「……え?」
突然聞こえた英語。ビックリして顔を上げる。
「な、んです、か……?」
「ヒミツ。この意味が分かったらまた、図書室においで」
北村さんは笑った。
*
新学期。あれからすぐ彼が何て言ってたかよーく思い出して、それで必死に調べた。
苦手だった関係詞。でもそんなことで諦められない。
もしかしたら。本当にあの文の意味が分かったら北村さんにもう1回会えるような気がして。
この夏毎日のように図書館に勉強しに行って、さらには家でまで辞書を開いていた娘にお母さんはビックリしていた。「そんなに勉強好きだった?!」なんて、ちょっとヒドイよね。
産休代理の先生の人気で突然ものすごい倍率になってしまった図書委員。必死に手に入れた。
だって、分かったの。あの言葉。それは―――。
「先生!」
放課後。ガラッと図書室の扉を開けて駆け込む。ゆっくりと振り返ったその人。
「杏ちゃん、いらっしゃい」
「ひどいよ先生!何で教えてくれなかっ―――」
ゆっくりとその温かい手のひらで口を塞がれて、私は先生をじろりと見る。
「図書館では、静かにしましょう」
誰もいないのに、そんなことを言う先生。
私があんまり恨めしそうに見つめているからか、先生はかすかに笑った。
そっとその手のひらが頬に移動して、ぴったりと添えられる。
「『こうしてお互いよく知り合えた』よね?」
「もうっ」
先生はこれ以上ないほど優しく笑った。