大切なこと
モテモテな彼と内気な女の子の帰り道のお話。
「じゃ、行こうか」
「……うん」
この季節はもう、6時でこんなに暗くなってしまう。
学校を出て自転車で5分くらい走ったところを1本路地に入った、あまり人目に付かない郵便ポストの前に辿り着くと、そこにはこの夏から変わらず、自転車にまたがったまま電灯の明かりで本を読む彼がいる。
「随分寒くなったね」
ぽつりと彼が呟いた。
お互いが自転車に乗りながら話すのは、結構難しい。風であまりよく声が聞こえないから必死で耳をダンボにする。近づくのは物理的にも危ないし、精神的にも難しい。
本当はこんな風に2人、並んで走るんじゃなくて、一度でいいから彼の運転する自転車の後ろに乗ってみたいな、なんて。
そこまで思ってハッとする。……そんなこと出来るわけない。言えるわけもなかった。
*
中学のとき、隣の中学にかっこいい男子がいるとクラスの女子が騒いでいた。
それが今隣を走る彼、沢木透くん。
もちろん私は当時騒がれていたのが彼だなんて知らなくて、後から知った。
今年になって同じクラスになって以来、クラスの女子たちがお目当てに騒ぐ男子の1人として認識しただけで。
私もかっこいいとは思ったけれど、私はそうやって騒ぐ女子たちとは対極にいるような、地味で目立たなくて、友達もそんなに多くない性格だから、沢木くんとは同じクラスにいても話したことすらなかった。
それが劇的に変化したのは夏休み前の7月のこと。
文化祭に向けて所属している手芸部も展示をすることになり、その頃から帰りが1時間遅くなった。
手芸部のメンバーはほとんど電車通学で、自転車は私1人。いつもなら違う部活の、中学からの同級生と一緒に帰ってたんだけど、それからの私は仕方なく1人で帰ることになってしまって。
ある日、あの路地を曲がった方が早く家に着くかもしれない、と突然思い立って、ふと路地を曲がってみた。そうしたら、そこで自転車に乗っていた沢木くんとぶつかりそうになってしまったの。
本当にぶつかったわけじゃなかったんだけど、私はびっくりしてしまって、そのせいでよろけてその場で自転車ごと横転。
「ごめん、大丈夫?」
「あ……はい」
それが、彼との初めての会話だった。
それからは、帰りが同じ時間だってことで何となく並んで自転車を走らせるようになった。私としては正直、どうなってこんなことになってるのかも分からないような状態。
ただ、学校から一緒に、という沢木くんの申し出は断った。だって、こんな風にして一緒に帰るのを誰かに見られたら、どんなことを言われるか分からないから。
友達も少ないような私と、人気があっていつも周りに友達がいるような沢木くん。釣り合うはずがないもんね。本当は、彼が1人で帰っているということすら驚きだったくらい。
それでも、夏休み中も一緒に帰って、お互いの部活のことだったりクラスで起きたことだったり、趣味の話しだったり、その30分はいろんなことを話し合った。毎日楽しかった。
そうしていつしか帰りを楽しみにしている私がいた。男子とこんなに話が出来るんだ、と自分のことながら驚いてみたりして。
だって個人的にこんなに男子と話すことなんて、今までなかったから。
そんなこんなであっという間に夏休みを過ぎて文化祭を迎えて、いざこれから帰りは早くなるから一緒に帰れなくなるな、とふと寂しくなったとき、今度は修学旅行の実行委員に選ばれてしまって、さらに帰りが遅くなった。
だから私はそのことを沢木くんに告げたのだけれど。
「待ってるから。そうしたら一緒に帰れるだろ?……それから、もし良かったら俺と付き合ってくれませんか?」
何と彼はそう言って、はにかむように微笑った。そして、今もこうして2人、並んで自転車に乗っている。
不思議だな、と思わずにはいられない。だって、あの沢木くんと私が、だよ?
一緒に帰るだけでも私にしたら夢みたいな話なのに、『付き合って』だなんて。しかも沢木くんから。
だからあの日から、路地を曲がる瞬間が怖くなった。もしかしたら、今日はもう彼がいないかもしれないと考えずにはいられないんだもの。
そして毎日、変わらず私が路地を曲がってくるのをポストの前で待っていてくれる沢木くんを見るたびに、胸が痛くなる。この夢みたいな毎日は、いつまで続いてくれるんだろうって。
後ろ向きって思われるかもしれないけど、仕方ない。口惜しいけど本当のことだ。
どうして沢木くんが私に向かってそんなことを言ったのか、未だに全然分からない。けれど私は少しでも一緒にいたくて、このままでいたくて、何も聞けずにいる。
そして最近では、「付き合って」っていうのは、「一緒に帰る」っていうだけの意味かもしれないなんて思ったりもして。
だって、学校での私たちには全く接点がない。ただ同じクラスというだけ。クラスの子たちだって、私たちがこんな風にして一緒に帰っていることを知ったら、目を真ん丸くして驚くに違いない。
それに大体、「好きだ」とも言われたこともないもの。
世の中の基準から言えば、あまりにも「遠い」カップルだよね。
「あ、そうそう、来週からは俺も帰り遅くなるんだ」
ふいにそう言われた。
え、と思って顔を見ようとしたけれど、さすがにこの暗さじゃどんな顔をしているのかはっきり見えない。
「元木さん、いるだろ?彼女に、仕事手伝うように頼まれちゃってさ」
一緒に帰っている、本当ならそれだけで満足しなくちゃいけないって分かってる。
それでも、人間ていう生き物は、一度欲を出すとキリがないみたい。こうやって一緒にいるそばから悶々としてしまう。
元木さんは、沢木くんと同じバスケ部のマネージャーをやっている子で、どちらかというとクラスでも派手めの部類に入る女子だ。
同じクラスということもあって、普段から沢木くんと仲良くしているみたい。
そういうことは知りたくないのに知っている。もちろんその中に割って入るなんてことは出来ないくせに、気持ちが塞いで無言になってしまった。
「安江ちゃん?」
「……えっ?あ、えっと、うん……分かった」
夜も8時近い道は、一歩先だって暗い。
これから別々に帰るようになったときのことを考えると、私が進む先はまるでその闇の中のようだ。
じゃあね、と言っていつもの道で別れる。沢木くんはずっと、家まで送ると言ってくれてるんだけど、そんなわざわざ遠回りさせたら悪いから断っていた。
ペダルを踏む足に勢いを付ける。振り向いたり出来ない。
……私たちって、本当に付き合っているのかな。
ぼんやりと霞んで見えるお月様に訊いてみても、答えなんか返ってくるはずもなかった。
*
いつもの路地まであと少し。
きっと今日こそ、彼はいない。昨日、遅くなるって言っていたし。
心持ち深く息を吸って、曲がり角に差し掛かる。
「聞いて聞いて!園子が沢木くんに告ったって!」
昼間、そんな衝撃の事実が耳に入ってくるのを、私は意外にも冷静に受け止めていた。教室で、仲のいいよりちゃんと2人でご飯を食べながら。
私と沢木くんが付き合っているということを知っている人は誰もいない。誰にも、よりちゃんにすら言えなかった。言わば秘密の恋。
だから、あれだけかっこいい沢木くんが告白されたって不思議じゃない。
そっと目を閉じた。いつもそうだった。
誰かが彼のことをかっこいい、好きだ、誰々ちゃんが彼に告白した、そう聞くたびに目を閉じて、自分の中に渦巻くものを押しとどめる。
ぎゅっとつぶった瞼に力を込めたら、今この場所で泣いてしまわずに済みそうだ。
―――えへへ、全然平気なんかじゃないじゃない。
こんなに私、沢木くんのこと……。
勢いを付けて目を開けると、震える手をごまかした。
沢木くんから離れられるように、準備をしなきゃ。
ふっと風を受けて路地を曲がった。
……いない。
いなかった。やっぱり。
考えが命中したのが何だか無性に可笑しくなって、軽く笑ってみる。
そうだよ、これが現実。
こういう日が少しずつ積み重なっていって、私たちは離れていくんだ。
「安江ちゃんっ!!」
え……?
思わず足がペダルから落ちる。止まらざるを得なくなって振り向くと、そこには前髪が風でめくり上がってしまっている沢木くんがいた。
信じられなくてぼうっと見つめているうちに、その姿がどんどん近づいてくる。
そのまま数秒。
今、目の前に、自転車に乗った彼がいる。
「あ、あの、今日から遅いんじゃ……」
「待っててくれないの?」
「え、だって元木さんと、」
混乱する。沢木くんが珍しく怒っている。それもかなり。
どうしていいか分からなくて、口を噤んだ。
「……俺だけかよ」
「え……?」
悪態をつくようにぼそっと呟く。その声は風に流されて何を言っているかは聞こえなかった。
「俺、今日が初めてだったからすごい楽しみにしてたんだ、安江ちゃんが待っててくれるんじゃないかって」
え……。
その言葉の衝撃が背筋を貫く。
思わずその、怒っていても綺麗な顔をじっと見つめた。
「いつも俺の方が早くて、だから必然的に待ってたけど、今日から遅くなるって言っておいたから安江ちゃんが待っててくれるかもって思ってさ、昨日からちょっとドキドキしてたんだ、俺」
あ、別にいつも待ってたのが嫌だったとかそういうんじゃないからねと彼は付け足す。
そしてまた少しぶっきらぼうな口調に戻った。
「でも、急いで終わらせて来てみたら安江ちゃんいなかったし、落ち込みながらまた自転車漕ぎ始めたら前の方で安江ちゃんが1人平然と走ってるのが見えるし、何だよって思った」
「……」
「俺だけだったのかって思った。俺だけが2人で帰るの、こんなに楽しみにしてたのかって」
「そ、そんなこと……」
「だってそうだよ。じゃあ何で俺を待たないで帰ったの?別に、待っててくれって頼んだわけじゃないけどさ……」
「……」
沢木くんが何を怒っているのか最初分からなかった。全然考えてもみなかったことだったんだもの。
ただ、沢木くんが猛烈に怒っているのだけが分かって、少し身が竦む。
でも、沢木くんの言っていること、怒ってる理由がだんだん呑み込めてくる。
私、期待してもいいの?欲張りになってもいいの……?
知らずポロポロと涙が零れた。
「私……あの……まだ沢木くんのそばにいても、いいの……?も、元木さんは……」
「いいに決まってるよ!」
がちゃん、と沢木くんと私の自転車がぶつかる音がした。
初めて抱きしめられて、私は沢木くんの腕の中。
ばかだなぁ、俺の方が隣にいたいと思ってたよ。そう沢木くんが呟いた。
いつも私の気持ちが見えなくてもどかしかった、とも。
私は沢木くんにしがみ付いた。この気持ちがもう離れないように。
大切なことはきっとすぐそばにある。
勇気を出せば、いつでもすぐそばに―――。