【アップ✨】2026年7月19日主日公同礼拝/讃美歌とMynoteもあります☕️
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(ユメノ記)
https://www.youtube.com/@%E6%98%9F%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%B1%E3%83%A9-v5x/videos
【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=QdcNzqgNGtI&ra=m
【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12973849749.html
聖書と讃美歌を閲覧できます。ぜひお気軽にお立ち寄りください(^^♪
聖書
『イザヤ書』(第五三章一〜一二節)
『ペテロの第一の手紙』(第一章一三〜二五節)
讃美歌〜♫
讃美歌257番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=eXaVZy_fFu8&pp=ygUV6K6D576O5q2M77yS77yV77yX55Wq&ra=m
讃美歌534
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=Ol-Mf-JVQKw&pp=ygUS6K6D576O5q2M77yV77yT77yU&ra=m
2026年7月19日 礼拝説教 聖書箇所
あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
ペトロの手紙一1章18,19節
苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。
イザヤ書53章7節
はじめに
聖なる生活において「従順な子」たちは、苦難の僕、イエス・キリストを思い起こす。
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「知ってのとおり」(18節)と、キリストの贖いによって神のものとされ、「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる」(17節)神を「父」と呼ぶ「従順の子」たちの一人とされたことの根拠を再確認する。聖餐にあずかる度毎に自己吟味をするとは、このように贖いの事実を絶えず覚え直すことと一つ。なぜなら、聖なる生活とは、キリストの唯一完全な贖いの上に成り立つことであるから。使徒は「先祖伝来のむなしい生活からの贖われた」と言う。この「むなしい生活」「行い」「生き方」とは、「唯一の神以外にいかなる神もいないことを」知る者とされた者たちが、存在しない偶像の神に仕えていた「むなしい生活」から救われたこと。「先祖伝来」とは、異邦人にとってはわかりやすい。しかし、ユダヤ人にとっても、偶像礼拝の罪は無縁でなかったどころか、イスラエルの民の歴史において繰り返された罪であった。救われてなお、わたしたちは、寄留者として、キリストの贖いの尊さを絶えず覚えるよう強く奨励される。
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「金や銀のような朽ち果てるものにはよらず」と、先(7節)同様に、復活の主イエス・キリストによる信仰と希望に生きる道が、試練の中で練り清められていく中で、本物であることが証明されることを明らかにする。「金や銀」は、実生活の中で奴隷の売買に用いられた代価の手段。キリストの贖いが、「金や銀」のように「朽ち果てるもの」ではないとは、それが、ただ一度、十字架の上でささげられた完全な犠牲であることを強調する。キリストの血は「流された」ゆえに尊いというよりも、「きずや汚れのない」「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)としてささげられたゆえに、聖と義に満ちた神の要求を満たしたことが大切。詩編49編で「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く とこしえに、払い終えることはない」(8,9節)と告白される。ただ「イスラエルの聖なる神 あなたの贖う主はこう言われる。『わたしは主、あなたの神 わたしはあなたを教えて力をもたせ あなたを導いて道を行かせる。わたしの戒めに耳を傾けるなら あなたの平和は大河のように 恵みは海の波のようになる。』」(イザヤ48章17,18節)。キリストの贖いの豊かさは、贖われた者たちの従順において明らかにされる。それは、人の思いを超えた平和の祝福として、全地を覆うもの。
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「(まさしく)キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていました」とは、神の計画においては、全人類の堕落以前にすでに、キリストの贖いが定められていたことを明らかにする。「なぜなら神は間違いなく、人間を創造する前に、人間がその完全さを長く保てないことを予見しておられたから。それゆえに、神はご自身の驚くべき知恵と慈愛に従い、失われた人類を破滅から救い出すために、キリストを贖い主と定められた」(カルヴァン)。実に「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれたものとしてお遣わしにな」った・「それは、律法の支配下にあるものを贖い出して、わたしたちを神の子となされるため」(ガラテヤ4章4,,5節)。
「この終わりの時代に、あなたがたのめに現れてくだいました」。ヘブライ人への手紙冒頭でも「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また御子によって世界を創造されました」(1章1,2節)と教えられる。御子が永遠の創造主として存在され、時満ちて、わたしたちと同じ人間となられた。しかしただの人間ではなく、罪のない御方として、「きずや汚れのない神の小羊」としてご自身を現れされた。十字架の贖いは、御子の自己啓示の極み。わたしたちは、御子を正しく知ることにおいて、完全な従順を果たす。
おわりに
キリストの苦しみと悲しみ、その忍耐は、一つの沈黙において証しされた。人を裁かず、神に訴えず、自らその不義を担われた。ここに私たちはただ一つの贖いと神の真実を認める。
(Mynote)
二〇二六年七月一九日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「第九の戒めでは、何が命じられて居ますか。」
「自分の周りの人達の名誉と良い名声を守り、咎める言葉を抑える事です。」
※「スコットランド教会新カテキズム(104)」の画像を参照の事。
(公同礼拝)
『イザヤ書』(第五三章一〜一二節)
『ペテロの第一の手紙』(第一章一三〜二五節)
この両箇所では、神様がイエス様を通して全ての人に確約して下さった、永遠の救いに就いて、その契約に就いて記されてある。
聖霊の良き導き、執り成し、心の証明を求めて。
『ペテロの第一の手紙』に就いては先週からの学びの続きにある。イエス様は神様の御計画に従い、神様からこの地上に遣わされ、全ての人の罪を贖い(清め)、その罪の内から人が救われる事が確約される為に十字架に付けられ、三日目に神様の元へ引き上げられ、全ての罪人の先駆けを示して下さった。この事により全ての罪人(人)もイエス様に従う事で罪から救われる事が確約され、天に引き上げられ、永遠の命に与る事が約束された。無論、そうした人達は、正しい信仰に生きた人(生かされた人)である。
全ての人は、この地上で目の前に、いつからでもその信仰に生かされるタイミングを得て与えられて居る。この信仰を確信する程に信じ、イエス様が人に教えた事を知る程に信じ仰ぐ事、この事が信仰に於いて先ず大事になる。
『イザヤ書』のこの箇所に記された「彼」とは唯一の救い主である、イエス様の事である。そして「主」とは天に居られるイエス様の父、唯一誠にしてキリストである神様の事である。
イエス様はこの地上にて、罪が無いのに、罪人に裁かれ十字架に付けられ、葬られた。罪人が罪の無い人を裁き葬る、これは極めて不条理の事にある。しかしこの事も神様の御計画の内に在り、又この事に依り全ての人の罪が贖われ、救われて、天に上る土台になった。
「しかし彼(イエス様)は我々の咎の為に傷付けられ、我々の不義の為に砕かれたのだ。彼は自ら懲らしめを受けて、我々に平安を与え、その打たれた傷によって、我々は癒されたのだ。我々はみな羊の様に迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主は我々全ての者の不義を、彼の上に置かれた。彼は虐げられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場に引かれて行く小羊の様に、また毛を切る者の前に黙って居る羊の様に、口を開かなかった。彼は暴虐な裁きによって取り去られた。その代の人の内、誰が思ったであろうか、彼は我が民の咎の為に打たれて、生ける者の地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りが無かったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪を為す者と共に在った。しかも彼を砕く事は主の御旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、咎の供え物と為す時、その子孫を見る事が出来、その命を長くする事が出来る。かつ主の御旨が彼の手に依って栄える。彼は自分の魂の苦しみに依り光を見て満足する。義なる我が僕はその知識に依って、多くの人を義とし、また彼等の不義を負う。それゆえ、私は彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死に至るまで、自分の魂を注ぎ出し、咎ある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、咎ある者の為に執り成しをした。」(『イザヤ書』第五三章五〜一二節)
罪は、人の側の問題にある。神様は人を創造した時点で、その罪の為に人間を滅ぼす事も出来た(ノアの時、ロトの時等を参照の事)。しかしそう成されなかった。その罪人である人間をそれでも愛され、その罪の淵から信仰に依って神様の正義の側に立ち返り、その試練を共に、人間を愛したからである。神様はご自分の姿に似せて、全ての人を創った。そして一人子であるイエス様を人の地上に遣わし、イエス様を通して全ての人に教えた(聖書の御言葉に依って教えた)正しい信仰を守る事に依り、その罪から救われる事を確約して下さった。アダムとエバの時の事を思い、また今この地上で見知り、知覚できる全ての罪による悲惨・蛮行等を悲しむ場合でも、その事は全て人の罪から出て居る事を、先ず知らねば成らない。全ての人は、先ずこの正しい信仰に立ち返り、己を反省し、神様を責める前に自分を責めねば成らない。そうせねば、正しい信仰は成らない。罪は人間が生まれ以たもの、そして人には正義と悪(罪)を選ぶ自由が与えられて居る。この地上の全ての条件下でも、この自由はその人の心に与えられて居る。人の心は、他人に支配されるものには無い。そこにはその心を持つ自分と、神様しか居ない。この「自分」の内に罪がある様に悪魔の働きが存在し、神様の側か悪魔の側かを選ぶ権利(自由)が与えられて居る。この自由を以て、人がどうするかである。人が堕落する事を、神様は予め知って居られた。アダムとエバの時でも、人間は自分の責任で堕落したのである。人間は創造されたその時点・瞬間から、必ず罪に落ち、堕落する生き物であった。しかし神様はイエス様を通し、その「人間」を愛した。この神様の愛に応える法は唯一、イエス様を通して、聖書を通して、全ての人に教えられて居る正しい信仰に依り、神様とイエス様の教えを守る事だけである。即ち、正しい信仰生活を送る(歩まされる)事に在り、人があとから作り上げた堕落の途へ辿っては成らない。その時々の自分の信仰の在り方を確かめる法は、神様と自分の間のみにある祈りである。全ての人は先ず人の俗世から離れ、心を静まらせ、神様と自分の一対一の関係に於いて反省し、思う罪の在り方を悔い改め、正しい信仰の途に歩まされる様に祈らねば成らない。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Café~
「間をとること」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/02/10
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=EdHTWhuZHac
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin?app=desktop
ユメノ記
https://www.youtube.com/@%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%A6%E3%83%A1-v5x/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
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