温かな手
真面目な学級委員とサッカー部員の下校時のお話。
みぞおちのほうからぞわぞわっとして首の付け根がざわつく。
どうしよう。
今にもあのときのことが思い出されるような感覚。
怖い。
……どうしよう。
今日はまったくツイてない日だった。
朝からいろいろあった挙句、学級委員会があった。
委員長としては出なくちゃいけないんだろうけれど、気分としては億劫で仕方なかった。
それはこのどんよりした天気のせいだとも思う。
そしてとどめ。
委員会が終わったらとっとと帰ろうと思っていたのに、先生から提出するように言われていたプリントがクラス全員分なくて、その1人のために男子バスケ部まで取りに行ったんだから。
帰る頃にはすっかり外は真っ暗だったし、その上自転車置き場に走ったらタイヤが切られていた。
だから私はげっそりとしながら自転車を押して帰る。
途中までは待っていてくれた里奈ちゃんと一緒だったから良かった。
けれど、そこからは1人。思わず鳥肌が立った。
公園前の信号に差し掛かる。ごくんと唾を呑み込んだ。
数日前、ここで変な男の人に会った。
その日もたまたま帰りが遅くなってしまったときだった。
とんとん、とんとん。
信号待ちをしているとき隣からそう肩を叩かれたから振り向いたら、知らない男の人だった。
にやり。
ぞわっと寒気が走った。
どうしよう。どうしよう。
そう考えている間にも、その人は私の肩をとんとんと叩き続ける。
怖くて。もう二度と、その人の顔が見られなかった。
早く信号が変わることだけを願った。早く―――!!
信号が変わるなり、私は全速力で自転車を漕いだ。
それ以来ここに来ると、晴れていても明るくても、どうしてもその人の肩を叩く感触がするような気がして怖い。
帰り道はここしかない。変質者注意の看板。
私はここを通って帰るしかない。
でももし、もう一度会ってしまったら。肩を叩かれてしまったら。
気持ち悪くなりそうだった。
特にこんな運の悪い日は、嫌でも何かが起こりそうな気がするから……。
「おい」
「ぎゃあっ」
私は反射的に座り込んだ。手放してしまった自転車は派手な音を立てて倒れてしまった。
涙が零れる。頭を抱えて、ぞわぞわするみぞおちからの感覚を呑み込む。ぎゅっと目をつぶった。
「お、おい、井上?」
「……」
「井上、おい」
「……え、筒井……?」
「筒井、じゃねえよ。何そんなビビッてんの」
ほら、と手を差し出されておずおずと手を出すと、思いもよらない軽さで引っ張り起こされた。
目線が同じになる。
「お前……泣いてんの?」
「へっ?!あ、いや、これは違……っ」
見られた!慌てて手のひらでごしごしと顔を拭った。
生ぬるい水で手がびしょびしょになる。
私がそうしている間に、筒井が倒れていた自転車を起こしてくれた。
「何、タイヤ切られてんのかよ」
「う……」
目が合った。
筒井とは同じクラスで、この間まで席が隣同士だった。
サッカー部員で、他のサッカー部員と同じく女子に人気があった。
けれど、実際接した筒井友大はいつも無愛想で、提出物も期限ギリギリにならないと出さないようなやつだったから、私はこの男のどこがいいのかとさえ思っていた。
確かに顔はいいかもしれないけれど。
そんなわけで、私は筒井と数々の提出物論争を繰り広げた過去を持っていた。だって学級委員だし、誰か1人でも出してくれなきゃ私が帰れないのよ。今日は林くんだったけれど。
私は、そんな天敵とも言える筒井にこんなぶざまな姿を見られてしまったわけだ。
「な、何で筒井がこんなとこ……」
「買い出し」
「あ、そ……」
「お前は何でこんなに遅いんだよ。部活なんて入ってなかっただろお前」
「え?あ……委員会。プ、プリント。足りな、くて」
「はぁ?何言ってっかさっぱり分かんねぇんだけど」
「……」
だって。筒井だと分かって気が緩んじゃったのかな、さっきまでの恐怖が途端に蘇ってきて上手くしゃべれない。
もう怖いことなんてないのに、唇が震えて止まらない。
ヘンなやつだって思われるよね。ああ、最低。
「ご、ごめ……。私、帰る。……え?つ、つつい……?」
自転車を受け取ろうとしたのに、筒井はそれを無視するように信号を渡り始めた。
私は慌てて後を追いかける。
「ちっ……ホントがたがたいってるぜコレ」
「う、うん」
「押しづらいったらねーよ」
「ごめんね……?」
え、という顔で私を見る筒井。何かこれじゃあ筒井と一緒に帰るみたいだけど……。
「……別に」
ふいっと顔を前に向けて、筒井はまた歩き出す。
「ええっと……何買いに行くの?」
「水とか」
「ふぅん……」
だ、だめだ。間が持たない。
って言うかよく考えてみれば私、筒井とは怒鳴り合いしかしたことなかった。
普通に話したことすらなかったんだ。その上こんな風に歩くなんてありえなかったんだ。
真っ暗な道を2人で歩く。タイヤが切れてるせいで、少しゆっくりめに。遠くで月が光っていた。
「お前さ、何であんなにびくついてんだよ」
「え?えーと……」
上手く誤魔化したい。
だって相手は筒井だよ。絶対バカにされるもん。
でも、目の前の筒井はそれさえも許してくれないような感じで見てくるからホントのこと言うしかなくて。
「それで、その、」
「あそこ以外の道、なかったのかよ」
「うん……」
「バーカ」
「ば?!何でよ、ひどい!怖かったんだからねっ」
また泣きそうになる。
やだな、今日の私、ツイてなかったせいで涙腺まで弱くなってるのかな。
「ああもうっ、泣くなよ」
「泣いてなんかないもんっ」
「大体こんな遅くまで残るからだろ?」
「だってプリントがっ、揃わなくて……」
あ。
まずい。筒井の顔が微かに歪む。
これは言わないつもりだったのに。
「えーと、だからね、その……」
「悪い」
「え?」
「だーかーらー、悪かったっつってんの」
「だって……今日のは筒井のせいじゃないよ……?」
「だけど俺のせいでこうなってた日もあるってことだろ?」
「……」
「これからは気ぃつける」
「うん」
ほわん。
心の中があったかくなるような気持ち。
知らなかった。筒井ってこんな風に素直に話してくれること、あるんだ。
何かちょっと嬉しい。
「行くぞ」
立ち止まっていた私に、ちょっと前に自転車を引いた筒井が呼びかける。
「ねぇ、それってつまり、送ってくれるってこと?」
「ついでだ、ついで」
「ありがと」
「ついでだって言ってんだろ?」
「うん」
少しだけ分かった気がする。筒井って、ホントは優しいところもあるんだね。
ただ、それを見せるのが苦手なんだ。なぁんだ。
やっと、私の緊張が全て解ける。
走って駆け寄ると、筒井はやっぱり無愛想な顔だった。
「あ、照れてるー」
「照れてねぇよっ」
「あはははは」
「井上もキャラちげーぞ」
「そうかもね」
筒井が私に、その温かな手を差し伸べてくれた日。
私は筒井のことを、ちょこっとだけ見直しました。