人は何故生きるのか?
いきなり哲学者みたいなタイトルつけてますが、別に死にたくなったわ
けじゃありません。生まれたからには死ぬまで生きるさ、という考え方
は一種ニヒリズムではないか?と思っただけです。人生終わらそうと思
えばいつだって自分の意思で終結させる事が可能です。
でもそれは何かをやり遂げた人じゃなければ犬死にだという事です。
だから何かをやり遂げた人にはいつでも死んでいい権利が与えられて
いるのではないかという事です。
死は自分の物語を完結していない人にも予告なく訪れます。ですから
少しでも速く物語を更新していかなければ、生きているという事が死
という終結に脅かされる事になります。
加齢というのは決して死へのカウントダウンではないという事です。
速く物語を更新していけばそれだけ充実した生を送っている証拠で、
終結ではなく完結に近づいていると言えます。
天秤で考えれば死に重いおもりが乗せられ、秤が傾ききった時、生は
頂点に達します。それが個人の生きた証です。
死への重りが取り除かれた時、苦痛は消失しますが、生は果たして
どれだけの重さを持っているでしょうか?
若いという事はまるで生と死の側に乗せられた重りが羽のように軽く、
天秤は平衡を保つそんな状態ではないでしょうか?それには振り幅がな
く、生きるのでも死ぬのでもない宙ぶらりんの天秤。生死を考えるに
は、頂点にも底点にも遠い状態です。
病者はきっと重い重りをどちらかに乗せている状態だと考えられます。
しかしどちらかという選択の余地は与えられていません。それが精神
の病の実態ではないでしょうかね。
死ぬまで生きるさという言葉は、自由とも考えられます。
死を遠い物だと考え、生きるという事に執着していない。つまり天秤
がゆらゆら揺れていて、誰かが重りを取り除かない限り頂点にも底点
にも達しない。
ですから自由とは猶予期間の事であって、価値観が不安定である状態
にも関わらず、決定権を行使しない事、非干渉によってのみ維持され
る事だと考えられます。それは若者でも老人でも同じ事です。
生老病死という言葉は先ほどの天秤の論理で打ち破れる恐るるに足らな
い事とも言えます。そして自由とはいつ他人の干渉によって打ち破られ
るか分からない脆い概念とも言えます。