矛盾だらけのこの想い
揺れる乙女心と元カレの弟くんのお話。
「来ないで、来ないでったら」
「絵理さん、」
追われている。やっぱり来なきゃ良かった。
そうやって今更いくら後悔したところでもう遅いことに気付いていた。
*
「絵理さん」
私をそう呼ぶ声はいつからこんな風に聞こえるようになってしまったのだろう。
前はただ、篤史くんの弟だったはずなのに。
速水智史くんとは、お兄さんの篤史くんを応援に行ったグラウンドで初めて会った。
似てないな。それが第一印象。
それからいつも私は、私の中の智史くんを、篤史くんを基準に「これは同じ、あれは違う」と無意識的にくくっていた。
声が似ている。けれど、笑う顔は違う人なんだと感じさせられた。
サッカーが好き。でも篤史くんはDFで、智史くんはFWだった。
智史くんとはその後もちょくちょく顔を合わせた。
それは学校でだったり、篤史くんの家でだったりしたけれど、いつも隣には篤史くんがいた。当たり前と言えば当たり前。私は篤史くんと付き合っていたんだから。
そんな風にして自然に知り合いになった私たち。
たまたま廊下で2人、すれ違うときなんかに声をかけるくらいの気持ちを持つのに時間はかからなかった。
結局篤史くんとはたった3ヶ月しか続かなかった。
お互い、ううん、少なくとも私はとても彼のことが好きだった。
それなのに、「好き」という感情は難しくて、一緒にいることが上手くいかないこともあるとその時初めて知った。
小さな綻びは気付けばとても大きくなっていて、お互いの気持ちは心の隙間から砂のように零れ落ちていった。
さよならしたのは去年の秋。
だからもう、本当に全てが半年も前のこと。
それなのに、智史くんは未だに私の目の前に立っている。
智史くんのあの笑顔だけがあの頃と何も変わらない。
*
どうして来てしまったんだろう。
そう思うのに、私はグラウンドに立っていた。智史くんと初めて会った場所。
ここまで来てしまって、私は何をするつもりだろう。
自分でも分からない。分からないのにこうせずにはいられなかった。
ブロック代表の座を賭けて智史くんが戦っている。
そう思うだけでここに来ずにはいられなかった。そんな高校3年の夏。
矛盾している。
平穏な生活を過ごしたい。静かな気持ちで暮らしたい。
それなのに、彼の姿をいつの間にか視界のどこかで探している。好きだと言われて拒絶したのに。
それは私の中の彼は『篤史くんの弟』以外の何者でもなかったから。
篤史くんと関わりがなくなった今、智史くんとももう今まで通りというわけにもいかない。
それでも私は、彼の笑顔を鮮明に憶えていた。
*
「絵理さん」
「・・・っ」
じりじりと下がる。追い詰められている。
気付いたら、間近で呟く声が聞こえた。
目の前に彼の顔があった。仄かな体温を感じる。彼の温かさ。
矛盾した気持ちを見透かすように、彼は顔を背ける私にキスをした。
それは強引で、有無を言わさない。まるで噛み付くようなそれ。
乱暴な行為のはずなのに智史くんの優しさが伝わってくるような気がするのは、たぶん、きっと。
よりちゃんと一緒に帰る約束をしていた。グラウンドに行ったら、本当にすぐ帰るつもりだったから。
グラウンドで彼の瞳に捕らえられて、咄嗟に逃げた。
走って、走って、走って。教室までは追いかけてこないと思ってた。
2階から3階の階段を昇る途中の踊り場。
そこまで必死に逃げてきたのに、追いつかれて腕を掴まれ、逃げ場を塞ぐようにしてその両腕に囲われた。
後ろは壁。予想以上に逞しかった彼の腕。
捕まれたままの腕を振り解こうとしても、全然ビクともしない。
……目眩がした。
私があっさり捕まってしまうと、彼は私にキスをした。何度も、何度も。
もう我慢ならない、そう言われている気がした。
彼の想いが痛いほど伝わってくる。胸が痛くてたまらない。
押し殺した気持ちをもう一度抑え付けて踏みとどまるのが困難なほどだった。
「……どうして逃げるの」
キスの合間に彼の唇がそう漏らした。
私にはそれを伝える余裕がない。
「言ったでしょう、あなたが好きだって」
この人は目を逸らさない。
私が嫌がる理由、そしてその矛盾点を見透かされてしまいそうで、こんなに至近距離で見つめられるのが怖い。目を伏せる。
「俺を見てよ」
涙が滲む。彼の吐息が耳にかかる。
「どうしてそうやってあなたは―――絵理さんは俺の心に入り込んでくるの」
信じられない言葉。目を開けて必死で見つめる。
目の前の彼は苦しそうに眉根を寄せていた。
それは私の台詞だと思った。
好きじゃないはず、しかも元彼の弟である智史くんに、どうしてこんなに苦しくならなきゃいけないの。
私の心を揺さぶるのはあなたなのに。
「俺のこと、そんなに嫌い?」
強い瞳が何度も告げる。
どうして信じてくれないの。あなたがとても好きだよ、と。
いつだってそうだった。あの日好きだと言われてからずっと。
信じられないんじゃない。臆病な心がストップをかける。矛盾しているのは分かっていて、それでも尚。
それでも、嫌いと言えない私はとても卑怯だ。
「勘違いしてるよ智史くん。……好きだと思い込んでるだけ」
だって私はあなたに選ばれることなんてないの。
お兄さんの彼女だったということで、ただ記憶にとどまっているだけ。
「そんなことない」
どうして分からないのかな。
どうやったら伝わるのかな。信じてもらえるのかな。
唇を噛むようにしてそう言った彼。
「だっておかしいよ、どうかしてる。あなたに相応しい子は他にたくさん――」
「頼むよ、絵理さん」
苛立つように、低く有無を言わせない言葉。
まっすぐ射るように、彼が私を見た。
「それは俺が決めることだよ」
俯いて首を横に振った。
そのまっすぐさが胸に痛くて、見つめ返せない。
見つめ返せないのに、胸が痛くてたまらないのに、本当の心は違うことを叫ぼうとしてしまう。
ただ臆病なだけだと分かっている。傷つくことを恐れているから。
彼は篤史くんの弟。ただそれだけのはず。
だったらどうしてこんなに苦しいの―――。
「俺は絵理さんしか欲しくないよ」
この瞳に見つめられて、落ち着いていられるわけがなかった。
「……ずっとずっと好きだった」
堪えきれずにその背中に手を回してしがみつく。
顔はその広い胸に埋めた。見られたくなかった。
私が衣服を握り締めると、彼はビクッと反応した。
そしてすぐ、ぎゅうっと抱き締められる。
ああ、もう後戻りは出来ない―――。
「私も、好き」
途端に溢れ出す想い。
たったこれだけの言葉に怯えて、躊躇っていた私。
けれどもう言ってしまった。
だから後は、この手を離さないようにしっかりと握り締めるだけ。