それは、たぶん
クラスメイトの子羊さんと狼くんのお話。
「なぁよりちゃん」
「な、何……っ?」
「よりちゃんってキスしたことある?」
「へっ?!」
それは担任の小出先生から修学旅行のプリントを配るように言われていて、でも私としては次の時間の英訳が微妙だったから見直したいなと思っていて、だからちょっと忙しかったときのことだった。
まさか須藤くんからそんなこと訊かれるなんて思ってもみなかったから、私は固まってしまった。
それを見て、須藤くんは大きな口を開けて笑った。
須藤拓海くん。私の隣の席の男子。サッカー部。
まさか私にこんな展開が待っているとは思わなかった。何せ、須藤くんは女子の間で密かに人気のある人だったから。
サッカー部には人気のある男子がごろごろしている。三年生の桐谷先輩はその筆頭。
そして、他に何人かいて、須藤くん。
去年のバレンタインには、次々と教室に女子が入り乱れて大変そうにしていた。
その、須藤くんが私の隣の席になってしまった。本当はクラスが二年連続で一緒になったというだけで里奈ちゃんや沙織ちゃんや絵理ちゃんにとっても羨ましがられてしまったというのに、隣の席。
私はもう、別世界にいるような緊張感を持って日々を過ごしていた。
私は榊原依子。何の特徴も取り得もない、ただの高校二年生。
だから、須藤くんのような人に声をかけられたってどう返していいのかなんて分からない。男子となんて数えるくらいしか話したことないのに。
でも、須藤くんはそんな私を放っておいてはくれなかった。
須藤の「す」と榊原の「さ」だったからという単純な偶然により隣の席になって以来、須藤くんは私のことを「よりちゃん」と呼び出した。
私の心臓は止まってしまうくらいに驚いた。
たぶん里奈ちゃんがそう呼ぶのを聞いてのことだと思うけれど、私は止めてほしかった。
そんなことをしていたら、他の子たち(特に須藤くんのファンの子たち)の目もあるし。だけど須藤くんはそんなことお構いなしという感じだった。私も「止めて」の一言が言えずに、ずるずるとそう呼ばれ続けている。
*
里奈ちゃんは桐谷先輩がとっても好きらしい。それをお昼休みに私にいつも話してくれる。
私は桐谷先輩という人をほとんど知らなかったけれど、里奈ちゃんの話で大体の人となりを理解した。
背が高くて、かっこよくて、優しい。足も速くて、サッカーも上手なんだって。
私はいつもふうんと頷いてその話を聞いていた。
けれど昨日初めて、その本物を目にした。里奈ちゃんにサッカー部見学に付き合わされたから。
確かに里奈ちゃんの言うとおり、背が高くて、足が速くて、サッカーも上手みたいだった。
練習の休憩のときに里奈ちゃんに紹介されて話もしたけれど、優しい人のようだった。
そのときちょうど須藤くんもそこへ来ていたから、会ったばかりの桐谷先輩にまで「この子が拓海のお気に入りかぁ」なんて言われてしまったのだけれど。
「よりちゃんてさー、可愛いよね」
「……っ?!あ、えーっと……」
「あははは……」
いつからだろう。須藤くんは、私に向かってそんなことばかり言うようになった。可愛いとか、触ってもいい?とか私が飛び上がって赤面せずにはいられないような内容のこと。
机に肘をついて、こっちをじっと見ながら。頬杖をついていて、その視線はずれることがない。
そんなとき、私は頭が真っ白になってしまう。
からかわれているということは分かってる。みんなにもそう言われたし。
「ありがと~」くらいの感じで受け流さないから面白がってしつこくやられるんだよ、とも。
けれど私にはそんなことは出来ない。だって、本当に頭が真っ白になって、ただ私を見て笑っている須藤くんの顔を見つめているしか出来ないんだもの。
いつの間にか私は、「須藤くんのお気に入り」と言われてしまってファンの子たちからも承認されるようになってしまっていた。
「それでときによりちゃん」
「は、はいっ」
「キス、したことあるの?」
「ええっ?!……えと、あの……」
そんなのあるはずない。だって誰かとお付き合いだってしたことないのに。
だけどそれを言うことすら出来ない。
笑って「ないよ~」と言ってしまえればいいのに、須藤くんのハンターみたいに私の返答を待つ目にじっと見つめられてしまうとそんな思考回路すら飛んでしまうのだった。
丸い瞳。少し茶っこい髪はサラサラ。笑うときゅっと口角が上がる唇。
そんな顔に見つめられてしまうと、私には黙って俯くかどもるしか選択肢は残されていなかった。
「あるの?ないの?」
「え?ええと……」
HRが始まる前の短い時間。みんないろんなことをしていて、教室はざわついている。
私はプリントをとりあえず配り終わったので席に着く。
本当はあんまり着きたくない。今回の話題に限ってこれでもかっていうくらいに引っ張るんだもん。
どうやって切り抜ければいいのか、そんなことは考えたって分かるはずもなかった。
「その沈黙は、何か言えない過去でもあるってこと?」
「え?そ、そんなこと」
「じゃあ何で?」
須藤くん、どうしちゃったの?話し方はいつもどおりで柔らかい感じで顔も笑顔なのに、何か違う。
逃げてもムダ、というような感じでどんどん追い詰められてしまう。怖いよ。
「ど、どうしたんですか?す、須藤くん、何か」
「どうもしないけどさ。……知りたいから。ダメ?」
ダメではないですけど……ううう、これって出口のない迷路ってやつなのかな?
誰か須藤くんのこの好奇心というやつを止めてください。
「で、どうなの?ここまで焦らしてくれたその答えは」
「じ、焦らす……?!そんなつもりは全然、」
「でも実際俺、焦らされてるよね、よりちゃんに」
「……」
どうしよう。焦らしているつもりなんて全然なかったよ。でも須藤くんは焦らされてるって言った。
怒ってるのかな。
「……あ、ありませんけど」
「あ、そう。ないんだ」
「は、はい……」
良かった。これで終わる。
そう思って英語の教科書とノートを机の中から出そうとした。
「じゃあしてみる?」
幻聴?そう思うのが普通だよ。
してみる、って。どういうこと?
私はまたしても呆然とした顔で須藤くんの方を見た。
「どう?」
どうって言われても。
須藤くんは相変わらず頬杖をついたまま笑顔だった。
机の上には何にも置いてない。
英訳の宿題終わってるのかな。なんて、あまりに唐突な提案に頭が回らずにそんなことを考えてしまった。
「あ、あの、須藤く……」
途端に目の前に何か白っぽいものが広がった。唇に触れた温かい感触。瞬きをする間さえなかった。
それが離れると、だんだんと目の前の白いものも遠ざかって、そしてそれが須藤くんの顔だということが分かる。
え?……ええっ?!
私は思わず唇を手で押さえてしまった。だって、え、な、何で……?
須藤くんはまたストン、と自分の席に着いた。まるで何事もなかったかのように。
今ならすぐに思い出せる。
あの感触。白い顔。頬に触れた指先。
かぁぁと頬が火照った。
だってここ、教室だよ?これから授業だよ?みんなもいるよ?
……そんなことじゃなかった。何で、キス……?
私は戸惑うばかりで、須藤くんの方にロボットのように固まったまま首だけ向けた。
「真っ赤だね、よりちゃん。可愛い」
須藤くんはまた笑顔でそんなことを言った。
急に心臓がドキドキしてくる。何だか痛いくらいに。
どうして須藤くんが私なんかにキスしてきたのかなんてこと、私には全然分からない。
けれどそれは事実であって、それが今、私をとてつもなく動揺させる。
私は何かを言おうとするのだけれど、それは全て言葉にはならずに口をパクパクさせるだけになってしまった。
そして、ここが教室で、みんながいることに再び思い至ったとき、私はさらに顔を赤くすることしか出来なかった。
唇を両手で押さえたまま、きょろきょろと周りを見る。見られていたら、どうしよう。
けれどそんな心配は要らないみたいだった。
誰も私と須藤くんとの間にたった今とんでもないことが起こってしまったことなんて少しも気付いてないみたいだった。良かった。
……なんて言ってる場合じゃない。怒らなきゃ。須藤くんに。
「す、須藤くん、あの、どうしてこんな……っ」
「ところでよりちゃん。付き合ってる人、いるの?」
私の決死の問いかけは、呆気なく流されてしまう。
さらに須藤くんは、私に向かって畳み掛ける。
私はもうドキドキのしすぎでおかしくなりそうで、その質問の意味すらすぐには理解出来なかった。
「よりちゃん?」
「い、いませんっ」
「じゃあ、好きな人は?」
須藤くんの顔を見る。困るよ。何でそんなことばかり訊いてくるの。須藤くんはにこにこ笑っているだけ。ふとその口元に目が行って、いたたまれなくなって俯いて目を逸らす。
「わ、分かりません……」
「じゃあ、もう一度キスしてみよっか」
「ええっ?!な、な……」
「そうすれば分かるよ」
「な、何でそんな……」
「それは、たぶん」
須藤くんが立ち上がる気配がする。かぁっと一気に血が沸き返るような感覚。
ひんやりとした感触が頬に優しく触れて、その瞳が私の目を覗き込む。
全部分かっているような、そんな瞳で。
「よりちゃんにこっち向いてほしいから、かな」
目を伏せる。
そのとき頭の中に浮かんだのは、里奈ちゃんでも沙織ちゃんでも絵理ちゃんでも、桐谷先輩でもなかった。
私はもうすでに、強引に須藤くんの方を向かされて捕らわれた獲物になっていたのだから。